紛れ込んだ物 6
「どうしたのよ、これ。……魔法陣じゃない」
驚きと呆れの入り交じるシェリーの声が、沈黙を破った。
「シェリー……」
シモンがシェリーに視線を移すと、マシューとローラも弾かれたように顔を上げて彼女を見た。
テーブルに目を落としたシェリーは、俯くことで垂れ下がる銀の髪を、鬱陶しそうに指に絡ませ耳に掛ける。
そして。
表情を引き締め、厄介なものを見つけたと言わんばかりの険しい瞳で、目の前の紙を摘まみ上げた。
摘まみ上げられたものは、シモンが護りの結界と関連付けた二枚の紙ではなく、マシューがテーブルに置いた三枚目の紙だ。
「……魔法、陣?」
「そうよ」
訊き返すマシューに、シェリーは素っ気なく淡々と答える。
慌てた様子のローラは、背後に用意してあったらしい一冊の本を両腕に抱え上げる。その本をテーブルの上に置くと、シェリーとシモンの手許に押して寄越した。
「あ、あのね、シェリー。この本、孤児院に寄贈されていたお伽噺の本なんだけど……。私たち、この本に載っているような、困っている人間を助けてくれる妖精を呼び出したかったの」
シェリーの眉が、ぴくりと動いてひそめられる。
「妖精を呼び出す……、ですって?」
「ええ。人攫いが村に来るようになったのは孤児院が原因だから、閉院して欲しいって。……村の人が院長先生に頼んでいるのを聞いてしまったから。……だから私たち、この本に挟んであったおまじないの紙で、妖精を呼び出せるか試してみたの。……でも」
事情を説明したローラは、胸の前で両手をぎゅっと拳に握り、口を引き結ぶ。
本に目を落としたシモンは、小首を傾げる。
テーブルに置かれた本自体は、特に珍しくも不思議もない。昔からよくある、お伽噺が集められた本のようだ。
「……おまじないの、紙?」
シモンは、中身を確認すべく本に手を伸ばす。
頁をぱらぱらと捲っていくと、可愛らしい妖精の挿絵が散見される。
はらり――、と。
小さな力が加わり、挿絵のある頁で大きく本が開いた。
頁には困り果てた人間と、手を差し伸べる笑顔の小さな妖精が描かれている。そこに、半分に折り畳まれた一枚の紙が挟まっていた。
本の薄い紙とは、明らかに異なる材質のもの。
「それよ。その頁に挟まっていたの」
シモンがローラに視線を転じた隙に、シェリーは本の間に挟まっていた紙を抜き取った。
指で摘まみ上げた紙を翳し、目を細めて顔を近づける。
すん……、と小さく鼻を鳴らす。
「とても上質な仔牛の皮紙だわ。仔牛の皮紙は、獣皮紙の中で最も高級な部類に入る皮紙よ。それなりの財と、然るべき知識を有する人間の記した、真っ当なものね」
視覚、嗅覚、触覚を通して知り得た情報から、シェリーは手に持つそれがどんな物で、持ち主がどんな人間であったのかを推測した。
指で摘まんだ皮紙をひらひらとさせながら、シェリーは難しい顔をして考え込む――。
皮紙には円をはじめ、図形や魔法陣、古代言語などが記されている。
円の隣には、魔物を除けるための護りの呪文。
裏面には魔法陣と、儀式の手順などだろうか。古代言語が細やかに連なっていた。
――表と裏、両面に視線を走らせて、呟く。
「表と裏の情報は繋がっている。……写本の中から抜き取られて、下の者へ。知り合いから知り合いにでも流れ出たのかしら」
「ねぇ、シェリー。これって訳したもの……?」
シモンは、古代言語の上や脇にびっしりと書き添えられた文字を指差す。
表裏の古代言語と、そこに記された文字をそれぞれ黙読して、シェリーは頷いた。
「……ええ、そうね。この子たちでも理解できる文字で、呪文や儀式の手順を記したものだわ」
