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魔法生物飼育員は今日もかわいいに忙しい ~大学教授に紹介された最初の担当は、手のひらサイズの小竜でした~  作者: パラレル・ゲーマー


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4/10

第4話 小竜の寝床を作り直したら、屋根の上で寝られたらしい

 月曜日の朝。午前六時半。

 スマートフォンから控えめな音量で流れ始めたアラームを、水野拓海は半開きの目で手探りして止めた。

 布団の中で、ゆっくりと一度だけ深呼吸をする。

 昨日や一昨日のように、「いる!?」と心臓をバクバクさせながら飛び起きるようなことは、もうない。

 ほんの少しだけ、拓海の中で『自宅に竜がいる』という非日常が、日常へと溶け込み始めている証拠だった。


 上半身を起こし、ベッドの横にあるサイドテーブルの時計で正確な時刻を確認する。

 それから、ごく自然な動作で部屋の隅にあるケージへと視線を移した。


 いた。


 ケージの中央を横断する太い枝の上。

 そこに、赤銅色の小さな塊がちょこんと乗っている。

 身体のサイズに対して大きめの皮膜翼をマントのように背中に密着させ、短い尻尾を器用に巻き込んで、見事なまでに丸いフォルムを作っていた。

 一定のリズムで微かに上下するその背中は、ルリがまだ夢の中にいることを示している。


「……二夜目、か」


 拓海はベッドから抜け出し、足音を忍ばせてケージの前に立った。

 視線を下へと向ける。

 ケージの床面、一番端の邪魔にならない場所に設置してある、ドーム状の小さな寝床。

 小動物が安心して隠れられるようにと用意した、柔らかい素材で作られた隠れ家だ。


 しかし、その寝床は新品同様の美しさを保っていた。

 中の床材は一切乱れておらず、入り口の縁に爪を立てた痕跡もない。もしかすると留守中に匂いぐらいは嗅いだのかもしれないが、少なくとも中に入って身体を休めた形跡は皆無だった。


