01
この世界に魔王はいない。
勇者アレックスと第三十一代聖女リーリエが、魔王を討ち取ったからだ。それ以来、世界には長い平和が訪れた。聖女は代々神託によって選ばれ、現在は、その平和を守る存在として在り続けている。今代の聖女、第七十五代聖女リーリエは、少なくともそう聞いている。
「リーリエ様、謁見のお時間でございます」
一羽の小鳥が窓を遮るように飛び立つ。晴れやかな空へと消えていくのを眺めてから、リーリエは窓から視線を外して振り返った。白銀の髪が、肩からさらりと滑り落ちる。差し込む朝の光を受けて、その髪は淡く輝いていた。
「はい、今参ります」
平和な時代においては、聖女の仕事は戦うことではない。かつては特別な癒しの力を持っていたという聖女も、今は人々のために祈るのが主な仕事だ。神官に手伝われながら、リーリエは白い聖衣に着替えていく。仕立てのいい生地で丁寧に誂えられたそれを身につけるだけで、リーリエの身まで引き締まるような心地になる。最後に、金のロザリオを首にかければ、支度は終わりだ。
白亜の宮殿を歩く。神殿にはリーリエを含めて多くの人間が暮らしている。神官にその見習い、奉仕に来ている一般市民。それらすべてが、すれ違うたびにリーリエに向かって頭を下げた。リーリエは足を止めず、ただ微笑み会釈を返し通り過ぎていく。生まれてから二十年。何度も繰り返してきた、当たり前の光景だった。
謁見の間は神殿の東端にあり、一般の謁見希望者は東門から出入りする決まりになっている。東門は、神殿で唯一、一般に開かれた出入り口だった。
リーリエはふと、廊下の窓から、門を見た。馬車が数台、入り口に止まっている。黒い豪奢な馬車だ。ということは、今日の謁見相手は貴族らしい。
「失礼いたします」
軽くノックをしてから、謁見の間に入る。相手が貴族だろうが、平民だろうがリーリエは聖女。リーリエが謁見の間に入れば、人はみな立ち上がって、膝をつくのが常だった。
「おぉー、やっときたか」
しかし謁見の間にいた男は、いつもと違った。謁見の間のソファにどっかりと深く腰掛け、長い足を組んでいる。リーリエは思わず、何を言うでもなく彼の顔を見つめた。
癖のつよい赤髪が、オールバックにしている額にわずかに垂れていた。その下に好戦的に見える黄金の猫目が、リーリエを見定めるように輝いている。整った顔立ちをしているが、どこか人を食ったような生意気そうな印象を抱かせる。
リーリエが彼を見つめていると、男の後ろに控えていた侍従らしき男が、悲鳴のように叫んだ。
「レオン様! 聖女様の御前です!」
「あ? なんだよ」
羽虫でも払うように手を振って侍従を下がらせると、再び男がリーリエを見た。白い聖衣、白銀の髪へと視線があがり、最後にようやく呆然と見つめる薄青の瞳と視線がぶつかった。彼は、気だるげな動作で立ち上がる。
「わーったよ、もう。……聖女サマ、お初にお目にかかります」
男は慇懃なしぐさでお辞儀をした。見事なボウ・アンド・スクレープだが、最後に余計なウィンクがついた。
「俺は、レオン・エルハルト。エルハルト伯爵家の三男だ。よろしくな、聖女サマ」
「ええ。ようこそいらっしゃいました、レオン様」
リーリエははっとして、いつもの調子を取り戻す。決められた作法通りにひとつ、頷くだけ。聖女たるもの、常に余裕ある態度を崩してはならない。しかし、耳の奥では、自身の心臓の音が激しく鳴り響いていた。小さな子供にだって、このような態度はとられたことがない。
「本日は、どのような用向きで私に会いに来られたのでしょう。なにか、お悩みが?」
「ああ、神殿への貢物を届けるついでに、聖女サマのありがたいお話を聞いてこいって言われてさ。しばらくエルハルト家の取り次ぎ口が俺に決まっちまったから、通うことになるんだよ」
まるで、神殿に来ることが、面倒なおつかいかのような口ぶりだった。
「ついでに……」
「ああ、面白い話でも聞かせてくれよ」
リーリエは再び、レオンの顔を唖然と見つめることになった。人の話を聞くのは得意だ。悩みに対して説法をすることも、何度も何度もやってきた。けれども、「面白い話」をしようとしたことは、今まで一度もなかった。
そうしているうち、レオンは再び断りもなくソファに腰掛け、リーリエに向かっても座るように促した。釣り目がちの瞳が、品定めするようにリーリエを見つめて細まる。まるで、この部屋の主かのような振る舞いだ。わずかに、リーリエの手が握りこまれた。
「面白い話は、できません。ここは、そのような話をする場では無いのです」
平静をなんとか保ち、穏やかに返す。
「へえ、じゃあ一体どんな話を?」
「お悩みを聞いたり、必要であれば祈りや説法を」
「それって、楽しい?」
レオンは頬杖をつき、何気なく尋ねた。わずかに傾いた顔に、悪意は浮かんでいない。けれどもリーリエはすぐに答えられなかった。
神殿に助けを求める人々の悩みは切実だ。神官などは、話をきいているだけで精神的に病んでしまうものもいるという。リーリエも、痛ましい話をたくさん聞いてきた。
「楽しいなど……。とんでもありません」
「つらいの?」
「それが聖女の務めでございます」
ふうん、と気の抜けたような返事が聞こえた。レオンの口角が、わずかに上がる。
「平和になって長いのに、聖女サマは真面目だね。話を聞くために、天から遣わされたんだ」
そこには、嘲りの色は無かった。ただただ、思ったことを口にするような軽薄さと、素直さがある。
「でもさ。俺というときは、そういう辛気臭いのは無しにしようぜ」
「はい?」
リーリエが聞き返すと、レオンの笑みが深まった。
「つまりさ。俺はおかげさまで人生の深ーい悩みなんてないんだよ。でも、しばらくはここに通わなきゃなんない」
レオンは一本指を立てた。
「だからさ、俺とは楽しい話をしようぜ。聖女サマがそんなん無いっていうなら、質問に答えるだけでいい」
リーリエはいつの間にか、レオンをじっと見つめていた。燃える炎のような髪に、金の瞳が目に痛い。それでも、吸い込まれるように、その瞳から目が離せなくなる。
「せっかく美人と話すんだ、肩苦しい説法なんかより、アンタの話が聞きたいだろ」