皮紙が、お伽噺の妖精の挿絵の頁に挟まれていたのは、偶然か。それとも何かのカモフラージュだったのか。
いずれにせよ、術の知識のない者が挿絵のような妖精を喚び出せると勘違いするのは、致し方ないことかもしれない。
事実。
マシューとローラは、皮紙に描かれていたものを忠実に紙へと写し取り、儀式を行ったのだ。
シェリーは皮紙と、テーブルの上に広げられた紙を見比べる。
「……ずいぶんと正確に写生したのね」
「小さな子供のお絵描きを見てあげていたから、こういう作業には慣れていて……」
「褒めてないわよ」
冷たい声音でぴしゃりと言い放つと、じろりと険のある眼差しでローラを睨む。
びくん、と肩を竦ませたローラから視線を落とし、シェリーは皮紙の古代言語の一部分を指差した。
「ねぇ、この部分は?」
マシューが無言で、護りの呪文の書かれた紙を裏返した。
「あ……」
裏返された紙を見て、シモンは思わず声を上げる。
紙の裏にも、文字が連ねてある。
こちらはシモンの知らない呪文。皮紙の魔法陣に添えられていた呪文だった。
「これで、全部ね」
納得のいった顔のシェリーは、確認を取る意を込めて、静かに呟いた。
マシューとローラの二人は、互いに目配せすると、沈黙を以てシェリーの問いに応えた。
テーブルの上には、お伽噺の本。
本に挟まれていた皮紙。
紙が三枚――。
それぞれ、円の描かれた大きな紙と、魔法陣の描かれた紙。
そして、呪文が表と裏に記された紙。
瞳に不快感を滲ませたシェリーが、マシューとローラの顔を順に見据える。
「あなたたち、これが理解できるの? 意味は解っているの?」
「意味?」
訳が分からないといった顔のマシューは返答に詰まった。同様に、ローラも困惑の表情で小首を捻っている。
わかるはずもない。
普通は、それらが意味を持って並べられていることすら知らないのだから。
噛み合わないことで温度差が生じ、不穏な空気が漂うのを察したシモンは、マシューとシェリーの間に割って入った。
「僕はまだあまり詳しくはないけれど、……これは喚び出すもの。ただ、この本の挿絵のような妖精を喚び出す歌や呪文じゃないよね?」
曖昧な知識をマシューとローラに説明できる範囲で言葉にしながら、シェリーに同意を求める。
辟易としたように、シェリーは小さな溜め息を零した。
「使役するための使い魔。異界に住む魔物を喚び出すものよ。ねぇ、まさか……、あなたたち。これを使って何かした?」
射るように鋭い眼差しで、マシューとローラを睨めつける。
「魔物……?」
呆然としたローラが、小声で呟く。
シモンは、顔をこわばらせるマシューにまっすぐに向き直る。シモンを見つめるマシューの瞳には恐怖の色がこびりついていた。
緊張するマシューの睫毛が、目許がわずかに震える。
マシューとローラが一度だけ見たという、黒いわしゃわしゃしたもの。
彼らが、いつ、どこでそれを見たのか、シモンはまだ聞いていない。
「……知っていることがあったら、話してもらえるかな?」
囁きかけるシモンの声に、マシューは一度視線を落として、きゅっと唇を噛んだ。
薄く口を開き、す……、と浅く息を吸い込む。
「ローラとふたりで紙に書いてある通り必要な物を、……ほとんど代用になっちゃったけど準備して。二か月くらい前にこの紙の円の上で、文字を読み上げたんだ」
マシューは伏し目がちに、魔法陣を写した紙に視線を滑らせる。
その表情が暗く陰った。
「でも、魔法陣から出てきたのは、挿絵の妖精じゃなくて、脚の沢山ある蜘蛛みたいなヤツだった」
「それが、マシューの言っていた黒いわしゃわしゃしたもの?」