 一夜目、枝。

 昨晩の二夜目も、枝。

 二夜続けて、結局は用意した寝床を使わなかった。


「嫌いなのか……?」


 拓海は呟いてから、すぐに首を横に振った。


「いや。“嫌い”かどうかは、まだ分からないか。単に使わなかったってだけで」


 榊原教授の顔が頭をよぎり、安易な擬人化と感情の断定を自ら戒める。

 そんな拓海の思考を遮るように、ケージの中で動きがあった。


 丸まっていた赤銅色の塊が、ぴく、と動く。

 ルリが目を覚ましたのだ。

 瞼が半分開き、瑠璃色の瞳がとろんとした光を鈍く反射する。

 そして、短い前脚をぐーっと前へ突き出し、背中を反らせて、全身を使ったダイナミックな伸びをした。

 翼を片方ずつ広げてたたみ直す。

 相変わらずの、見惚れるような美しい所作だ。


 しかし。

 伸びを終えて、枝の上で身体の向きを変えようとしたその瞬間だった。

 ルリの短い後脚が、つるっ、と枝の表面を滑った。


「おっ」


 拓海は思わず手を伸ばしかけた。

 だが、ルリは瞬時に翼をぱっと半開きにして空気を掴み、見事なバランス感覚で姿勢を立て直した。落下は免れた。

 何事もなかったかのように翼をたたみ、居住まいを正すルリ。

 そして、ガラス越しに拓海を見て、小さく鳴いた。


「きゅ」


「いや、今ちょっと滑っただろ。絶対滑った」


 知らん顔を決め込むルリに、拓海は苦笑するしかなかった。

 かわいい。悔しいが、その誤魔化し方すらも無性にかわいい。


 だが、飼育員としては笑ってばかりもいられない。

 今のルリの様子を見て、拓海は一つの確信を抱いた。

 枝の上で寝ること自体を無理に禁止したいわけではない。しかし、今の枝はあくまで『活動用の止まり木』であり、ルリが熟睡するための広くて安定した足場ではないのだ。

 だから、寝返りや起床時のちょっとした動作で足を踏み外しかける。


「枝で寝たいなら、枝で寝る用の、もっと安全な場所を作ればいいのか……?」


 拓海は顎に手を当て、ケージのレイアウトをじっと見つめた。


 ***


 午前十時。

 大学の研究室。

 月曜の講義の合間を縫って、拓海は榊原の部屋を訪れていた。


「先生。寝床、二夜連続で使ってないです。今日も枝で寝てました」

「うん」

「うん、じゃなくてですね」


 デスクでパソコンの画面を見ていた榊原は、視線を外さずに言った。

「記録は見たよ。昨夜分まで、ちゃんとシステムにも上がってる」

 拓海が現場で使う紙のバインダーは、時刻と観察事実をその場で書き留める一次記録だ。観察後、その内容を私物スマートフォンに導入された八咫烏指定の飼育記録アプリへ転記して共有する。アプリは暗号化された文字情報の記録と連絡に限られ、私物端末から写真や動画を添付する機能は許可されていない。撮影用の認可端末は、まだ貸与前だった。


 拓海はパイプ椅子に座り、身を乗り出した。

「それで、改善策なんですけど。床の寝床をもっと暖かくした方がいいですかね? ヒーターの配置を変えるとか」


 榊原がキーボードを叩く手を止め、くるりと椅子を回して拓海に向き直った。

「どうして?」

「えっ」

 拓海は言葉に詰まった。

「……だって、寝ないからです。床に置いてある寝床に」

「それは、“現在のドーム型寝床を使わない”という『結果』であって、“寒いから使わない”という『原因』の証明にはならないよね」


 ぐうの音も出ない正論だった。


「いいかい、水野君。観察された事実と、そこから導き出される推測は、明確に分けなさい。動物行動学の基本だ」


 榊原は手元のタブレットを引き寄せ、スタイラスペンでさらさらと文字を書き始めた。

 それを拓海に見せる。


【観察された事実】

 ・二夜連続で枝上を睡眠位置として選択。

 ・ドーム型寝床の使用確認なし(内部の乱れ、排泄物なし)。

 ・夜間のケージ内室温は標準範囲を維持。

 ・睡眠中に寒さで頻繁に覚醒する様子なし。

 ・身体を異常に強く縮こませ続ける等の低体温所見なし。

 ・翌朝の活動性、マナ吸収による活力は正常。


「ここまでが、君の記録からわかる『事実』だ」

 榊原はペンで画面をトントンと叩いた。

「そして、ここからが君の考えるべきこと」


【仮説】

 ・高い場所を好む?

 ・閉所ドームを好まない?

 ・寝床の位置が低すぎる?

 ・材質の匂いや感触が嫌?

 ・入口のサイズが合わない?

 ・視界が遮られることを警戒している?

 ・枝そのもの(木材)を好む?

 ・単にまだ新しい環境と寝床に慣れていないだけ?


