精霊の種 3
雲の切れ間、わずかに覗いた空が朱く染まり、夕暮れの時を報せる。
教会の敷地の中を精霊の種を咥えた銀色の妖精猫とシモンが、縦横無尽に駆け回る。
建物の外周をぐるぐると周り、背の低い植木の隙間をシェリーがすり抜ければ、シモンは植木の上を飛び越えて追う。
四本足で走ることに長けているシェリーは、シモンとの距離が空くと時折腰を下ろして休み、後ろを振り返り余裕の表情。片や、肩で息をして汗だくのシモンは必死の表情だ。
両者の距離は縮まらない。けれど、シモンは諦めない。
休むでも、からかうのでも視界に入ってくれているうちはいい。シェリーから目を離して、精霊の種をどこかに埋められでもしたら一大事だ。
十分にシモンと距離を保ったシェリーは、咥えていた精霊の種を地面に降ろす。
(あれ?)
シモンは、地面に置かれた精霊の種の異変に気づく。
シェリーの落とす影の中で、精霊の種がほのかに淡く発光していた。
その微かな光は目を射るものではなく、透明であった精霊の種が白く濁って見える程度。
だが、走り回る際に精霊の種を咥え、今もシモンの動向に注視しているシェリーは、その変化に気づいていない。
精霊の種を口から離して腰を下ろしたシェリーに、シモンも一度足を止める。
「シェリー……」
種の変化をシェリーに知らせようにも、走ったことで呼吸の荒いシモンは言葉が続かず、大きな声も出せない。
声を出すよりも、残り少ない体力を走る方に使いたいシモンは、まっすぐにシェリーを見据えてきゅっと唇を噛む。
「……意外に粘るわね」
徐々にシモンと駆けまわることに飽きてきたのか。
追われ続けたシェリーは、冷めた口調の中に呆れを滲ませる。
この状況に飽きたのなら、精霊の種を返してもらえるかもしれない。体力の限界が近いシモンは、淡い期待を胸に抱く。
真剣な表情で懇願するシモンの眼差しを、シェリーの紫水晶の瞳が冷ややかに受け止め、軽く流す。
「…………」
シェリーはシモンから目を逸らさずに、ぼんやりと白く濁った精霊の種を咥えると、近くにあった木にするすると登り始めた。
住居部分の屋根に並ぶ高さの細い枝に、尾で上手くバランスを取りながら、ちょこんと腰を屈める。
高いところで身を丸めて下を眺める妖精猫は、梟のようにも見えた。
シェリーの留まる細い枝の近くには、飛び移れそうな他の木はない。
建物の屋根に飛び移るには、枝が細く不安定に過ぎる。
いくらシェリーが身軽であっても、あの細い枝先を渡って屋根に移動するのは無理だろうと、シモンは目算する。
シモンは、自分の体重を支えられそうな太さの枝に目星を付ける。
そこまで登れば、シェリーの留まる細い枝に手が届くかもしれない。
シェリーから目を離さず、木の根元に走り寄ったシモンは、靴を脱いで裸足になると、木の幹に手を回して節に足を掛けた。
ひょいひょいと木に登り始めたシモンに、木の上のシェリーがぎょっと目を剥く。
木の節や角度の付いた部分を探り当て、シモンは器用に木を登っていく。
幹から枝に手を伸ばし、足を振って枝に絡ませるようにして掛け、身体を持ち上げて枝の上に乗って立つ。枝の混み合っている部分に手を掛け、足を掛け。シェリーのいる細い枝を目指して登る。
建物の二階の部屋が覗ける高さまで登ったシモンは、更に上を見上げた。
……シェリーのいる枝まで、あと少し。
上に行くにしたがって細くなる枝は、手を掛け体重を乗せる度に頼りなくゆさゆさと揺れて、大きくしなる。
この高さまで、シモンが登ってくることが予想外だったのだろう。
大きく揺れる枝に目を真ん丸にしたシェリーは枝の上に背を丸めて立ち、ふわっと毛を逆立てる。バランスを取る為に振られる尾が忙しい。
「シェリー……、種を、返して」
枝が細くなり、これ以上登れそうもない。
踏みしめる枝のしなる様子からそう判断したシモンは、左手で細くなった枝を掴み身体を支えながら、足許に掛かる体重を分散させる。
上の枝、幹よりも少し外側に留まるシェリーの口許を見上げ、できる限り大きく足を開いて身体を外側へ出す。
つま先立ちになり、精一杯手を伸ばす――。
ぐらり……。
足を掛けていた細い枝がしなり、シモンの身体が外側に傾ぐ。上の枝にいたシェリーが大きく目を見開いた。
