赤髪の青年 4
薄く霧が降りて白く靄のかかる大通りを、シェリーと共に全速力で駆け抜けたシモンは、建物の脇に伸びる路地へと飛び込む。
建物の陰に身を隠し、荒い息を整えながら、走ってきた大通りの方をこっそりと覗く。
――青年が、追いかけてくる様子はない。
元々、今日は霧で視界が悪く、路地裏には殆ど人通りがない。おまけに冬の寒さもあって周囲の家の窓も軒並み閉まっていたからか、シモンが叫んだところで騒ぎにはならなかった。
ほっとしたシモンは大きく息を吐きだして、胸をなでおろす。
「……今の人、先生の知り合いみたいだけど、シェリーは誰だか知ってる?」
シモンと同様に、建物の陰から後方を注視していたシェリーが、腰を下ろして顔を上げた。
ちりん、と銀の鈴が、涼やかに澄んだ音色を立てるのを、シェリーは前足で押さえて静める。
「知らないわ。見たことのない人間よ。……私は、セオが教会に来た時に知り合って、まだ一年位だもの。あの教会にはお客なんてほとんど来ないし、出かけた時に誰かと会っているかもしれないけれど、セオは詮索されるのを嫌うのよ」
一年という期間を耳にして、ぴくりとシモンが反応する。
「そうなの……?」
シェリーとセオバルドは、もっと前から一緒にいるのだと思っていた。
セオバルドの許で世話になってシモンはまだ、一年に満たない。けれど、シェリーもそんなに大差なかったのだ。
目を見開き驚きを隠さないシモンに、シェリーは目を細めて訊き返す。
「そうだけど、……何よ?」
「僕と……。ううん、なんでもない」
シモンは、少し慌てて誤魔化す。
僕とあんまり変わらないんだね、などと言おうものならシェリーの機嫌を損ねることは火を見るよりも明らかだ。
同志として、シェリーに一層の親しみを感じたシモンは、湧きあがる嬉しさを堪えきれず頬が緩む。
「それよりも、……先生のお客って、きっと今の人だよね?」
セオバルドの名を口にし、黒い影や靄まで見えるのだから。
出会い頭に魔力を探られ、「貧相な魔力」と言われたシモンは、むすっとして唇を尖らせる。
事実であり自覚もしているが、初対面の人間にいきなり指摘され、気分がいいはずがない。
けれど。
すぐに謝罪はしたが、先に青年を悪魔と勘違いしたことも、芋づる式に思い出す。
「間違いないでしょうね」
「あー……」
眉尻を下げ、表情を曇らせたシモンは両手で顔を覆い、溜め息を一つ零す。
頭に血が上って、セオバルドの客を人攫い呼ばわりしてしまった。
シモンが町で老婆に嘘を吐いたことや。青年と揉めたことは、客である彼からセオバルドに伝わってしまうだろう。
「すごく悪いことしたかな……?」
自己嫌悪に陥るシモンに一瞥をくれるシェリーは、冷静に言った。
「叫んだのは、まぁ、いいんじゃない? 騒ぎになっていないのだし。だけど、あなたも悪魔って言ってしまったから、どっちもどっち……かしらね」
どっちもどっちという言葉に、シモンは頭を抱える。
「うわぁ……」
「済んでしまったことだわ」
何事もなかったような顔をして、シェリーはさらりと言った。
もう一つ、シモンには気掛かりなことがあった。
「ねぇ、シェリー」
不安から、シモンの声が細くなった。
シモンは地に下りた鳥のように精一杯身体を小さく屈めて、両手で膝を抱え込む。表情を真剣に改め、シェリーとまっすぐに視線を合わせる。
「あの人の言うことは、正しいのかな? 今日みたいなことを続けていたら、この町に住めなくなると思う?」
黒い影や靄が気になって、意識せずともつい目で追っていた。
青年に言われるまで、人からどう見られているのか、あまり考えたことはなかったかもしれない。
