第二十話 いい歳のお兄さんが自分を魔法使いってあまり言わない方がいいよ。
走ってみればよく分かる。
エルーガは初め見た印象よりも大きな街だ。そして急勾配が多いなと柚希は息を弾ませながら思った。来たときに見た半分に割ったすり鉢状の町並みを頭に思い描く。街の中心地、エルーガ乗り場があったところをすり鉢の底だとすると、今はすり鉢のふち辺りだろうか。それにしても随分と坂を駆け上がってきたものだ。潮の香りがする風が柚希のうなじをくすぐった。
うっかりさらわれてきてしまった。
その事実に我に返ったのは、柚希の息が整ってきたころだ。
言葉も少ししか喋れなければ、お金も持っていない最上さんをうっかり置いてきてしまった。
きっと今頃途方にくれているだろう。行きずりの男の人についていった柚希を軽率だと怒っているかも。心配して探しているかも。
柚希は狼狽した。しかし、戻ろうと一歩踏み出したところで、それ以上前には進めなかった。走っていたときに繋いでいた手がまだしっかりと握られたままだったことに今更気がつく。
赤くなった柚希が手を離すと、それは意外なほど素直にほどけた。
「驚いたな。この私にしっかりと付いてこれたなんて」
男が目を細めて柚希に人好きのする笑顔で微笑みかける。
「途中で走れなくなったら抱き上げようと思っていたのに」
現実には到底不可能だと諦めていたお姫様抱っこを男はするつもりだったと聞き、再び柚希の心がときめく。柚希は冷静になれ、と自らを叱咤した。
「で、強引に連れてきてしまったわけだけど、まずかったかな」
言葉の意味を考えている柚希のようすは男の目に困っているように見えたのだろう。両手で顔を覆い、何かを悔やんでいるようだった。でもまたすぐに調子を取り戻す。悪い人では無さそうで、とりあえず柚希は彼を観察することにした。
「だよな。あんな男でもお嬢さんの恋人……だもんな。でも、相手を選んだ方がいいと言った言葉はゆずらないけどね。少し前から見てたんだけど、君、何か無理強いされていただろう。そのあとよりによってサラマス達に近づくように背中を押されていたからつい」
「サラマス……」
「そう。ドラゴン混じりのやつらでさ、荒っぽいことが大好きな種族なんだけど知らない?」
知らないと言うように首を横に振る。異世界人だとバレてしまうだろうかと危惧したが、男はとくに気にしていないように会話を続けた。
「ああ、そう。あちこちの国に傭兵として雇われては戦争に参加して生活してる奴らなんだけどね。特別悪い奴らってわけでもないんだけど、ちょっとした種族上の事情で一般的に女の子が自分から寄っていくってことはないしさ、何かあの男に強要されてるんじゃないかって思っちゃったんだよね」
「種族上の事情?」
「どうしてかサラマスは基本的に男しか生まれないの。それじゃ、どうやって繁殖してるのかって思うでしょ」
柚希は嫌な予感を感じながら頷いた。
「気に入った他種族の女の子と繁殖するんだよ。サラマスはどうも遺伝的に強い種族みたいで、掛け合わせた種族の遺伝的特長を……ってそんな話しはいいか。とにかくあのなかに好みのサラマスがいるならともかく、さらわれないように気を付けてね」
「拐う……」
「番えばすごく愛妻家らしいんだけど、出会いが難しいみたいでねぇ。だから、繁殖期になると時々強引に連れて行っちゃうサラマスもいるみたい。さっきはね、エモニアで兵士を募集しているからガルーダに乗るつもりで待ってたんじゃないかな。それにしてもサラマスを知らないなんて、言葉が通じなかった彼も君も……どこから来たの」
ちょっと待って、と長文と異世界事情を理解しきれない柚希は手のひらを彼に向けた。彼は柚希の仕草に不思議そうにしたあと、嬉しそうに手のひらを合わせてきた。ゴツゴツとした乾いた男の手のひらは、柚希の指先から一関節分長く、キュンとしそうになる自分を押さえ込む。
「ええと、待って。先ず聞いてもいい?」
「どんなことでもどうぞ」
心なしかウキウキしている男の様子は横に置いておく。もし咄嗟に抱きつかれでもしたら、そのときは投げ飛ばして逃げよう。
「あなたは、誰?」
こちらの事情を話すのも、誤解を解くのも相手が何者か判ってからでいいだろう。もうひとつ気掛かりだった最上さんも、元々一文無しでもこの世界でしばらく生きてきたのだ。すぐにどうこうということはないだろうし、向こうから探してひょっこり現れそうな気もする。
それにしても手のひらを合わせて話するなんて、なんの儀式だろう。もう手を下ろしてもいいかなと柚希が考えていると、男が少しもじもじと照れた。
「私は……サリュー。この国イチの魔術使いだよ」
魔術使いと言った? いやいや聞き間違えかもしれないと柚希が聞き直す。きっと魔術と奇術を聞き間違えたのだろう。
「奇術使い?」
「魔、術、使、い」
男が少しムキになりつつ、ゆっくりはっきり発音した。それでもにわかに理解しきれない。
「またまた~」
それじゃ、この男が鏡を使って呪文を唱えて変身したり、箒に乗って荷物を届けたりするというのか。柚希の魔法使いに対するイメージには目の前の人物はほど遠い。ああ、そうか。男の人ってある程度まで成長してある条件を満たせば魔法使いになるって聞いたことがある。もてそうなのに残念だなぁ。
柚希の心の声が聞こえたかのようにムッとした男は、柚希の肩を指差して言った。
「君は妖精の契約者なのに、妖精は信じられて魔術使いが信じられないの?君の国には魔術使いはいないのかな」
テレビやゲームの中にしか魔法使いなんていないと答えかけて口をつぐむ。どうやら男にはリリアが見えているらしい。
「えっと……なんというか、行き掛かり上契約することになったというか、なんというか」
「妖精と契約した経緯を聞く気もないし、咎めているわけでもないよ。もともと妖精を可視できるのは高位魔術使いか祝福の乙女だけなんだ。君自身から妖精を可視できるほどの魔力は感じられない」
「へー」
「へぇって……」
男は脱力した。何気に自分は高位の魔術使いと自慢したかったわけか。なるほど。これは重症だ。
「つまり君は"祝福の乙女"ってこと。ずっと君を探していた。結婚しよう!」
不意のプロポーズとともに抱きつかれかけて驚いた柚希は、気づけば右こぶしをサリューの左頬にめり込ませていた。