小さな村 6
煤煙を思わせる灰色の雲が、緩やかに形を変えつつ風に靡く。
夜空を滑る雲間に見え隠れするのは、欠けの位相にある月だ。薄雲を纏い、ぽつりと浮かぶ月は朧げに、淡くまるい月虹を作りだしていた。
月明りの乏しい、闇の深い夜だった。
夜の静寂に包まれ、村全体がひっそりと息を潜めている。
蛇女を警戒しているのだろう。
窓から灯りの零れ落ちる家は一軒もなく、声や物音の漏れ聞こえる家もない。生き物の動く気配が感じられない。
――生きとし生けるものすべてが、眠りについたかのようだった。
耳に届くのは、建物の隙間を通り抜ける風の音。
葉を落とした木々の細い梢の間を吹き抜ける、笛のような細い風の音。
さぁぁ……っ、と乾いた枯草を悪戯に撫でて通り過ぎてゆく、風の音だけ。
セオバルドの持つ小さなカンテラが、足許の地面の様子を淡く浮かび上がらせる。カンテラの大きさに見合うだけの小さな炎を頼りに、セオバルドとシモンは村の中を進む。
乏しい灯りは頼りなく、シモンの少し先を行くセオバルドの姿さえ、夜闇に呑まれて、ふつ、と消えてしまいそうだった。
不安に駆られたシモンは歩調を早め、前を歩くセオバルドとの距離を詰めた。
さらさらと水の流れる音が聞こえ、小川に架かる橋に差し掛かると、セオバルドが歩調を緩めた。
橋を渡り始めて中央まで来たところで、足を止めたセオバルドは、シモンを振り返る。
「亡くなった三人の家は、この橋から小川沿いの家だったな……」
小川の上を、刺すように冷たい風が吹き抜けてゆく。風に乗って運ばれる異臭を感じとったシモンは、眉をひそめ、周囲に視線を巡らせた。
「はい」
橋の下はぽっかりと暗く、小川を見ることは叶わない。
足許に蛇女が潜んでいたとしても、襲われるまでわからないだろう。
橋の上から動こうとしないセオバルドに、シモンは焦燥感を募らせる。そわそわとして忙しく周囲に目を配った。
そういえば……。
「先生、囮って何をするんですか?」
恐る恐る尋ねるシモンに、セオバルドは落ち着き払った口調で言う。
「ただ村を歩き回るだけでいい。三人目を殺してから二週間だそうだ……。ちょうど良く間も空いて、君の髪に付いた血も匂うだろうから、きっとすぐに寄ってくる」
流れる雲が途切れて、銀色の月が覗き、さぁっと柔らかな光が零れた。
降りそそぐ透明な月光を浴びたセオバルドの漆黒の髪が、優しく美しい艶を帯びる。
シモンと視線を重ねたセオバルドは、くすり、と笑う。すっと通った鼻梁と形の良い頤の間で、薄い唇が滑らかな弧を描く。微笑することで細められる涼しげな青い瞳は白い肌に映え、夜の闇に埋もれることなく淡い光を湛えた。
すらりと長身でありながら男性的な骨格をしているセオバルドは、女性であるシモンとは根本的な身体のつくりが違う。
――刹那、異性としてセオバルドに見惚れていたシモンは、はっとして思う。
若い男性ばかりを襲ったという蛇女は、女性である自分よりも、セオバルドの方が余程好みなんじゃないか、と。
「先生。蛇女は先生の方へと行くんじゃないですか? その……、蛇女の好みというか。被害に遭ったのはみんな若い男性だそうですが、僕は、ちょっと子供っぽく見られるし」
蛇女の好みが、若い男性だとはっきりしているのなら。
いくら魔力が希少なものだとしても、女性である自分よりも、本来の好みに重点を置くのではないかとシモンは考える。
囮をすることに気乗りしないシモンは、相談の体を装いながら遠回しに遠慮しようとした。
だが、セオバルドはそんなシモンの気持ちを見透かすように目を細め、悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「好み、か。蛇女の好みが本当に若い男性だとしたら、君のところには行かないかもしれないが……」
「じゃあ……!」
「心配しなくても、私は魔物に存在を気取られない強力な魔除けを身に着けているから。血液を搾り取るという蛇女は、血の香りを漂わせている君の方を襲う」
きっぱりと断言したセオバルドは、先程鞄から出した短剣の鞘を軽く持つ。シモンに柄を差し出し、受け取るように促す。
シモンは、脳内で想像してみる。
強力な魔除けを身に着けたセオバルドと、血の香りを漂わせる希少な魔力を持つシモン。両者を並べてみるも、蛇女がまっすぐに襲い掛かってくるのは自分の方だった。
「そう、ですよね」
やっぱり。
憂鬱に顔を俯けたシモンは、セオバルドの言葉に納得し、差し出された短剣の柄を握った。
「それに……。人の姿を半身に残している蛇女が、村の女性に成り代わって潜んでいるのなら……。若い男ばかりが襲われたのは、好みでも偶然でもなく必然だったのかもしれない」
「? ……どういうことですか?」