町に住めなくなると言われて、シモンは初めて人の目を意識した。
少し高い位置にあるシモンの顔を、小首をかしげて覗き込むシェリーは、ゆっくりと口を開く。
「否定はできないわね。だって、あなたの見ているものは、他の人間には見えないんだもの。誰か一人が『シモンは変だ』と言葉にすれば、あっという間に広まるわ。あなたは住みにくくなって、自分から町を出て行くことになるかもしれない。言われて何か思うところがあるのなら、考えなさい」
「ん……、そうだね」
黒い影や靄がそこにあるのがわかっても、何もできないのだろうか。
鬱蒼と空に広がる厚い雲が心にまで垂れ込めたようだった。
項垂れるシモンに、シェリーは「はぁ」と大きく息を吐いて、ふぃ、と視線を逸らす。
「……思い込みで、自分のしたいことだけを優先するのじゃなくて、手を出す必要があるのかそうでないのか、手を出すのならその方法でいいのか、一度踏み止まって考えて、見極められるようになることね。その上であなたの好きにしたらいいわ。……セオに迷惑を掛けない範囲で」
渋々と、そして少し迷いながらシェリーは言葉を足した。
(思い込み……)
怪訝な顔をする町の人の顔が浮かび、シモンはどきりとする。
青年の言葉を心に留めながら、シェリーに言われたことを丁寧に胸の内で反芻する。
さっきのやり方ではいけないのだろう。
町の人に不快な思いをさせたいのではなく、セオバルドに迷惑を掛けたいわけではないのだから。
「ありがとう、ちゃんと考えてみる」
シモンはシェリーに微笑み、前向きに気持ちを切り替えた。
「……ホットミルク、買いに行こうか」
弾かれたように顔を上げるシェリーの瞳は期待に大きく見開かれ、きらきらと星を浮かべる。
ホットミルクに気持ちが傾きそわそわとするシェリーに、くすりと笑みを零したシモンは、抱き上げた彼女をコートに入れる。コートのフードを目深く被り、大通りに背を向けて路地を歩きだした。
赤髪の青年と、セオバルドの前で鉢合わせするのは、少しばつが悪い。
シェリーと共にホットミルクを買い求めたシモンは、店先でたっぷりと時間をかけて、ちびちびと舐めるように飲んだ。
もういい頃だろうと、いつもよりもゆっくりとした歩調で帰宅し、キッチンの扉を開きかけたシモンの動きが止まった。
開く扉に気づいたキッチンの中の人物と、ばっちりと目が合う。
「……うっ」
嘘、という言葉を寸前のところで呑み込んだシモンの顔が、引き攣る。
「よぉ、遅かったな」
開きかけた扉の隙間から掛けられた声。
キッチンのラウンドテーブルにつき、くつろいだ様子の赤髪の青年が、シモンとシモンの肩に乗るシェリーに片手を上げて、親しげな挨拶を寄越した。
青年の向かい側の椅子に腰かけるセオバルドが、背後のシモンとシェリーに首を巡らせる。
「……会ったのか?」
「はい、町で……」
青年との出会いから別れまで、どこを切り取ってもうまく説明できる気がしないシモンは、歯切れの悪い返事をする。
シモンに顔を向けるセオバルドの肩越し――。
どこか楽しげにすら見える明るい顔で、青年はシモンと視線を合わせたまま、ぱくぱくと口を大きく動かす。
――うそつき。
間違いなく、そう動いた。
ぎょっとして口が開き、零れそうに大きく見開かれたシモンの目が、青年の顔に釘付けになる。
ただ事でないシモンの表情の変化にセオバルドは怪訝に眉を寄せて、青年に視線を戻す。
セオバルドと顔を合わせた青年は、しれっと告げる。
「路地裏で声をかけたんだけど、逃げられたんだ。な?」