「どう? これだけの仮説が立てられる。この中のどれか一つかもしれないし、複合的かもしれないし、全部違うかもしれない」

「……候補、多すぎません?」

「じゃあ、本人に聞けば?」

「聞けませんよ」


 拓海は即答した。

「聞いて答えてくれるなら、こんな苦労してません」

「『きゅ』って言うかもよ」

「翻訳してくださいよ、先生」

「無理。俺は魔法生物の専門家であって、魔法使いじゃない」


 いつもの軽口を叩き合いながら、榊原はデスクトップパソコンの画面を操作し、別のファイルを開いた。


「とりあえず、仮説を絞り込むためのデータは提供できるよ。ルリがこの施設にいた頃の過去記録だ」


 画面に表示されたのは、無機質な表計算ソフトのデータだった。

 家庭飼育に移行する前の、ルリの夜間の睡眠位置の統計データ。

 拓海は身を乗り出して画面を食い入るように見つめた。


【直近二週間の睡眠位置】

 ・枝上:9日

 ・ケージ上部の高い足場:3日

 ・隠れ家内部:1日

 ・観察不能(死角):1日


「……施設にいた時も、隠れ家(寝床)使ってないじゃないですか!」

「使ったことはあるよ」

「一回だけ!」

「だから、“絶対に隠れ家を使わない”とは言い切れない。ただ、割合としては非常に低いね」


 拓海はデータを睨みつけた。

 施設でも枝の上で寝ていた。あるいは高い足場。

 現在の自宅に設置されている寝床は、ケージの床面、一番低い場所に置かれているドーム型のものだ。しかし、ルリが選んで寝ているのは、ケージの中空を横切る止まり木の上。


「……まず、高さが全然違いますね」

「そうだね。そこは検証する価値が大いにある」


 榊原は満足そうに頷いた。

「ただ、一つ釘を刺しておく。いきなりケージの中を全面改装するような真似はしないこと。ルリは君の部屋に来てまだ三日だ。環境が一気に変わるのは、彼らにとって大きなストレスになる」

「わかってます」

「既存の枝、水皿の位置、床のレイアウトはなるべく維持する。寝る場所の『選択肢』を、上の空間に一つ追加するだけ。それでどう反応するかを見るんだ」


 ***


 その日の午後。

 講義を終えた拓海は、大学から少し離れた場所にある大型のホームセンターへと自転車を走らせていた。

 目的はただ一つ。ルリのための、安全で快適な『高さのある睡眠用足場』の材料を調達することだ。

 当然ながら『小型竜用ベッド』などというものは市販されていない。安全な素材を見繕って、自分でDIYするしかない。


 ペット用品コーナーと木材コーナーを何度も往復し、拓海は頭を悩ませていた。


(接着剤や塗料は、加熱されたり齧られたりした時にどんな有害物質が出るか分からないからアウトだ。無塗装の天然木材。それに、金具だけで固定できる構造……)


 買い物リストのメモをスマホで確認する。

 ・無塗装の木製板

 ・固定用のケージ用ボルトとワッシャー

 ・滑り止めになる天然コルクシート

 ・洗浄可能な薄い敷材

 ・隠れ家になる小さな木製シェルター候補


 爬虫類用のケージレイアウト用品が並ぶ棚の前で、拓海は立ち止まった。

 市販の木製シェルター。樹皮を模したデザインで、なかなか雰囲気は良い。

 しかし、商品を手に取ってサイズを確認し、拓海は首を傾げた。


「……これでも、でかいな」


 それは小型のヤモリなどを想定したシェルターだったが、鼻先から尻尾まで十〜十二センチ程度しかないルリ基準で見ると、まるで家一軒ほどの巨大な建造物になってしまう。大きすぎると落ち着かないのではないか。


