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魔法生物飼育員は今日もかわいいに忙しい ~大学教授に紹介された最初の担当は、手のひらサイズの小竜でした~  作者: パラレル・ゲーマー


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5/10

第5話 手のひら小竜を初めて部屋に出したら、三十センチしか冒険しなかったらしい

 木曜日の午後。

 秋晴れのキャンパスを抜け、拓海は講義の後に榊原の研究室へと立ち寄っていた。

 目的は、いつものように専用アプリで送信した飼育記録の詳細なフィードバックをもらうことだ。


 月曜日に手作りの『高所休息棚』の屋根で寝られてから三日。

 火曜日、水曜日と、ルリの生活は至極平穏だった。

 温度、湿度、マナ濃度、すべて安定。異常行動なし。睡眠は相変わらず屋根の上が定位置だが、途中で目を覚ますこともなく熟睡している。水皿の利用も確認済み。

 拓海がケージに手を入れた際、逃げるどころか自ら近寄ってくる行動も複数回観察された。

 飼育日記としては「何も事件が起きない、正常な日々」の連続である。


 パソコンのモニターで拓海の記録を眺めていた榊原が、キーボードから手を離し、コーヒーカップを持ち上げた。


「うん。いいんじゃない?」

「何がですか?」

 パイプ椅子に座っていた拓海が首を傾げる。

「そろそろ、外に出してみても」


 拓海の思考が、そこで完全に停止した。


「…………外?」

「そう。ケージの外」


 拓海は、思わずモニターと榊原の顔を二度見した。


「俺の、部屋にですか?」

「君の部屋以外でどこに出すつもりなの。大学のグラウンド?」


 拓海の脳裏に、凄まじい光景が一瞬でフラッシュバックした。

 ケージの扉を開けた瞬間。

 ルリが『ばさっ!』と翼を広げ、弾丸のような速度で部屋を横断する。

 カーテンレールに飛び移り、本棚の頂上を駆け抜け、エアコンの上に陣取り、最後は天井の照明器具から見下ろしてくる。

 捕まえようとする拓海を嘲笑うかのように、1DKの空中を飛び回る赤銅色の影――。


 拓海はサッと青ざめた。


「待ってください! 飛んだらどうするんですか! エアコンの裏とかに入られたら絶対に出せませんよ!」

「まだ飛ぶとも決まってないよ」

「翼、ありますよ!? 立派な皮膜が!」

「翼がある生き物が、ケージを開けた瞬間に必ず全力飛翔するなら、鳥の飼育はもっと大変だね。セキセイインコだって、初めて外に出る時はおっかなびっくり歩いたりするもんだよ」


 榊原は苦笑しながら、タブレットを取り出して一つの資料を表示した。


「いいかい、水野君。今回許可するのは『自由放飼』じゃない。あくまで『家庭環境内・第一段階ケージ外適応試験』だ」

「第一段階……」

「そう。自由に部屋を飛び回らせる段階ではない。いくつか厳密な条件がある」


 榊原が読み上げる条件は、事細かだった。

 飼育者が常時監視すること。一室を完全に閉鎖し、窓・玄関を施錠。キッチン等の危険区域は完全に封鎖。

 そして何より重要なのが。


「ケージ周辺の、限定した区画から開始すること。強制的に引っ張り出さない。強制的に活動範囲を広げない。初回はごく短時間で終了させる。ケージへの帰還経路を常時確保する。異常な興奮や逃避行動が出れば即座に終了。万が一飛翔が始まっても、絶対に追い回さないこと」


 拓海はメモを取りながら、一つ一つ確認していく。


「要するに、扉を開けて、彼がどう行動するかを黙って見る。そういうことですね」

「うん。それが一番難しいんだよ」

 榊原はコーヒーを一口飲み、まっすぐに拓海を見た。


「最重要なことを言うよ。……出てこなくても、失敗じゃないからね」

「え?」

「一時間開けっ放しにして待って、彼が一歩もケージから出てこなかったとしても、それが今日の結果だ」

「でも、外に出す適応試験ですよね?」

「違う。『外へ出す試験』じゃない。『外へ出られる選択肢を与えた時に、どう行動するかを見る試験』だ。……ここを勘違いしていると、飼育者は自分の思い通りにならない動物に対して不満を持つようになる」


