捨路駅
「……………朋生くん」
「お義母さん……」
通話の切れたスマホの画面をじっと見つめたまま動けなかった俺に、七海の母親がそっと声を掛けてきた。
「七海は……」
「……はい。無事、旅立ちました」
「そう……」
か細く呟いた義母の両頬を、堪えきれなかった涙が伝い落ちていく。
「そう……ようやく、逝けたのね……」
義母の視線はリビングのチェストの上に注がれていた。
そこには七海の好きなガーベラが飾られ、七海の遺影と、そして遺骨が置いてある。
花は、花屋を経営している義母が毎日一本ずつ待ってきて、瑞々しい生花に替えてくれている。枯れることのない花瓶の中身が、あたかも七海の存在そのもののように思えて、女々しいことこの上ないが、俺も義母も僅かな心の拠り所としていた。
飾られるガーベラの色は、一昨々日は黄色で、一昨日はオレンジ、昨日はピンク、そして今日は赤だった。
俺は花のことはよくわからないけど、花屋の娘だからか、七海は花が好きだった。花言葉もよく知っていたし、その影響なのか、娘の唯も花が大好きだ。
「朋生くん。捨路駅って?」
「ずっと昔の話なんですけど、亡くなった祖父が話していた都市伝説を思い出したんです」
「都市伝説?」
「ええ。俺の祖父、三十代半ばまで鉄道に勤めてたらしいんですが、当時噂になっていた都市伝説があったそうなんです」
祖父が言うには、とある路線には電車によって亡くなった人が乗る車両があり、その一編成が辿り着く駅名が、捨路駅というのだそうだ。
読んで字の如く、すべての痛みや記憶を捨てて逝くための路。降りない者は忘れるまでそれを繰り返し、降りる者は天へ還る。
イエロとはギリシャ語で聖域を意味する。つまり七海が下車した捨路駅は、天国に繋がる終着駅ということなのだろう。
祖父から聞いた時は、幼いながらも嘘だと思っていた。そんな駅なんてない、と。
だが実際に、亡くなった七海がその駅に辿り着いた。本当にあったのだ。
「捨路駅……そんなところが……じゃあ七海は、ちゃんと天国へ逝けたのね」
「はい」
「痛みや苦しみを捨てて、安らかに逝けたのね」
「はい。間違いなく」
真っ先に愛娘を忘れてしまったことが悲しかった。同時に、最後まで俺だけは覚えていてくれたことが嬉しかった。
「明日、納骨ね……」
そう――明日は七海が急死してから四十九日目。
長かったような、短かったような。
生前七海と一度だけ話した、自分が死んだ後のこと。墓の管理は大変だし、娘の唯に墓守はさせたくない。だから、年に二回、正月と盆にお参りだけすればいいように、管理のいらない樹木葬がいいね、って。
お互いにまだ二十九才なのに、老後の、さらにその先の話をするのは早すぎだと笑ったのは、つい先月のことだ。
四十九日前。
いつも退社後十七時発の電車に乗って、三つ目の駅で下車し、そこから自転車で保育園へ唯を迎えに行くのが七海の日課だった。
そして、その運命の日。
七海はいつもより退社時刻が遅れたそうだ。会社でトラブルが起き、主任だった七海が後始末に追われた。幸い大事には至らず、対策は後日話し合うことになり、とりあえずその日は解散となった。
家路を急いだ七海はそのまま二十時発の電車に飛び乗り、そして二つ目の駅に到達する前に、踏切で立ち往生していた乗用車と衝突。脱線した車両は生コン工場に激突して、四百五名の死者を出した。七海は、そのうちの一人だった。
七海がいつものように十七時発の電車に乗っていれば――そう思わない日はない。
ママは? 毎朝、唯が俺にそう尋ねる。まだ五歳なのに。まだまだ母親が必要な年齢なのに。
唯が起きる前に弁当を作り、洗濯物を干す。保育園の準備を整えてから、髭を剃り、スーツに着替える。朝食を用意している間に唯が起きてきて、ママは?と泣く。ママはお空のお星さまになっちゃったから、もう会えないんだと、パパも会いたいよと、唯が泣き止むまでずっと抱きしめて――。
そんな日々にも少しずつ慣れてきた頃。四日前だ。
◇◇◇
時刻は二十時十七分。俺のスマホが着信を知らせた。
毎夕訪ねてくれる義母が、夕飯の後ぐずりだした唯を寝かしつけてから戻ってきて、スマホを凝視したまま固まる俺の名を呼んだ。
「朋生くん?」
「……………お義母さん、これ」
「……? ……………えっ」
義母の両目が溢れんばかりに見開かれた。きっと俺も同じ表情をしているに違いない。
スマホは、七海の携帯からの着信を告げていたのだ。
「な、七海……? え、でも……どうして?」
混乱する義母の視線はチェストの上の遺影の前に滑った。そこには傷だらけのスマホが置いてある。七海のだ。もちろん誰も触っていないし、七海のスマホの画面は真っ暗なままだった。
「……………出てみます」
「え!?」
「七海かもしれない」
「で、でも、七海は」
「わかってます。わかってるけど……本当に七海なら、もう一度声が聴きたい」
もう一度話がしたい。七海の声で、七海だけが呼ぶ俺の愛称を聴きたい。朋ちゃんと、また呼んでほしい。
奇しくも七海が亡くなった時刻、脱線事故が引き起こされた時刻が、二十時十七分だった。偶然だとは思えない。
情けなくも震える手でスマホをタップした俺は、ごくりと喉を鳴らし、スマホを耳に当てた。
『――あ、もしもし? 朋ちゃん?』
ああ――七海だ。七海の声、だ。
「――七海?」
震えた声でみっともない。最後くらいは、七海にとって格好いい俺でいたいのに。