「何かお探しですか?」

 背後から声をかけられ、拓海は肩をビクッと跳ねさせた。

 ホームセンターの店員だった。親切心からの声かけだろうが、拓海にとっては心臓に悪い。


「あ、いや。ちょっとケージのレイアウト用品を……」

「何を飼われているんですか? よろしければサイズ感などご相談に乗りますよ」

「ええと……」


 拓海は一瞬、頭の中で言い訳をフル回転させた。

「小型の、爬虫類です」

 外見だけなら、小型爬虫類だと言っても、そこまで不自然には聞こえないはずだ。

「ヤモリですか? それともトカゲの幼体?」

「まあ、近いような、遠いような……。ちょっと特殊なやつで、とにかくすごく小さいんです」

「なるほど。それでしたら、こちらのテラリウム用の……」


 これ以上深掘りされるとボロが出そうだったので、拓海は適当に相槌を打ちつつ、逃げるように木材の切り売りコーナーへと向かった。


 そこでも、拓海の苦悩は続いた。

 目の前に並ぶ、様々な寸法の無垢材の切れ端。

 幅10センチ、12センチ、15センチ。


「十五センチだと、寝返りを打っても余裕があるか……? でも、単に丸まって寝るだけなら十二センチで十分。いや、尻尾まで完全に板の上に載るには……」


 傍目から見れば、ただの四角い木片を三つ両手に持ち、眉間に深いシワを寄せて真剣に悩む、少し危ない大学生である。

 しかし、拓海は大真面目だった。

 たった数センチの違いが、あのかわいい生き物の睡眠の質を左右するかもしれないのだから。


 結局、拓海は幅十二センチ、奥行き十五センチの板を選び、その他必要な金具類をレジへ持っていった。


 ***


 帰宅。

 ガチャリと玄関の鍵を開け、紙袋を抱えて部屋に入る。

 手洗いうがいを済ませ、拓海は一直線にケージの前へと向かった。


 ルリは枝の上にいた。

 拓海が抱えている紙袋のガサッという音に、すぐさま顔を向ける。


「きゅ?」

「ただいま、ルリ。これ、お前のだぞ」


 ルリが言葉を理解しているかは不明だが、拓海は袋を少しだけ持ち上げて見せた。


 だが、買ってきたものをそのままポンとケージに入れるような素人仕事はしない。

 拓海は机の上に買ってきたものを広げ、まずは検品と安全確認から始めた。

 木板の角に尖った部分はないか。ささくれはないか。金具に油や変な匂いは付着していないか。


 木板の縁を指の腹でそっとなぞる。

 ほんのわずかな、ミリ単位の引っ掛かりを感じた。

「駄目だな。ルリの皮膜が引っかかったら怪我する」


 拓海は工具箱から紙ヤスリを取り出し、板の角や縁を丁寧に削り始めた。

 シャッ、シャッ、という一定のリズムの音が部屋に響く。


 その間、ケージの中のルリはずっと拓海の作業を観察していた。

 枝の上から首を伸ばし、瑠璃色の瞳でヤスリがけをする拓海の手元をじっと見つめている。


「何作ってるか、気になるか?」

「きゅ」

「まあ、お前用のベッドなんだけどな」


 ヤスリがけを終え、固く絞った濡れ布巾で木粉を拭き取り、ドライヤーで完全に乾燥させる。

 そして、板の表面に天然コルクのシートを敷き、小型のステンレス製ワッシャーとボルトで四隅を固定する。その上に、背面板と屋根板を組み合わせた小さなシェルターを取り付けた。