 拓海はハッとした。

 確かに、自分は先ほど「出たらどうしよう」と焦りつつも、心のどこかで「ルリが部屋を探検する姿」を期待していた。

 もし一歩も出てこなかったら、「せっかく準備したのに」と落胆したかもしれない。


「……分かりました。出てこなくても、それがルリの選択だということですね」

「その通り。それと、もし出たからといって、餌で釣ってどんどん遠くへ誘導したりしないこと」

「はい」

「『初めて外に出た記念』とか言って、映える写真を撮るために位置を変えたりもしないこと」

「俺、撮影端末まだ支給されてないんですけど!」

 拓海は少し恨めしそうに言った。寝姿を撮れなかった無念はまだ消えていない。

「根に持ってるなぁ。申請は出してるから、来週には届くよ」


 ***


 帰宅した拓海は、自らの人生でも最大級の『部屋の掃除』を開始した。

 元々、散らかすタイプではない。床に服が脱ぎ散らかされていることもないし、ゴミもこまめにまとめている。

 しかし、『手のひらサイズの、翼を持った未知の生物を部屋に出す』となると、話の次元が変わってくる。


 拓海は飼育マニュアルのチェックリストを片手に、部屋中を点検して回った。


 まず、窓。

 鍵を閉め、さらにサッシ用の補助ロックをきつく締める。

 そして、まだ外は明るいが、遮光カーテンをピシャリと閉めた。

(ガラスを空間と誤認して、全力で衝突する可能性を下げるためだ。鳥の飼育の基本)


 玄関。

 チェーンロックまでしっかりと施錠。


 エアコン。

 万が一飛び上がった時に風圧で煽られないよう、風量を最弱に設定。


 キッチン。

 簡易パーティションで完全に閉鎖。火の気なし。刃物はシンク下に収納。洗剤類も扉の奥へ。

 ゴミ箱。蓋付きのものに変更し、さらに重しを乗せる。

 電源コード。床を這っているものは全てコードカバーで覆い、噛まれても大丈夫なようにする。


 そして、最も厄介なのが『隙間』だ。


 拓海は床に這いつくばり、ベッドの下や本棚の裏を覗き込んだ。

「……ここ、入れるな」

 家具と壁の間の、ほんの五センチほどの隙間。

 ルリは全長十から十二センチ。しかし、身体自体は細く、翼をたためばかなりコンパクトになる。パニックになって逃げ込めば、絶対にこの隙間に入り込める。

「入り込まれたら、家具を動かさないと出せなくなる。それは避けないと」


 拓海は丸めた雑誌やクッション、段ボールの板を使って、考えられる限りの隙間を徹底的に塞いで回った。

 全てを終えた頃には、額にうっすらと汗をかいていた。


「……部屋が、広すぎるんだよな」


 拓海にとっては狭い1DKだ。しかし、手のひらサイズのルリから見れば、ここは広大な未知の空間である。

 だからこそ、榊原の言った通り、最初から部屋全体を解放するような真似はしない。


 今回の『初回探索区画』は、ケージのスライド窓のすぐ前にある、拓海の学習机の上だけだ。

 机の上にあったパソコンのキーボード、参考書、ペン立てなど、ルリが興味を持ちそうなもの、あるいは怪我をしそうなものは全て床へ避難させた。

 そして、綺麗に拭き上げた机の表面、そのケージ前の一角に、幅四十センチ、奥行き二十センチの『滑りにくい無地の観察マット』を敷く。

 薄いグレーのマットには、ケージ側の端を起点に十センチ刻みで目立たない薄い目盛りがプリントされている。本来は工作用などのカッティングマットだが、最初の二十センチを測るにはちょうどいい。


