凸に注目!みんなの凹凸有効活用しちゃいましょう 前編~やる気と役割の境界線~
新章では日々仕事で悩んでいる
本人の「やる気」と「能力」と「合理的配慮」のバランスを描いてみました。
読んで頂けたら嬉しいです。
よろしくお願いいたします。
「矢印を見れば辿り着ける。矢印を見れば、戻れる」
赤川は祈るような呟きを繰り返し、インクを抱えたまま、
壁に貼られた矢印のステッカーを必死に追いかけていた。
赤川が一人で倉庫へ行き、無事に作業場まで戻れるようにと、
北岡が廊下の壁に「→」の標識を施したのだ。
今日はその運用テストの日だった。
作業場では、白木と北岡が時計の針を何度も
見やりながら、
その帰りを待っていた。
赤川は「行きは右側、帰りは左側」という指示を忠実に守り、
迷路を進むように周囲を確認しながら歩いていた。
往路は順調だった。しかし、帰路の途中で、
廊下の両側に貼られた無機質な矢印たちが、
突然赤川を惑わせ始める。
「右……左……あれ、『前』はどっちだ?」
一度混乱が始まると、壁に張り付いた記号たちが、
まるで意志を持つ生き物のように赤川の頭の中で渦を巻き、
激しく回りだした。平衡感覚を失い、急激な吐き気に襲われる。
赤川は立っていられず、冷たい床に蹲った。
作業場では、三十分が経過しても戻らない赤川を案じ、
空気が張り詰めていた。
「様子を見てきます」
耐えきれず、北岡が弾かれたように部屋を飛び出した。
数分後、北岡に支えられ、青ざめた顔の赤川が戻ってきた。
「すみません……。矢印が、
どっちを向いているか分からなくなって……」
赤川の声は震えていた。白木は言葉を失い、ただ赤川の肩に手を置く。
「できたところまでは完璧だよ。焦らなくていい。
少しずつ覚えていけば大丈夫だから」
「できると思っていたんですだけど……」
赤川の口からこぼれた本音に、白木はさらに不安を募らせた。
後日、本社ミーティングルーム。
白木からの相談を受け、急遽面談が行われた。
田中が別件で不在のため、倫心が北岡と白木の対話に立ち会う。
白木は重苦しい沈黙を破るように溜息をついた。
「……赤川さんが心配です。本人のやる気は
尊重したい。
でも現状、負担が大きすぎる。インクを
取りに行くのは、
今まで通り俺が行けばいいだけの話です。
あんなに震えて蹲る姿を、
もう見たくない。機械操作もできる部分だけ
やればいい。
彼が得意なことだけを、
ここでやってもらえばいいんです。
今のままではやる気が空回りして、
ますます『自分をダメだ』と
思ってしまうんじゃないか……心配です。
人事のプランでも、特技を活かして、
となっていますよね」
白木は現場の責任者として赤川を
守ろうとする境界線を示している。
倫心は白木の胃のあたりをさするその手に、
彼が独りで抱えこんでいた赤川のやる気を
尊重したい一方で、
追い詰めたくないという優しさとの
せめぎ合いを見て取る。
「そうですね……。もう少し、
彼の得意な検品作業に
徹していただいた方が
良いのかもしれませんね」
倫心はやっとの思いで提案した。
「ユニークな人材」の凸を活かすという、
机上で描いたプロットに
酔いしれて…
本人の恐怖や現場の苦渋に、
何一つ想像が及んでいなかった。
すべては自分の甘い見通しが招いたことだ……。
逃げ出したいほどの沈黙が、
今の倫心に与えられた唯一の罰のように感じられた。
「……」
沈黙を、北岡の遠慮がちな、
しかし芯の通った発言が打開する。
「あの……このまま諦めるほうが、
赤川さんの傷を広げるように私は思います」
「え」
倫心は驚いて北岡を見る。
「インクの補充は、赤川さんが
白木さんの役に立ちたくて
始めたことですよね」
「ええ……おそらく」
白木は困り顔で答えた。
「だとしたら、もう少し……試行錯誤を続けた方が良いかと思います」
「……」
白木と倫心は、
祈るような切実さを孕んだその声に
引き寄せられるように
北岡を見つめた。
「赤川さんは怯えていました。
……きっと、今まで否定され続けて
きたからではないでしょうか。
自分の特性のことは、赤川さん自身が
一番分かっていると思います。
それでも、赤川さんは廊下に飛び出して
いきました」
北岡の口調から、徐々に遠慮がはみ出していく。
「赤川さんの『白木さんの役に立ちたい』と
いう思いも、
『やりたいことが出来るようになりたい』と
いう願いも、
否定したくはないです。
人事社員として出来ることがあるのなら、
全部試したい。
……香山さん、言ってくれましたよね?
『あなたがいてくれないと困ります』と」
「はい」
倫心は北岡の目力に押され、
なんとか返事をした。
「この言葉が、同情から生まれてしまったら
意味がないんですよ。
余計に苦しくなるだけです。赤川さんが
心からここに居ていいんだと思って、
働けるようにならないと。
……あ、えーと、現場を知らない僕が
言うのはおこがましいですが」
北岡はフェイドアウトするように
語尾を濁らせたが、
赤川のために必死で「居場所」を
編もうとしている気持ちは、
痛いほど伝わってきた。
「……赤川さんを追い詰めないでくれたら……
それで……」
白木は北岡の熱に浮かされたような覚悟に
圧倒されて、深く頷いた。
北岡は白木に頭を下げ、白木は複雑な表情のまま、
そそくさと部屋を出た。
倫心の脳内に、親友・佳純の声が再生される。
『ツグちゃんには永遠に分からないと思う。
レールからはみ出した人間の気持ち……』
佳純ちゃんの言葉も、今の北岡さんの言葉も…。
これまでの人生で飲み込んできたであろう
「悔しさ」や「痛み」が、結晶となって宿っている。
私の持っているパスキーでは、
赤川さんを立ち上がらせることは難しいだろう。
北岡さんならきっと、
赤川さんを動かすための「最適なロジック」を導き出せる。
私の凹を北岡さんの凸が埋めてくれる。
私は決めたのだ。
ブーストして待つと。
倫心は、迷いを振り切るように力強く頷き、
「北岡さん、よろしくお願いします。」と
託すような、真っ直ぐな笑顔を向けた。
お忙しいところ、ご一読頂きありがとうございます。
物語は終盤です。最後まで応援して頂ければ有難いです。
よろしくお願いいたします。