 第一案、《高床式寝床》の完成だ。


 構造は至ってシンプル。

 土台は幅十二センチ、奥行き十五センチの平たい棚。表面は滑りにくいコルク張り。

 棚の奥側には高さ約六センチの背面板を立て、その上に棚とほぼ同じ大きさの屋根板を水平に固定した『半開放型シェルター』だ。

 正面と左右は開放されている。正面から中へ入ることも、側面から屋根へよじ登ることもでき、完全な洞穴にはならない構造だった。


 拓海は完成品を手に取り、様々な角度から眺めた。

「よし。完璧だ」

 人間から見れば、弁当箱よりも小さな粗末な木の箱だ。

 しかし、手のひらサイズのルリにとっては、十分に広く、雨風(部屋の中だが)をしのげる立派な寝床になるはずだ。


「ルリハウス……」

 拓海は思わず名前を付けそうになり、

「ダサいな」

 と自分にツッコミを入れてやめた。記録上は『高所休息棚A』とでもしておく。


 問題は、これをどうやって設置するかだ。

 ケージ内にルリがいる状態で、ボルトを回して大掛かりな固定作業を行うのは危険だ。ルリを驚かせて怪我をさせる可能性がある。

 一時的に、キャリーケースへ移動してもらう必要がある。


 拓海は、施設から自宅へ連れて帰った時と同じように、移動用キャリーをケージのスライド窓の近くに固定し、両方の扉を開けた。

 無理やり掴んで入れることはしない。


「ルリ、ちょっとだけこっちに入ってくれるか?」


 静かに声をかけ、待つ。

 ルリは枝から降りてくると、スライド窓の枠に乗り、キャリーの匂いをすんすんと嗅いだ。

 そして、前回よりも明らかに短い時間で、ためらうことなく自らキャリーの中へと歩を進めた。


「……前より早い」

 拓海はキャリーの扉を閉めながら、密かにガッツポーズをした。

 少なくとも、前回よりキャリーへ入るまでの時間は短かった。ただ、それが何を意味するのかまでは、まだ断定できない。

 だが、飼育記録には決して『俺に慣れてきた!』などとは書かない。

『キャリーへの進入潜時が前回より短縮』と、事実だけを記すつもりだ。


 ルリが安全なキャリーにいる間に、拓海は急いでケージ内の工事に取り掛かった。

 ルリが普段寝ている枝とほぼ同じ高さになるように、ケージの側面の網目にボルトとワッシャーを使ってしっかりと棚を固定する。

 自分の指で上から強めに押し込み、ガタつきがないか入念にチェックする。

 ルリの正確な体重はまだ測っていない。それでも、この小さな身体が乗るには十分すぎるほど余裕を持たせ、かなり大きな荷重をかけてもビクともしないよう固定した。

 枝からもスムーズに飛び移れる距離感だ。


「よし、これでよし」


 設置が完了し、拓海は再びキャリーをケージに接続して扉を開けた。

 ルリはのっそりとキャリーから出てくると、見慣れた枝の上へと戻っていった。


 そして。

 新しく設置された『高所休息棚A』の方をチラリと見たが、即座に飛び乗ったり、中に入ったりすることはなかった。

 いつもの枝の定位置に戻り、くつろぎ始めてしまった。


「……まあ、そうだよな。いきなり使ってくれるわけないか」


 拓海は、少しだけ期待していた自分に苦笑した。

 ここでおやつを使って棚へ誘導したり、手で掴んで無理やり乗せたり、指で棚を叩いて気を引いたりするのは、自分の期待どおりに使わせるための行為だ。今やるべきことではない。

 新しい物体がそこにある。危険ではないと、ルリ自身のペースで認識させる時間が必要なのだ。


 拓海は机に戻り、講義の課題レポートの続きを書き始めた。


 ***


 第一探索は、一時間後に始まった。


 かりっ。

 微かな爪の音が、ケージの中から響いた。

 拓海はキーボードを打つ手を止め、顔を上げた。


 ルリが、新しい棚へと繋がる枝の上をゆっくりと歩いていた。

 棚の縁まで近づき、首を限界まで長く伸ばして、鼻先をコルクの表面に近づける。

 すん。

 すんすん。


 拓海は、心臓の鼓動が早くなるのを感じた。

 見たい。どうするのか、穴が開くほど見つめたい。

 しかし、人間からの強い視線を感じると、動物は警戒して探索をやめてしまうことがある。

 だから、拓海はパソコンの画面を見ているふりをしながら、視界の端の周辺視野だけでルリの行動を追った。


(乗った?)

(今、乗ったか?)


 ルリは、右の前脚を一歩、棚の上のコルクへと踏み出した。

 安全を確認したのか、残りの脚も次々と板の上に乗せる。

 四脚全てが、新しい棚の上に乗った。


 ルリは棚の上をそろそろと歩き、コルクの匂いを嗅ぐ。

 そして、半開放シェルターの屋根の下、内部の空間を覗き込んだ。

 鼻先だけを屋根の下に入れ、中の様子をうかがう。


(入る!?)