「……なんか、本格的な研究者みたいになってきたな」

 独り言をこぼしつつも、拓海の顔は真剣そのものだ。


 マットの上には、おもちゃも、リンゴも置かない。

 最初から刺激を多くしすぎると、環境探索よりもそちらに気を取られてしまう。まずは『空間そのもの』を自分の足で歩き、安全を確認してもらうのが最優先だ。


 机の上に存在するのは、ケージ、拓海の掌を出すスペース、観察マット、そしてケージとマットを繋ぐための短い固定足場(木の板にコルクを貼ったもの)だけ。

 万が一、ルリがパニックになって机から落ちた時のために、机の周囲の床には柔らかいタオルを何枚も敷き詰め、キャリーケースも視界に入りにくい足元に待機させた。


 午後六時十二分。

 準備完了。

 温湿度よし、マナ濃度よし。

 ルリの健康状態、異常なし。


 拓海は、ケージの前に深呼吸をして座った。


 ***


 ケージの中では、ルリがいつもの『高所休息棚A』の屋根の上に座り、拓海を見下ろしていた。


「きゅ?」


 小首を傾げるその姿は、いつも通りだ。


「……今日はな」

 拓海は声をかけ、すぐに(説明しても分からないだろ)と自分の中でツッコミを入れた。

「ちょっとだけ、外見てみるか?」


 拓海はゆっくりと手を伸ばし、アクリルガラスのスライド窓のロックを外した。

 かちゃり。

 音を立てないように、静かに窓を全開にする。

 しかし、拓海は手を入れたり、覗き込んだりしない。

 ただ、窓を開け放ち、ルリの行動を待った。


 一分経過。

 何も起きない。ルリは屋根の上から、開いた窓をじっと見ているだけだ。


 二分経過。

 ルリが動いた。

 屋根から降りて、いつもの太い枝へと移動する。しかし、窓の方へは来ない。


 三分経過。

 ルリは枝を伝って水皿へ行き、舌を出して水を舐め始めた。


(……今、飲むんだ)

 拓海は内心で苦笑した。

 少なくとも、水を飲んでいる今の行動だけから、ルリが強く緊張していると決めつける材料はなかった。


 五分経過。

 水を飲み終えたルリが、ようやく枝の端、開け放たれたスライド窓のすぐ近くまでやってきた。

 境界線の手前で立ち止まり、首を限界まで長く伸ばして、鼻先を動かす。

 すん、すん。


 外の空気を嗅いでいる。


 ケージの内側と外側は、同じ部屋だ。けれど、アクリルガラスという仕切りの有無で届く刺激は変わる。

 これまでは透明な壁越しに見ていた空間が、今は鼻先のすぐ向こうへ直接つながっている。

 音の届き方。空気の流れ。視界の抜け方。

 その違いをルリがどう受け取っているのかは、拓海には分からない。


 拓海は、少し迷った。

 名前を付けた日の午後、拓海が掌を『足場』として提示した時、ルリは自分からそこへ乗ってきた。

 今回も掌を出すべきか?

 しかし、最初から掌を突き出せば、『拓海の手に乗ること』が『外へ出る唯一の手段』だと誤認させてしまうかもしれない。


 だから、拓海は窓の開口部から机のマットへ直接降りられるように、短い『固定足場』をあらかじめ設置してある。

 選択肢は二つ。

 自分で足場を通って机へ降りるか。

 それとも、拓海の掌に乗るか。


 拓海は、固定足場とは少しずらした横の空間に、自分の右手の掌を上に向けて差し出した。

 ルリに無理に近づけはしない。ただ、提示するだけだ。


 ルリは、目の前に現れた二つの経路を見た。

 固定足場を見て、すん、と匂いを嗅ぐ。

 拓海の掌を見て、すん、と匂いを嗅ぐ。

 そして、拓海の顔を見上げた。


 数秒間の沈黙。

 やがて、ルリは一歩を踏み出した。


 拓海の掌の方へ。


 右の前脚が、拓海の掌の縁に乗る。

 拓海の心臓が、ドクンと大きく跳ねた。


 続いて左の前脚、そして後脚も。

 ルリはためらうことなく、拓海の掌の上に四脚全てを乗せた。

 だから、拓海も以前のように過剰な硬直はしない。微かな体温と爪の感触を受け入れながら、ただ静かに待つ。


 ルリは掌の上で、特に慌てる様子もなく落ち着いていた。

 翼も畳まれたままで、身体を低くして逃げ出そうとする姿勢でもない。


「……動かすぞ」


 意味は通じなくても、予告として声をかける。

 拓海は右手を、数センチだけゆっくりと後退させた。

 ルリはそのまま、掌の上で大人しくしている。

 さらに数センチ。


 そして、拓海の掌が、スライド窓の縁を完全に越えた。


 初めて、ケージの外へ。

 アクリルガラスという境界線の外側。

 赤銅色の小さな魔法生物が、拓海の掌に乗ったまま、部屋の空間へと完全に出た。


「……出た」


 拓海の声は、極限まで絞り出された微かなものだった。


 その瞬間。

 ルリが、背中の翼を。


 ぱっ。


 左右に大きく広げた。


(飛ぶ!?)

 拓海の全身の筋肉が一瞬にして硬直し、息が止まった。

 キャリー! タオル! 窓のロック!