――傾いだシモンの身体は、そのまま元に戻ることなく一瞬留まり。
左手で掴んでいた枝と幹の境が、ミシ……ッ、と乾いた音を立てて裂け目が入る。
「危な……っ」
高く鋭い声を発したシェリーの口許から、精霊の種がぽろりと零れ落ちた。
ぽわ、と白っぽく発光していた精霊の種が、ひときわ明るい光彩を放った。
「……っ!」
シモンは身体の揺らいだ不安定な体制のまま、もう半歩、足を外側へと滑らせる。上から落ちて来る精霊の種に向けて手を伸ばし、受け止めて掴んだ。――だが。
同時に、左手で掴んでいた枝が根元から裂けた。
支えを無くしたシモンの身体は、そのままふらりと木の幹から離れる。
バランスを崩したシモンの足が、枝から滑り落ち、足場を無くした体が宙に浮き……。
直感的に落下を覚悟したシモンは、自身の身体を保護するための結界を張ろうと意識を高め。
――落ちる。
しゅるるるるるっ。
精霊の種を掴んでいたシモンの手が、内側からこじ開けられる。
手の中にある物の質量が一気に膨れ上がった。
淡く発光するエメラルドグリーンの『何か』が洪水のように渦を巻き、勢いよく上下に伸びて絡み合い、立ち上がる。
――瞬時にして、大きな翠の柱が一本立つ。
しゅる、しゅるるるっ、と細く柔らかな紐がシモンの腰や手足に次々と巻き付き、落下が止まった。
手首に巻き付いたエメラルドグリーンの紐を、シモンはまじまじと見つめる。
「植物……の、蔓?」
幾本もの太い茎が捻じれて絡み、一本となったエメラルドグリーンの茎の脇から葉が吹き出している。その節から伸びた細い蔓がシモンの身体や腕、手首や足にくるくると絡まっている。
地面に接するエメラルドグリーンの柱の根元には、根に代わる太い蔦が何本も地を這い、太い茎を支えて自立を助けていた。
「何これ?」
何本もの蔓に捕らえられ、ぎりぎり落下を免れたが、わずかに足が地に着かない。
体力を使い果たしたシモンは、手足を動かす気力もなく空中にぶら下がり、頭上を見上げて呆然とした。
……こんなふうに大きく育つだなんて、セオバルドから説明を受けていない。
木の上からするすると幹を伝って地面に降り立ったシェリーは、蔦に捕らえられたシモンの足許に近寄った。
腰を下ろして、育った植物とシモンを見比べながら感心して呟く。
「一気に育ったわね。……それにしても、なかなか間抜けな格好だわ。まるで植物に捕まった餌のようね」
「シェリー、これ何? こんなになる? まさか本当にお湯の効果?」
セオバルドは精霊の種に必要なのは魔力だとしか言わなかったが。
本当は適正な温度や水も必要だったのかもしれない。……植物なだけに。
薄く口を開きしばらく黙っていたシェリーは、疲れの滲む表情で大きな溜め息を一つ吐くと、いい加減に返事をした。
「そうね……、そうかもね。……もう、セオを呼んでくるわ」
「ありがとう」
まだ状況を把握できないシモンは、茫然とした顔で頷いた。
シェリーの後姿を見送るシモンは、ふと、頭上が陰ったことに気づき、ひょいっと喉を反らせて視線を上げる。
少し高い位置に、シモンの頭ほどもある大きな純白の珠が一つ、付いていた。
硬そうな白い球は、薄い花弁が幾重にも重なり花を結んでいるようにも見える。
もしかして。
「蕾?」
これほど大きな蕾が綻んだら、どのくらいの大きさになるのだろう。
シモンの目が真っ白な蕾に釘付けになり、感嘆の吐息が洩れる。
手を伸ばして蕾に触れてみると、滑らかで厚みがあり、意外に触り心地が良い。
ふわり、と濃い芳香が漂った。
上品で甘く濃厚な香り。強いけれど優しく柔らかな香り。
香りの元を探すシモンは、蕾から目を逸らしてきょろきょろと首を巡らせて。
再び蕾に視線を戻したシモンは、大きく瞠った目を瞬かせた。
つい今しがた、硬い蕾だったものが、緩く綻んでいる。
シモンの目の前で、白い蕾が咲き進んでいた。
――生き物のように。
ゆっくりと、たおやかに羽を広げる鳥のように。
花弁の重なり合う部分は純白で、一枚一枚は透明感のある乳白色の薄絹を思わせるもの。
……花の向こうに、夜が透ける。
溜め息の零れるほどに、繊細で華やかな美しい花だった。
程なくして満開になると、周辺一帯が一輪の花の香りで満たされた。
 