 拓海は期待で胸を膨らませた。


 ルリは、一歩だけシェルターの内部に脚を踏み入れ。

 そして、すぐに出た。


(……出た)

 拓海は心の中で肩を落とした。

 やはり、上が覆われている空間は好きではないのだろうか。


 しかし、ルリの探索はそれで終わりではなかった。

 シェルターの横に回り込み、前脚を屋根の縁にかけた。

 よじっ、よじっ。

 小さな爪を引っ掛け、器用に身体を持ち上げる。

 そして、全身がすっぽりと、シェルターの『屋根の上』に乗った。


 ルリは屋根の上で立ち上がり、首を巡らせて部屋全体を見渡した。

 ケージの中で最も高い場所の一つ。視界を遮るものはない。


「…………」


 拓海は呆然とその姿を見ていた。

 入るのではなく、乗った。


 しかし、まだここで寝ると決まったわけではない。新しいアスレチックとして上に乗ってみただけかもしれない。

 勝負は夜だ。

 拓海はバインダーを引き寄せ、現在の状況を記録した。

『新設休息棚へ自発的接近。シェルター内部へ鼻先を入れる行動あり。その後、屋根上へ移動し周囲を観察』


 ***


 夕方。

 その後も、ルリは何度か枝と棚、そして屋根の上を行き来していた。

 屋根の上で座り込んでいる時間も長く、どうやらあの場所をそれなりに気に入ったようには見えた。

 しかし、拓海は記録に『気に入った』とはまだ書かない。『屋根上での滞在時間が長い』とだけ記す。


 拓海は、ケージの外から屋根の構造をじっと見つめ直した。

 本来、ルリが屋根の上に乗ることも想定して頑丈に作ってはいる。だが、まさかそこをメインの生活拠点にするとは思っていなかった。


「……角はヤスリがけしたし、傾斜もないから滑り落ちることはない。乗っても大丈夫なようには作ったけどさ」


 苦笑しながら独り言をこぼす。


 夕食の時間。

 拓海は自分のために、スーパーで買ってきたリンゴの皮を剥いていた。

 家庭飼育を始める前の実習で、ルリはリンゴの一欠片を自発的に食べている。

 今日もあげるべきだろうか。


 ケージの中を見ると、ルリが屋根の上から、じーっと拓海の手元のリンゴを見つめていた。

 拓海と目が合う。


「…………」

 ルリ。じーっ。


 すでに一度、少量を食べても短期的な異常が出ないことは確認している。マナで生きるルリにとって通常食は生命維持に必要ではなく、嗜好や行動の幅を増やすために楽しむものに近い。

 だからこそ、欲しそうに見えるたび毎日与える必要もない。長期的に常食した場合のデータはまだ十分ではないし、食べればその分だけ排泄も発生する。おやつは量と頻度を記録しながら、少量を管理して与える方がいい。


 拓海は、名残惜しさを振り切った。

「今日は、なし」


 ルリはリンゴを見て、拓海を見て、もう一度リンゴを見た。


「なし」

「きゅ」

「……そんな顔して見ても、今日はなし」


 拓海は自分への誘惑を断ち切るように、急いでリンゴを口に放り込み、見えないように片付けた。

 かわいいからといって、反応を見るたび食べ物を差し出すつもりはない。必要のない摂食だからこそ、何を、どれだけ、どの頻度で与えたかを管理する。それも飼育担当者の仕事だ。