 頭の中で緊急時の対応マニュアルが駆け巡る。


 しかし、ルリは飛ばなかった。


 ルリは広げた翼の角度を一度だけ大きく変え、そしてすぐに、ぱたん、と元通りに畳んでしまった。

 単に翼の関節を伸ばしたかったのか、空気の流れに反応したのか、それとも別の理由なのかは分からない。少なくとも、そのまま飛び立つことはなかった。


「…………心臓に悪い」

 拓海は安堵のあまり、膝から崩れ落ちそうになった。


 気を取り直し、拓海はルリを乗せた掌を、机の上の観察マットのすぐ近くまで下ろした。

 高さ数センチ。掌とマットがほぼ同じ高さになる位置。

 ここから先は、ルリ自身の足で歩いてもらう。


 ルリはマットの表面を見た。

 すん、と匂いを嗅ぐ。

 そして、右の前脚を一歩、マットの上へと下ろした。

 続いて左。後脚も。

 全身が、拓海の掌から机の上のマットへと移った。


 拓海は、右手をすぐには引っ込めなかった。

 もしルリが怖がって逃げ帰ろうとした時のために、『帰り道』として掌をそのままの位置に置いておく。


 ルリは、マットの上で立ち止まった。


 とて。

 最初の一歩。


 とて。

 二歩。


 とて。

 三歩進んで、立ち止まる。

 首を上げ、周囲をキョロキョロと見回す。


 拓海は凝視しそうになるのをこらえ、視線を少しだけ外しながら観察を続けた。

 ルリが、マットにプリントされた十センチの目盛りを越える。


(十センチ)

 拓海は心の中でカウントした。


 ルリはマットの端に近づいた。

 マットの先には、拓海の学習机の木製の表面が広がっている。

 ルリは境目で立ち止まり、すん、と匂いを嗅いだ。

 前脚を伸ばし、マットの表面と、机の表面とを、交互にトントンと踏み比べている。質感の違いを確かめているようだ。


(二十センチ)


 目盛りを越える。

 翼はきっちりと畳まれたままだ。その時点で再び翼を広げる様子も、急に走り出す様子もない。

 ひたすら、とて、とて、と、自分の足で一歩ずつ歩幅を確かめるように進んでいる。

 大冒険、大立ち回りを覚悟していた拓海としては、あまりにも平和な光景に少し拍子抜けしたほどだ。

 でも、その慎重な歩みすらも、とてつもなく可愛かった。


 順調な探索が続くと思われた、その時だった。


 ルリが、進行方向から少し右へ顔を向け、動きを止めた。

 瑠璃色の瞳が、一点をじーっと見つめている。


「あ」

 拓海は小さな声を漏らした。


 机の奥、パソコンのモニター台の下。

 完全に片付けたはずだったのに、拓海の死角になっていた場所に、小さな白い消しゴムが一個だけ転がっていたのだ。

 探索区画として想定していたマットの範囲から、少しだけ外れている。


 ルリが、とて、とて、とその未知の白い物体に向かって歩き始めた。

 十センチ。五センチ。


 拓海は迷った。

 止めるべきか。しかし、無理に介入すれば探索の邪魔になる。

 だが、万が一あれが食べ物だと思って齧り付き、飲み込んでしまったら大変だ。未知の生物に対する消しゴムの成分の影響など、誰にも分からない。


 拓海は決断した。

 ルリが到達する直前、拓海は左手をゆっくりと伸ばし、大きく振りかぶるような動作を避けて、消しゴムをさっとつまみ上げた。

 ルリの目の前から、突如として白い物体が上空へと消え去る。


 ルリは首を上げ、消しゴムを持ち去った拓海の顔を見た。


「きゅ?」

「ごめん。それは齧ったら困るやつなんだ」


 もちろん、ルリには意味が分からないだろう。

 代わりに、何か安全な木の枝でも置いてやるべきか?

 いや、と拓海は思いとどまった。

(今日は環境探索だけだ。『欲しがったから代用品を与える』っていうのも、人間の勝手な解釈かもしれないしな)


