幕間 ~情動~
火の入れられていない、冷たく仄暗い暖炉の前で――。
ふかふかのクッションの上で微睡む妖精猫は、優しい肌触りのリネンに頬ずりをして、額を埋める。
揺らした空気の温度が、俄かに下がったのを感じて、シェリーは薄く瞼を開けた。
銀色の被毛はふかふかと暖かで、寒さを感じることはなかったが、湿った鼻先が少しだけ冷えたのだ。
セオバルドとシモンが出かけて、三日目の夜を迎えようとしていた。
キッチンの窓に視線を滑らせると、外には薄らと霧がかかっているのが見えた。雲に覆われた灰色の空が、夕暮れ時を飛び越えて、煤けたような黒に変わっていく。
……もうじき、空は夜の闇に染められる。
玄関の扉のドアノブが立てた微かな金属音に、シェリーは、ぴくんと耳を震わせる。
開閉される扉の蝶番が軋む音に、すっと首を持ち上げた。
廊下にコツコツと響く靴音。この歩幅間隔は、セオバルドのものだ。
靴音は、いつもより少しゆっくりと踏みしめるように、だが規則正しく一定の歩調を保ち、屋内を進んでいる。
――帰って来た。
シモンがキッチンに入って来たら、暖炉に火を入れさせよう。それから、セオバルドにお茶を淹れるだろうから、一緒にブランデー入りのホットミルクも用意させよう。
そんなことを考えて、シェリーは、ふぁっと欠伸をする。軽くひと伸びして、首に結わえられた銀の鈴を、ちり……、と鳴らす。
クッションに座り直して――。
シェリーは、玄関の扉が静かに閉められる音を聞いた。
「……?」
違和感から額に皺を寄せたシェリーは、怪訝に小首を傾げる。
屋内に入ってきた靴音が、一人分しかない。
セオバルドと一緒に出掛けているはずの、シモンの靴音と気配がなかった。
そして、セオバルドの靴音はまっすぐに進み、後ろを気にする様子がない。
(セオがシモンを置いて、ひとりで帰って来た……?)
ぽつん、とそんな疑念が胸に湧いたシェリーは、窓に視線を移し、夜を迎えようとしている外の景色を見遣る。
――それだけは、ありえない。
確信をもって、シェリーは疑念を払拭した。
違和感の正体を確かめるために、シェリーは少女を模り、キッチンの扉を開いた。
扉を開けた拍子に部屋に流れ込む空気に混ざり、鼻孔を掠める嫌な臭いに、シェリーは思わず顔をしかめる。
一歩踏み出した廊下には、あの村で嗅いだ胸の悪くなる濃い腐臭が漂っていた。
眉をひそめながらも、シェリーは臭いをかぎ分ける。
(セオの匂い、……それからシモンの……?)
シモンのものと、それに混じる微かな血の臭い。
シェリーはぎくりとして息を呑み、動きを止めた。
さぁっ、と嫌な考えが脳裏を過り、ドアノブを掴む手が冷たく温度を失い、足が強張った。
腐臭は、村に滞在して染みついたもの。シェリーは、自分自身にそう言い聞かせる。
廊下に視線を這わせて、キッチンの扉の前を通り過ぎたセオバルドの背中を見据える。
両腕に抱えられている大きな――、人のようなものに気づき、シェリーは目を剥いた。
「セオ? ……シモンは?」
仄暗い廊下にある、唯一の光源。セオバルドの少し先をゆるやかに飛び、足許を照らしていた小さなカンテラが、ふわりと浮き上がる。
カンテラの灯りの下、シェリーを振り返るセオバルドの両腕に、しっかりと抱えられたシモンの姿があった。
照らされたシモンの顔は青白く、瞼は閉じられたまま。腕は力なく垂れ下がり、コートの裾から覗く指先は、ぴくりとも動かない。
背筋を冷たいものが走り、ぞくりとするシェリーは色を失う。
「何、か……、あった、の?」
貴方が一緒にいたのに。
咽までせり上がったそんな言葉を、シェリーはすんでのところで呑み込んだ。
「……」
シェリーと目を合わせず、視線を落としたセオバルドは黙りこくる。
しん……、と無音に呑み込まれた廊下で、シェリーは静寂に溺れるように錯覚する――。