 ***


 夕食後、拓海は風呂に入ることにした。

 初めてルリを部屋に置いたまま、自分が長時間の死角に入ることになる。

 もちろん、部屋には鍵がかかっているし、ケージもロックしてある。物理的な危険は排除してある。

 それでも、シャワーを浴びている間中、拓海の頭からはルリのことが離れなかった。


「大丈夫だよな……。変なとこ挟まったりしてないよな」


 気が気ではなく、拓海は烏の行水で早々に風呂場から飛び出した。


 髪をタオルで乱暴に拭きながら、部屋に戻る。

 真っ先にケージを見る。


 ルリは、新しく設置したシェルターの、屋根の上にいた。

 四本の脚を身体の下へ折りたたみ、腹を低くして、屋根の上で落ち着いている。


「そこ、そんなに好きなの?」

「きゅ?」

 ルリが首を傾げる。


 夜十時。

 そろそろ寝る時間が近づいてきた。

 拓海は部屋のメイン照明を落とし、間接照明だけを残した。薄暗くなった部屋の中で、ケージの中の動きをじっと見守る。


 ルリが動いた。

 屋根の上から立ち上がり、枝の方へ歩いていく。

 いつもの定位置。ケージの中央。


「……やっぱ、寝るのは枝か」


 拓海は少しだけ肩を落とした。

 棚はあくまで遊び場で、睡眠という最も無防備になる瞬間は、これまで慣れ親しんだ枝を選ぶのだろう。そう思った。


 しかし。

 ルリは枝の上を少し歩いた後、くるりと向きを変えた。

 そして、再び新しい棚の方へと歩き出したのだ。


 シェルターの入口の前に立つ。

 中を覗き込む。

 しかし、やはり入らない。

 横に回り、よじよじと屋根の上へと登る。


 ルリは屋根の上で、慎重に足場を確かめるように一周した。

 くるっ、くるっ。

 成人男性の掌サイズのルリにとって、幅十二センチ、奥行き十五センチの屋根の上は、全身を収めても少し余裕のある広さだった。


 そして、ルリは屋根の中央で動きを止めた。

 四本の短い脚を、ゆっくりと折りたたむ。

 背中の翼をきっちりと身体の側面に密着させる。

 短い尻尾を、鼻先の近くまで引き寄せる。

 完全な、球体に近い丸いフォルム。


「…………」


 拓海は息を殺した。

 見守ること数分。

 ルリはゆっくりと目を閉じ、完全に動かなくなった。

 微かな、規則的な呼吸の上下運動だけが続いている。


 本当に、寝た。


 拓海はサイドテーブルの時計を見た。五分が経過しても、ルリが体勢を変える様子はない。完全に熟睡モードに入っている。


「……そこなの?」


 拓海は、誰に聞こえるわけでもない小声で呟いた。


 渾身の思いでヤスリがけをし、ルリが安心できるようにと設計した半開放型の寝床。

 その『使用箇所』は、まさかの『屋根』だった。


「中、作ったんだけどな……」


 半笑いでぼやく拓海に、寝ているルリが返事をするはずもない。

 しかし、しばらくその寝姿を眺めているうちに、拓海の中でパズルのピースがカチリと音を立ててはまった。


 拓海は、床面のドームを使わなかった理由の仮説を思い出した。

 今回ルリが選んだ場所、つまり『屋根の上』と、これまでの『枝の上』との共通点を挙げてみる。


 まず、ケージ内でもかなりの高所であること。

 前方と左右の広い範囲を見渡せる、視界の開けた場所であること。

 その一方で、背後はケージの壁に近く、完全に開けきった場所でもないこと。

 頭上が屋根で完全に閉鎖されていないこと。

 そして――拓海が生活している空間(ベッドや机)を、常に視界に収められる位置であること。


 これらは全て、床置きのドームでは満たせない条件だった。

 そして、新しい屋根の上は、枝と違って足元が平らで広く、身体全体をしっかりと支えられる。寝返りを打っても滑り落ちる危険性が低い。


 拓海は大きく息を吐き出した。


「……そっか」


 自分は勝手に、『寝床』といえば『中に入って寝る場所』だと決めつけていた。穴ぐらに潜る小動物のイメージに引きずられていたのだ。

 少なくとも今回、ルリが睡眠場所として選んだのは、『自分が落ち着いて休めるらしい条件を満たした場所』だった。

 それが人間の想定した『中』ではなく、想定外の『屋根』だったというだけだ。


 拓海はバインダーを取り出し、ペンを走らせた。

『新設した高所休息棚Aを睡眠位置として初使用』

