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[第75話] 始発(しはつ)

 これはもう、聞くもおぞましい身の毛も弥立よだつ話? である。

 今から数年前の冬の季節だった。乗降客とて少ない海沿いの駅に降り立った一人の男がいた。その男は小麦こむぎ瓶也びんやといった。外見はうらぶれた服装だったが、これといって変わりばえしない普通の男に見えた。

「あの…もし、どこへいかれるんです?」

 改札の駅員、酒樽さかだるいぶかしげな顔で小麦にたずねた。それもそのはずで、午後11時半ばを過ぎた深夜の最終便である。

「どこへ…って、ここへ」

「はあ? いや、だから、ここのどちらへ行かれるんです?」

 時間も時間である。誰もが、そう訊ねただろう。

「いや、別にこれといったあては…」

「この辺りに宿はありませんよ」

「そうですか…弱ったな」

 小麦の表情は別に困っているようにも見えなかった。

「そう言われましてもねぇ~」

「そこの待合所で寝てはダメですか?」

「待合所ですから、ダメということはありませんがね…」

 変わった人だ…という目つきで酒樽は小麦をうかがい、切符を受け取ると改札を通した。

「じゃあ、私はこれで帰りますんで…」

 酒樽は戸締りを済ませ駅員室を施錠すると、帽子を脱いで小麦に一礼した。

「あの…もし、どこへいかれるんです?」

「どこへ…って、ここへ」

「はあ? いや、だから、ここのどちらへ行かれるんです?」

 自分が訊ねたのと一字一句、違いなく、酒樽は小麦に訊ね返された。だが自分はこの地に家があり、家族がいるのだ。ここからが違う! と意気込んだ。そして、酒樽は『どこへって、家族の所へもどるだけです』と言おうとした。ところが、である。

「いや、別にこれといったあては…」

 酒樽の口から出たのは、この言葉だった。酒樽は自分の口をふさいだ。

「この辺りに宿はありませんよ」

 小麦は酒樽に返した。いつの間にか小麦のうらぶれた服装が駅員服に変わっているではないか。

「そうですか…弱ったな」

 酒樽は自分の意志とは真逆に、口を動かしていた。そして酒樽は、いつの間にか自分の駅員服が小麦が着ていたうらぶれた服装に変化していることに気づいた。

「そう言われましてもねぇ~」

「そこの待合所で寝てはダメですか?」

「待合所ですから、ダメということはありませんがね…」

 このサイクルが何度もり返された。二人は何度も立場を逆転させ、交流電源のプラスマイナスように朝を迎えた。そして、始発がホームへ入ってきた。

 酒樽は何もなかったように、深夜に受け取った切符を改札で渡し、小麦を通した。二人の服装は何もなかった以前に戻っていた。ただ、二人の顔はどういう訳か、ウィスキーを飲んだあとのように紅潮こうちょうしていた。


                    THE END

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