「うん」
「それでそのあと、蜘蛛みたいなものは、何処に……?」
神妙な顔のマシューは、少しの間考えて、首を緩く横に振った。
「……わからない。走り回っていたみたいだけど扉の辺りで見えなくなって……。たぶん、部屋から出て行ったんだと思う」
マシューが口をつぐむと、次いで怯えた表情のローラが、おずおずと説明を補足する。
「足音がし始めたのが一か月くらい前からなの。もしかしたら、あの時出てきた黒いものかもしれないってマシューとは話したんだけど……、確信も無くて、誰にも言えていないの」
今にもかき消えそうな細い声で、ローラは言った。
「出てきたのが、名のあるような悪魔じゃなくて低俗な魔物で良かったわね。まぁ、術者の力量に見合ったものしか出てこないのだけど。……そもそも、写本から抜き取られたこの頁だけじゃ、情報が不十分なのよ。それすらもわからない、魔力もない知識もないあなたたちが、よく知りもしないものを使ってよく知りもしないものを喚び出す。本当に愚かだわ」
温度を感じさせない、冷ややかな怒りを滲ませた声音でシェリーは言い捨てる。
そして、紙に描かれた大きな黒い円を一瞥し、唇を軽く湿らせた。
「……でも、そうね。その円の中から足を踏み出さなかった事だけは、褒めてあげる」
ゆっくりと一呼吸したシェリーは、物知り顔で薄く微笑み、マシューとローラの顔を覗き込む。
シェリーの湿らせられた宝石珊瑚を思わせる鮮やかな唇が、緩く弧を描く。
細められた紫水晶の瞳が、手燭に照らされて妖しげな光を湛え、マシューとローラをひたと捉えた。
「魔法陣は『扉』。それを通して一時的に異界と繋がったのよ。驚きでもして円の中から一歩でも足を踏み出していたら――、いいえ。指の一本でも出していたら、魔物によってはその場で喰われるか、魔法陣から魔物のうじゃうじゃいる異界に引きずり込まれて、餌になっていたんだもの」
ふたりの反応を愉しむように、冷たくからかう。
マシューとローラは、さぁっと色を失い、時が止まったかのように凍りついた。
ぴん、と張り詰めた空気に包まれたふたりは、あとほんのわずかにでも刺激を与えられたら、その瞬間に崩れ落ちてしまいそうな危うさがあった。
堪えられずに、シモンはそっとシェリーを宥める。
「シェリー、それ以上は脅かさないであげて」
「脅しじゃないわ、真実よ」
笑みを消して真顔になったシェリーが、冷徹に言った。
――人間と違い、妖精は嘘を吐かない。
妖精猫であるシェリーも、そう。
学んだ知識とシェリーの言葉を一致させ、彼女の嘘がないことを確信するシモンは、真摯な顔で頷く。
「そうだね。……シェリーの言う通り危なかったと思う。それはそうなんだけれど、でも――」
ふたりは悪戯をするためにこれを使ったのではない。
「――シェリーに教えてもらって、ふたりはもう、知ったから」
これがどんなものなのかを知り、シェリーに叱られ、きつく戒められたふたりは、きっともう同じことを繰り返さないだろうから。
「…………」
シェリーはわずかに不機嫌を漂わせながらも、口をつぐんだ。
一呼吸置いて、シモンはシェリーから視線を逸らす。ぴくりとも動けないでいるふたりに、ほのかに微笑んでみせる。
「マシュー、ローラも話をしてくれてありがとう。ここにある物を僕が預かってもいいかな? 夜中に聞こえている音と関りがあるかどうか、僕の先生に相談したいから……」
少しでも気持ちがほぐれるようにと、努めて穏やかな声音で囁きかけた。
青褪めて生気のない顔をしたマシューとローラが、力なく頷いて応えた。