『半開放シェルター内部の利用は確認できず』

『シェルター屋根上にて睡眠開始』

 少しだけ手を止め、さらに書き加える。

『従来の枝上睡眠との共通点:高所・開放視界。屋根上は枝より足場が広く安定。睡眠位置の選択との関連は今後継続観察』


 ***


 バインダーへの記入を終えた拓海は、その内容を八咫烏指定の飼育記録アプリへ転記して送信した。そのままスマホで、同じ専用アプリ内の連絡画面を開く。

 榊原への追加報告だ。


『夜分すみません。新しい寝床、使いました』


 さすがに寝ているかと思ったが、すぐに既読がつき、返信が来た。

『お、よかったね。推測と対策が当たったじゃないか』

『屋根を、ですが』

 送信。

 しばらく、既読がついたまま返信が途絶えた。

 やがて、短くメッセージが届く。


『寝床として使って熟睡してるなら、成功じゃない?』

『まあ、そうなんですけど。俺としては、一生懸命ヤスリがけした中を使ってほしかったんですけどね』


 拓海の愚痴に対する、榊原の返答は鮮烈だった。


『それは水野君の都合でしょ』


 ぐうの音も出ない。本日二度目の完全敗北だ。

 さらに、榊原からのメッセージが続く。


『飼育設備はね、動物に人間の設計図通りに使わせるためのものじゃないよ』

『安全に使える選択肢をいくつか用意してやって、彼らが実際にどう使うかを見る。そして、彼らが選んだ使い方に合わせて、次に直すんだよ』


 拓海は、画面を見つめながら深く頷いた。

『はい。ありがとうございます』


 拓海の脳内に、新しい発想が次々と湧き上がってきた。

 ルリが屋根の上を好むなら、無理に内部へ誘導する必要はない。

 次は、屋根の上を『正式な睡眠場所』として改善すればいいのだ。

 コルクよりもっと滑りにくい素材は何か。寝返りを打っても落ちないように、屋根の縁にわずかな出っ張りをつけるか。清掃性を上げるにはどうするか。


 動物が選んだ場所に、人間側が設備を合わせる。

 これこそが、飼育の面白さであり、理念そのものなのだ。


 だが、今日はもう何もしない。

 ルリは今、安心しきって眠っている。

「もっと快適にしてやろう!」と今からケージ内に手を入れて改装を始めるのは、それこそ人間の傲慢というものだ。

 工作は明日。ルリが起きて、別の場所で遊んでいる時にやればいい。


 ***


 拓海はスマホを机に置き、自分もベッドに潜り込んだ。

 寝返りを打って、ケージの方を見る。


 いつもの枝より、新しく設置した棚は少しだけ手前の、見やすい位置にある。

 間接照明の薄明かりの中、屋根の上で丸くなっているルリの背中が、ベッドからでもよく見えた。


 まん丸の身体。きっちりと畳まれた翼。鼻先の近くに添えられた短い尻尾。

 時折、呼吸に合わせて喉のあたりが小さく動くのがわかる。


「ルリ」


 拓海は、自然と口を開きかけて――言葉を呑み込んだ。


 呼ばない方がいい。

 ルリは今、ぐっすりと眠っているのだから。

 昨日、名前が決まった時は、嬉しくて何度も連呼してしまった。

 でも今は、名前を呼べる特権を持っているのに、あえて呼ばない。

 相手の都合を尊重する。飼育者として、ほんの少しだけ自分が成長できたような気がした。


 拓海はリモコンに手を伸ばし、部屋の最後の照明を落とした。

 完全な暗闇が訪れる。

 数秒後。


 かりっ。


 小さな爪の音が響いた。

 拓海は暗闇の中で目を開けた。

 ルリが目を覚ましたわけではない。屋根の上で、寝返りのように少しだけ身体の向きを変えた音だ。


「…………かわいいな」


 小声で、ただ一言だけ呟いた。


 翌朝。

 アラームで目を覚ました拓海がケージを見ると、ルリはまだ新しい寝床の屋根の上で丸くなっていた。

 シェルターの中は、新品同様のまま。


「……やっぱ、そこなんだな」


 拓海が近づくと、ルリが目を覚まし、小さく鳴いた。

「きゅぅ……」


 こうして、水野拓海が半日かけて悩み抜き、ヤスリがけをして作った《寝床》は、その日から《寝床の台座》としてルリに愛用されることになったのである。

最後までお付き合いいただき感謝します。


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