横目でシモンを見ながら、物知り顔でにやりと笑う。
意味深な笑みに、シモンは背筋をひやりとさせる。
青年の言い回しから、町での出来事がセオバルドに伝わっていないことは知った。だがしかし、青年は気持ち一つで、いつでもそれをセオバルドに伝えることができるのだ。
青年からぎこちなく視線を逸らすシモンは、平静を装うことにした。
「先生、頼まれた物は袋の中に入っています。今、お茶を淹れますね」
そばから離れてしまえば、自分の話題にはならないはず。
シモンはそっと話の輪から外れて、紅茶を淹れる準備をする。
しんと静まり返る部屋で、シモンの肩から飛び降りたシェリーが床の上で、ちりん……と涼やかな鈴の音を響かせた。
「いい音で鳴る鈴だが、鈴を提げた妖精猫なんて珍しいな。……自分の居場所を無駄に知らせるような物なんて、嫌がりそうなものなのに」
床で一度伸びをしたシェリーは、青年と視線も合わせずに、つ―んとそっぽを向いて聞こえない振り、知らん振り。
一言も声を発することなく、暖炉前のクッションの上に丸くなって瞼を閉じた。
シェリーに相手にされなかった青年は、ポットに熱湯を注ぐシモンに声をかけた。
「お前がつけたのか?」
猫に鈴。
どこかの童話に引っ掛けたように青年が呟く。
無視するわけにもいかず、シモンは青年と目を合わせて緩く首を振った。
「いえ……」
答えたシモンに、青年はほんのわずかに表情を和らげ、向かいに座るセオバルドをちらりと一瞥した。
「お前の事を聞いてたんだが、こいつ全然喋らなくてさ。こっちに来て座れよ」
「ユアン」
シモンを招く青年に、セオバルドが窘める口調で青年の名を呼んだ。
セオバルドが同席を拒んでくれるのなら丁度いい。すかさずシモンは口を挟む。
「あの、僕ならお茶を淹れたらすぐにキッチンから出るので……」
さりげなく自然にフェードアウトを狙う。
だが、ユアンと呼ばれた青年は引き下がらない。面白くなさそうにセオバルドに文句を言う。
「なんだよ。助手を取ったって言ってたけど、要はお前の初弟子なんだろ? 水臭いな、ちゃんと紹介くらいしろよ」
「……どうぞ」
「お、ありがと」
温かな湯気を立ち昇らせるカップをユアンの手許に置いたシモンは、彼の瞳が悪戯っぽい光を湛えていることに気づく。
(……ん?)
嫌な予感がして、シモンはユアンと視線を合わせたまま逸らすことができない。
「俺は道具師のユアンだ。えーと、お前は? う……」
「シモンですっ!」
ユアンの口の動きから、シモンは瞬時に最悪の言葉を予測する。最初の音がユアンの口から微かに零れるのと同時に、より大きな声で自分の名前を被せた。
努めて無表情を装い、けれどシモンは、見開いた目に物を言わせてユアンを牽制する。
セオバルドの前で「嘘つき」などと言われてはたまらない。
名乗ったシモンに満足そうなユアンは、空いている椅子に座るよう目配せする。
「ほら、そこに座れよ。シモン」
――断りたい。
だが、断って部屋を出たら、ユアンは腹いせに町での出来事をセオバルドに話してしまうかもしれない。
……否、同席したって彼が話さない保証はどこにもない。話したくなれば話すだろう。
それなら、そばで話を聞いている方がいい。
シモンは、ほのかな諦念の溜め息を吐き出し、セオバルドの顔色を窺う。
セオバルドもまた、譲る気のなさそうなユアンの様子に、仕方ないと頷く。
三つ目のカップを用意して紅茶を注いだシモンは、それを持ってユアンとセオバルドの間に立った。
「……お邪魔します」
裁かれる囚人のように沈んだ面持ちのシモンは、テーブルに着くと伏し目がちに俯いた。