「また今度、安全なおもちゃ用意しような」

 拓海はそう言って、消しゴムをポケットにしまった。


 消しゴムへ向かった分、ルリの現在位置はケージの開口部からおよそ三十センチの地点に達していた。

 ルリはそこで立ち止まり、再び首を高く上げた。


 左を見る。

 右を見る。

 天井を見上げ、閉め切られたカーテンを見つめ、少し離れたベッドを見る。


 手のひらサイズのルリの視界に、拓海の1DKの部屋はどれほど巨大な空間として映っているのだろうか。

 果てしなく広がる大地と、空のように高い天井。


 ルリが、前脚を少し持ち上げた。

 さらに奥へ進むのか、と拓海は身構えた。


 しかし。

 ルリは進まなかった。


 その場で、くるり、と見事なターンを決めて反転したのだ。


「……え?」


 とて。

 とて。

 とて。


 ルリは、今来たルートを、まったく同じペースで歩いて戻り始めた。


「え、もう帰るの?」

 拓海の問いかけに、当然ルリは答えない。


 三十センチ。二十センチ。十センチ。

 あっという間に、ケージの前に置かれたままの、拓海の右手の前まで戻ってきた。

 ルリは、拓海の掌を見る。

 そして、ケージを見る。


 拓海は、今度こそ自分の掌に乗って帰るのだろうと思った。


 しかし、ルリは拓海の掌をスルーした。

 すぐ横に設置してあった『固定足場』の方へと向き直り、前脚をかける。

 そのまま、よじよじと足場を登り、開いたままのスライド窓をくぐり抜けて、自力でケージの中へと入っていった。


挿絵(By みてみん)


「…………帰った」


 拓海は、空のままの自分の右手を見つめて呆然とした。

 ルリはいつもの枝へ移り、さらにそこから一段高い『高所休息棚A』の屋根の上へと登っていく。

 そして、腰を下ろした。


 拓海は、すぐには窓を閉めなかった。

 もしかしたら、またすぐに出てくるかもしれない。

 一分、三分、五分。


 ルリは屋根の上で、自分の前脚をぺろぺろと舐め、それから鱗を整え始めた。

 出てくる気配は、微塵もない。


「…………終わり?」

「きゅ」

 ルリが小さく鳴いた。拓海はそれ以上待たず、静かにスライド窓を閉め、ロックを元に戻した。


 ***


 拓海は、机の上の観察マットと、その先の木製の机面を見た。

 ルリが歩いた軌跡。ケージから一番遠く離れた到達地点。

 マットの二十センチ地点を越え、そこから机面をさらに進んだ先。消しゴムへ向かった分まで測ると、最大到達地点は約三十二センチだった。


「……俺、あんなに部屋片付けたんだけどな」


 窓のロックを確認し、すべての隙間に段ボールを詰め込み、カーテンを閉め切り、万が一の回収用タオルまで用意した。

 それだけの完璧な準備の末の、最大移動距離、三十センチ。

 時間にして、わずか数分間の出来事。


 だが、拓海は笑わなかった。

「たった三十センチ」というのは、部屋全体を俯瞰できる人間のスケールで測った場合の感想だ。

 ルリにとって、あのケージの外の世界がどれほど未知で、どれほど巨大で、どれほどの刺激に満ちていたのか。それは拓海には想像することしかできない。


「……いや」

 拓海は、自分自身に言い聞かせるように呟いた。

「初めての外の世界だ。三十センチでも、大冒険だよな」


 拓海はバインダーを引き寄せ、事実だけを記録し始めた。


『時刻:18時27分。ケージ外探索開始』

『担当者の提示した掌へ自発的に乗った後、ケージ外へ移動』

(※ここは正確に書かなければならない。ルリが自力で飛び出したのではなく、拓海が掌で移動させたという事実だ)