何か思うところがあるのか。セオバルドは、目を伏せて黙り込んだ。
答えないセオバルドから、シモンは手許に視線を移す。
「それに、これは……?」
何故、短剣を渡されたのだろう。
華奢でありながら、ずっしりと確かな質量をもつ短剣を、シモンは物珍しさから眺めまわす。
そろそろと短剣の柄を引いて鞘から抜くと、鋭利な銀の刀身が月光に冴えて、きらりと闇に浮かび上がった。
「シモン、振ってごらん」
短剣を抜いたシモンに指示し、セオバルドは一歩離れる。
「……え?」
半信半疑で訊き返したシモンに、セオバルドは微笑んで応えた。
シモンは、短剣の柄をしっかりと握る。太すぎず細すぎない短剣の柄は、掌にしっくりと馴染んだ。
言われた通りに短剣を振り抜くと、銀の刀身が月光を弾き、夜闇に一閃の煌めきを残す。
重すぎれば腕と共に身体が持っていかれ、軽すぎれば力が乗らない。だが、振り抜いた短剣はシモンの腕の力を乗せ、綺麗な軌跡を描いた。
「それはこの先、護身用として君が持っているように」
「僕が、……ですか?」
眉を寄せて困惑の表情を浮かべるシモンに、セオバルドは大きく頷く。
「そのまま攻撃しても効力はあるが、清めの術が施された短剣は、君が魔力を注ぎ込んで使えば、格段に威力が跳ね上がるはずだ」
「僕の……? あ、そっか。前に蝶の精霊に魔力を込めさせた時のように……」
シモンの魔力の性質は活性化。草木の成長をわずかに促し、他者の魔力や術の威力を増幅させる作用がある。
術の施された短剣に魔力を込めることに合点が行ったシモンは、なるほど、と感心する。
「ああ、そうだ。そして、蛇女が君を見つけて襲ってきたら、そのまま絞められてほしい」
「え!? やっぱり生餌ですか!?」
耳を疑い、反射的に考え得る最悪の事態が口を衝いて出た。
絞めつけられたら、血を抜き取られて死んでしまう。
言われたことに対して、シモンはまったく理解が追い付かない。
違う、と動じずにセオバルドは否定する。
「絞めつけられる前に結界を張るんだ。結界に巻き付いたら動きを止めるだろうから、そこを狙う。君は実戦で結界を張る訓練になるし、私は術に集中できる」
「えっ……」
呆然として立ち尽くすシモンの反応を気にすることなく、セオバルドは話し続ける。
「ただ、君の結界はまだ不安定で薄く、絞めつけられれば長くは持たないだろう。心してかかるように。私が攻撃するのよりも先に結界が持たないと感じたら、その短剣に魔力を込めて、結界の中から蛇女の喉を深く突きなさい」
「ええっ……」
短剣を渡された意図をようやく理解し、シモンは零れそうなほど大きく目を見開く。手に余る難題を言い渡されたように聞こえて、手許の短剣とセオバルドの顔を、何度も交互に見る。
顔色一つ変えない、毅然としたセオバルドの態度から、彼が本気であることが窺えた。
セオバルドにまっすぐに見つめられ、シモンは胸に渦巻く動揺も逡巡も抑え込んで、俯く。
短剣を握る手に、力がこもる。
助手であり、囮を引き受けると言った手前、シモンは無責任に役を投げ出すことはできない。
できないとは、言えない。
「身を護る術は、何も結界を張るばかりとは限らない。手段は多いに越したことはない」
そうだろう? とセオバルドに穏やかに言い含められて、シモンは、うっと息を呑む。
セオバルドが示唆するのは、きっと魔物のことだけではない。捕らえられる際に怪我を負い、セオバルドにも迷惑をかけたという強い想いのあるシモンは、返す言葉もない。
「私は少し離れるから、このままひとりで先へ進みなさい。……助手として、頑張っておいで」
カンテラをシモンに手渡し、セオバルドは今来た道を引き返していく。
月が雲に隠れて、セオバルドの後ろ姿は、あっという間に闇に呑まれて消える。
――見失う。
「せ、先生?」
シモンの手許には、遠くまで見通すには心許ない、小さな炎を灯すカンテラが一つ。
暗闇に囲まれて独り、こくり、とシモンは固唾をのむ。
持っていたカンテラが、手の震えに合わせて、カタカタと小さな音を立てた。
早鐘を打つ胸を落ち着かせるために、シモンは一度、深い呼吸をする。
シモンは、『助手として、頑張っておいで』というセオバルドの言葉を反芻する。
結界を張ることも、短剣に魔力を込めることもできる。
これから先。……ただの囮としてではなく、セオバルドの助手として肩身の狭い思いをしたくないのなら、すべきことをしなければならない。
まだ助手に付いたばかりということもあり、セオバルドは気にかけて優しくしてくれる。だが、いつまでも足を引っ張り、甘えてばかりはいられない。今、自分にできることをするのだと、シモンは覚悟を決めた。
きゅっと唇を噛んだシモンは、カンテラを持っていない利き手に短剣を握りしめる。
小さな一歩を踏み出した。