魔力を探れば、セオバルドに訊かずとも、シモンの生死の確認ぐらいはできる。
だが、シェリーはそれをすることを躊躇した。
セオバルドがそばにいて、最悪の事態なんて『ありえない』という思いが全身を浸す一方で、世の中に『絶対』なんていうものが無いことを知っている。だから、『もしかしたら』という拭いきれない不安が渦を巻き、逡巡する。
……動けなくなる。
――肩でシモンの頭を支えるセオバルドは、首をわずかに傾げ、沈鬱な眼差しをシモンに落とした。
寡黙さを纏い、顔に濃い疲労の色を浮かべるセオバルドはおもむろに、ひどく重たげに口を開く。
(やめてよ……)
シェリーの口の中が瞬時に干上がり、乾いた。
聞きたくない。けれど、制止しようにも声が出ない。
視界が軋むようにして歪む。床がふわ……っと遠のく感覚に、ドアノブを掴む手に力がこもる。
……覚えのある、感覚だった。
ほぅ、とセオバルドが小さな溜め息を漏らした。
「いや……、気を張って二晩寝られずじまいだったから、疲れが出て深く眠っているだけだ。目を覚ますまで起こさないでおいて欲しい。ゆっくり休ませたい」
シェリーは零れ落ちそうなほど、大きく目を見開いた。
「…………」
一瞬にして、頭が真っ白になり、呼吸の仕方すら忘れそうになった。
セオバルドが何を言ったのか、よく聞こえなかった。
普段から物静かな彼の声は、小さなものだから……。
そもそも人の耳は頭蓋に張りついているうえに、少女の姿を模ると長い髪に隠れてしまうせいで、集音機能に乏しいらしい。
……どうも、耳が遠くなっていけない。
一度、顔を俯けたシェリーは、大きく息を吐き出した。
「……何ですって?」
息を深く吸い込み、顔を上げたシェリーは、目付きを険しくさせる。頬にかかる細い銀の髪を、片手で勢いよく後ろに払いのける。
つかつかと力強い足取りで、セオバルドのそばに寄った。
セオバルドに抱きかかえられ、彼の肩に頭を預けるシモンの顔を、凝視する。視界に入ったシモンの髪に、乾いて変色した血の跡が見て取れた。
血の臭いの原因は、これだ。
しかも、もう治っているらしく、新しくついた血痕ではない。
(紛らわしい!)
厚手のコートの上から胸の上下はわからないが、シモンは静かに小さな寝息を立てている。
――寝ている。
すぅ……、とシェリーの目が据わる。
何の反動か。怒りにも似た、苛立ちの感情が猛然と湧きだしていた。
「……本当に、寝ているのかしら」
わからないわぁ、と小さな声でシェリーは呟く。
手を伸ばしてシモンの頬の肉を軽く摘まみ、くいっと引っ張る。
ふにぃ、とリスの頬袋のように頬が柔らかに伸びた。
思いのほか伸びた頬に内心驚きながら、シェリーは眉をひそめる。
(いつも口一杯に食べ物を詰め込むから……っ)
こんなにも頬の皮が伸びるのだ! と、シェリーは声には出さずに、そう毒づく。
疲れているのか、セオバルドが一拍遅れて反応した。
伸びたシモンの頬に、驚いたように大きく目を瞠る。
「止せ……!」
「あら、寝ているかどうか、確かめただけじゃない」
涼やかな顔、澄ました声音でシェリーは言い放った。
軽く頬を摘まんで、引っ張っただけ。
抓り上げたでもなく、爪を立てて怪我をさせたわけでもない。
だから。
セオバルドがそばに置く者に『危害を加えない』という、彼と交わした約束を違えたことにはならない。
顔が変形しても目を覚ます様子の無いシモンに、張り合いの無さを感じたシェリーは、摘まんでいた頬を放す。
(驚かすんじゃないわよ……!)
胸の内で呟いた文句そのままに苦虫を噛み潰した顔をして、くるり、とシェリーは踵を返す。
キッチンの扉の前で立ち止まり、ドアノブに手を掛けて――。
階段を上がっていくセオバルドの靴音を背中越しに聞くシェリーは、密やかに安堵の吐息を洩らした。




