冬の始まり 3
夜の帳が下りて、森の中は目を開けても閉じても変わらない深い闇に包まれた。
茂みの中で両膝を抱えてうずくまるシモンは、途方に暮れる。
真っ暗な森の中を灯りも持たずに、帰り道もわからないまま闇雲に歩くのは、自殺行為だろう。
今夜一晩、動かずにここで過ごし、陽が昇るのを待つしかない。
明るくなれば、帰り道を探すことも出来るはず……。
(先生、怒っているかな……?)
シモンは抱えていた両膝の上に、顔を預ける。
セオバルドの講義も受けずに、夕飯の支度もしていない。
……すぐに帰るつもりだったから、行き先すら告げてこなかった。
招かれるままに小人について来てしまったけれど、青白い灯りの方へ行っていたら人に会えて、今頃、森の外へと出られていたかもしれない。
胸の奥でくすぶる不安が徐々に膨れ上がり、全身を浸していく。動けないもどかしさと相まって、溜め息が零れた。
気温が下がり、顔や手足などに纏わりつく冷気が、容赦なく身体を冷やしていく。
縮こまった身体が、ぶるぶるっと震えた。
拳に握っていた手を広げると指は冷たく悴んで、動かすもぎこちない。シモンは、寒さを紛らわすために手を重ねてこすり合わせる。感覚の無くなってきた足先を少しでも温めようと、ズボンの上から足をさする。
心細さからじっとしていられなくなり、茂みの中から一度出ようと、顔を上げた。
頭上をほのかな灯りが通った気がして、上を見上げたシモンは驚いて目を瞠る。
ひゅっと、小さく息を吸い込む。
先程森の中で見た青白い灯りが、隠れていた茂みのすぐ上に、ふわふわと漂っていた。
ただ、周りに人の気配はない。それは人が持つ暖かな灯りではなく、温度を感じさせないもの。
それが、いくつも漂っている。
(これ……、鬼火……?)
人を惑わせ沼に引きずり込む妖精とも、生前罪を犯した死者の魂ともいわれる、鬼火。
あのまま暗い森を灯りの方へ進んでいたら……と、慄然とするシモンの肝が、すっと冷えた。
茂みの中から出ることなど到底できずに、シモンはぴくりとも動けなくなる。
ざぁ……っ。
風もない静かな森の中。
鬼火の存在に呆然とするシモンの耳に届いた、草藪や低木の梢を払う葉擦れの音。
落ち葉や、枯れた細枝を踏みしめる――、足音がした。
びくり、と肩を震わせ首を竦める。
音の元を探して、こわごわと視線を巡らせる。
ざ。
……ざ。
森に住む大型の動物……、否。もしかしたら人かもしれない。
人であれば、助けてもらえる。
淡い期待が胸を過り、シモンは暗闇の中で必死に目を凝らす。
――息を潜めて耳を澄まし、音を探る。
落ち葉が擦れる音は時折止まり、けれど、少しずつシモンの隠れている茂みにゆっくりと近づいてきている。
声を掛けるタイミングを見計らい、薄く口を開くシモンの視界の先を、ふわ……、と鬼火が通り過ぎた。
ざ……。
ざっ。
足音は歩調を変えずに、ゆっくりと近づいてくる。
何かが、おかしい。
(変、だ……)
はっとして、シモンは気づく。
普通の感覚の人間が、灯りも持たずに、夜の森を歩き回るとは思えない。
ましてや、鬼火がそこいらを漂っているのだ。
近づいてくるのは、人ならざるものではないか。
戸惑いが不審に、疑念が確信に変わろうとしたその時、シモンの隠れる茂みの近くまでやって来た足音が、ぴたりと止まる。
「間違いなくこの辺りまで、あの子供のいい香りがするのに……」
とろりとして低く、焦がれる響きを滲ませた男の声。
(あの子供? いい香り……?)
聞き覚えのある男の声と言葉に、シモンの胸がざわつく。
嫌な予感がした。
ばくばくと激しく脈打つ胸を片手で押さえ、万が一にも声が出ないように、もう片方の掌で口許を押さえる。
できる限り小さく身体を縮こまらせたシモンは、茂みの前に立つ『何か』を見ようと目を凝らす。
近くを漂う鬼火に照らされて、茂みの隙間から声の主のものらしい足が、ぼんやりと浮かび上がる。
艶のある綺麗な靴に見覚えがあり、息が止まりそうになった。
昼間、町でシモンが声を掛けた初老の男性と同じ靴。
森に入って、栗を拾ったのだと教えてくれた男性の物だった。
声も、言葉も――。
男の探している『あの子供』とは自分のことだ。
人ならざる者に森へと誘いこまれたのだと察したシモンは、大きく目を見開き、息を潜める。
茂みの近くで途切れたシモンの香りを探し回っているのか、男の足音は、シモンの隠れている茂みの前を何度も行ったり来たりする。
やがて、足を止めた男は、悔しそうに唸った。
「あっちか……? でも、香りが薄い」
独りごちる男は、今来たのとは別の方向へ……。おそらく、小人とシモンが歩いてきた道を辿るかのように茂みの前を離れていった。
――男の足音が、徐々に遠ざかっていく。
足音が聞こえなくなっても、鬼火の灯りはふわふわと辺りを漂う。シモンは茂みの中で身を竦ませたまま、力任せに口を押えて、かたかたと震える。
身じろぎすると、肩に触れる細い若木が擦れて、強い香りが鼻孔に届く。
つん、と鼻腔が痺れるような清涼な香り。
(そっか、この香り……!)
香りを辿って来たらしい男が、目前で自分を見つけられなかったのは、きっとこの茂みが放つ独特の香りのおかげ。
ここまで案内してくれた小人が茂みに隠してくれたのだと、シモンは理解した。