『机上の観察区画へ自発的に移乗』

『歩行による探索。翼を一度展開する行動あり。飛翔はなし』

『未知の物体(消しゴム)へ視線を向ける行動あり。担当者が撤去』

『最大離隔距離:約32cm』

『約五分後、自発的に方向転換』

『固定足場を経由し、自力でケージ内へ帰還』


 そして、最後に一番重要な一文を書き加える。拓海のペン先に、自然と力が入った。


『帰還時、担当者による追跡・誘導・捕獲は一切なし』


 これが、今日一番の収穫だった。

 拓海はそのまま、スマホの専用アプリを開き、電子記録として榊原へデータを送信した。


 すぐに返信が来た。

『どうだった?』

『出ました』

『おお』

『三十二センチ』


 数秒の間。


『……何が?』

『最大探索距離です。三十センチ歩いて、帰りました』


 榊原からの返信は、少し予想外のものだった。


『かわいいね』


 拓海は画面を見つめ、少しだけ目を丸くした。

 榊原がルリをかわいいと思っていること自体は、初めて会った日から知っている。ただ、観察結果を送る業務用の専用アプリで、第一声がそれだとは思っていなかった。


『先生、業務用のアプリで第一声がそれなんですか?』

『かわいいものはかわいいからね』

『飼育記録には書けないですよ、それ』

『俺は記録用紙じゃないからね。感情くらいあるよ』


 拓海は吹き出しそうになった。

 しかし、榊原の評価のポイントは「距離が短くてかわいい」というだけではなかった。


『それより水野君、彼、自分から戻ったんだね?』

『はい。俺の手は使わずに、固定足場から自分で』

『なら、今日はそれが一番大きな成果だ』

『どういうことですか?』


 榊原からの長いメッセージが届く。


『ケージの外という未知の空間に出ても、パニックと判断できる行動は確認されなかった。帰還経路も自分で利用できた。そして、追跡や誘導なしで自発的にケージへ戻った』

『この一回だけで理由は決められないけど、少なくとも君の部屋のケージを帰還先として利用している。安全基地として機能している可能性を考えるには、十分に意味のある結果だ』

『もちろん、一回だけの結果だから断定は避ける。今後も同じ傾向が続くか、継続して観察しよう』


 拓海は、ハッとした。

 自分は「外へどれだけ遠くまで行けたか」という距離ばかりを気にしていた。

 しかし、本当に重要なのは「外から無事に帰ってこられたこと」だったのだ。

 自分で出る範囲を決め、帰るタイミングを決める。

 それができたなら、今日のケージ外適応試験は大成功だ。


 ***


 夜。

 初めての大冒険を終えたにもかかわらず、ルリの日常は完全に元通りだった。

 水を舐め、枝を伝い、屋根の上でくつろぐ。


 むしろ、拓海の方が興奮を引きずっていた。


 夕食のカップ麺をすすりながら、拓海はケージに向かって話しかける。

「今日、出たなぁ」

「きゅ」

「三十センチ」

「きゅ?」

「いや、馬鹿にしてないぞ。偉い偉い」

 完全に一人会話である。


 ふと、拓海は床の隙間に目を向けた。

 あんなに必死に塞いだ家具の隙間。

「今日は一個も使わなかったな……」

 結局どれも使わずに済んだ。けれど、それでいい。安全対策は使うためではなく、使わずに終われるように準備しておくものだ。


 夕食後。

 ルリが枝を降りて、スライド窓の近くをうろうろと歩き回っているのが見えた。

 拓海は近づいた。


「また、出たいか?」

 しかし、窓のロックには手をかけない。

 初回は一回だけ、短時間で終了する。それが榊原との約束だ。


「今日は終わり。また明日以降な」


 ルリは窓越しに拓海を見上げて、「きゅ」と一声鳴いた。

「……不満なのかどうか、分からんな」

 拓海は肩をすくめた。『出してくれ!』と要求していると断定するのは、まだ早い。


 やがて、ルリは窓辺を離れ、いつもの屋根の上へと戻っていき、くるりと丸くなった。


「三十センチ冒険したから、疲れたか?」

 言ってから、拓海は自分で「……それも分からんか」と訂正した。


 夜も更け、部屋は静寂に包まれた。

 ルリは寝床の屋根の上で丸くなり、瑠璃色の瞳を細めている。まだ完全には寝入っていないようだった。

 拓海は机に向かっていたが、視線は手元のノートではなく、目の前の観察マットに向けられていた。


 グレーの無地のマットの表面。

 よく見れば、本当に微かにだが、ルリの小さな爪が歩いた跡が残っているようにも見えた。

 目盛りの三十センチ付近。


「……ここまで、来たんだよな」


 拓海は、その場所を指先でそっとなぞった。


 人間にとっては、腕一本分にも満たない、わずかな距離。

 しかし、昨日まで、ルリの世界の境界線は、あの透明なアクリルガラスの壁だったのだ。

 今日、ルリは自分で掌を選んでその境界の向こうへ出て、それから自らの足で机の上を歩いた。


 たった三十センチ。

 けれど、昨日までは存在しなかった三十センチだった。


 拓海は立ち上がり、部屋の照明を落とした。

 薄暗い中で、ケージの中の小さな背中に向かって声をかける。

 拓海は、その様子を確かめてから、一度だけ声をかけた。


「おやすみ、ルリ」


 静寂の中で。

「きゅ」

 と、小さな声が聞こえた。

 それが本当に返事だったのかは、拓海には分からない。


 ルリの世界は今日、三十センチだけ広くなった。

最後までお付き合いいただき感謝します。


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