episode.37
里長との挨拶は、思っていたよりもずっと穏やかに終わった。
リゼから届いていた文のおかげもあったのだろう。里長はアシュレイを静かに迎え入れ、少し話をした後、「好きに過ごすといい」とだけ言って二人を解放した。
館を出ると、外はすっかり夜になっていた。淡い霧の向こうで、魔導灯がぼんやりと揺れている。
森を渡る風は涼しく、どこか懐かしい匂いがした。
このまま別れて眠りにつくのが惜しくなり、リゼはアシュレイを見上げた。
「……少し、歩きませんか」
気づけば、そんな言葉が口をついていた。アシュレイは静かにリゼを見る。
「ああ」
二人は並んで、夜のエルシアを歩き始めた。
幼い頃から見慣れた道。薬草畑。小さな泉。古い石橋。
リゼにとって当たり前だった景色を、アシュレイは静かに眺めている。
「ここは?」
「薬草庫です。幼い頃はよく叱られました」
「お前が?」
「はい。勝手に薬草を調合したり爆発させたりしていたので」
「……想像よりやんちゃだな」
低く笑う声が落ちる。そんな何気ない会話が、妙に嬉しかった。
不意に、リゼは足を止める。
目の前には、大きな湖が広がっていた。月明かりを映した水面が、静かに揺れている。
エルシアの中でも、リゼが一番好きな場所だった。
「綺麗だな」
隣でアシュレイが小さく呟く。リゼは胸の奥がじんわり熱くなるのを感じながら、水面へ視線を落とした。
「……ここへ、誰かを連れて来たのは初めてです。母が亡くなった時、遺灰をこの湖に還したんです。それが母の希望だったので」
その言葉に、アシュレイが静かにこちらを見る気配がした。
「そうか」
短い返事。けれどその声音は、どこか優しかった。
沈黙が落ちる。だが不思議と気まずくない。むしろ、この静けさすら心地良かった。
しばらくして、不意にアシュレイが口を開く。
「良い場所だな」
「どこにでもある、ただの湖ですよ」
「そうは見えない」
リゼが瞬きをする。
アシュレイは静かな湖面を見つめたまま、小さく息を吐いた。
「お前が、大切にしている場所なんだろう」
その言葉に、リゼの胸が大きく跳ねた。
思わず顔を上げると、灰色の瞳が真っ直ぐこちらを見ている。
逃げられない。けれど、不思議と嫌ではなかった。
リゼは誤魔化すように湖へ視線を戻した。月明かりが水面へ細く揺れている。
「……アシュレイ様は、ずるいです」
「何がだ」
「そういう事を、平然と言うところがです」
すると隣から小さな笑い声が落ちてきた。
「本当の事を言っているだけだ」
「開き直らないでください……」
リゼは小さく唇を尖らせる。
だが、そんなやり取りすら心地良かった。
昔の自分なら、誰かとこんな時間を過ごす事など想像もしなかっただろう。
静かな夜。隣に立つ人の体温。言葉が途切れても苦しくない沈黙。
その全部が、少し前の自分には無かったものだ。
不意に、アシュレイがゆっくりとリゼの髪へ触れた。
「……っ」
指先が、銀色の髪をひと房掬う。それだけで心臓が跳ね上がった。
アシュレイは静かな声で呟く。
「正直、ここへ来ることは少し怖いと思っていたんだ」
「……え?」
意外な言葉に、リゼは目を瞬く。
アシュレイは苦笑するように目を細めた。
「エルシアは、お前の故郷だからな。帰りたくなるんじゃないかと…」
静かな湖面へ視線を向けながら、低い声が続く。
「王都での時間より、こっちを選びたくなるかもしれないだろう?」
その言葉に、リゼは小さく息を呑んだ。
アシュレイがそんな事を考えていたなんて、想像もしなかった。
彼はいつだって余裕があって、迷いなく手を伸ばしてくれる人だったから。
けれど、本当は違ったのだ。自分と同じように、不安も抱えていた。
「……私は」
リゼはぎゅっと指先を握る。夜風が静かに吹き抜ける。
「王都へ行く前の私には、もう戻れません」
ぽつりと零れた声は、自分でも驚くほど穏やかだった。
アシュレイが静かにこちらを見る。
リゼは胸の奥にある感情を、一つ一つ確かめるように言葉を続けた。
「誰かを特別に思う事も、隣にいたいと思う事も……全部、アシュレイ様が教えてくれましたから」
胸が熱い。けれどもう、怖くなかった。
「だから……」
リゼはゆっくり顔を上げる。灰色の瞳と視線が重なった。
「私は、あなたと一緒にいたいです」
その瞬間、アシュレイの表情が僅かに揺れる。
驚いたように目を見開き、次の瞬間には困ったように笑った。
「……今、お前はとんでもない事を言った自覚があるか?」
「え……?」
きょとんとするリゼへ、アシュレイは深く息を吐く。そして次の瞬間、ぐい、と腕を引かれた。
「きゃ……っ」
気づけば、強く抱き寄せられていた。広い胸の中へ閉じ込められ、リゼの心臓が暴れ出す。
「ア、アシュレイ様……!?」
「なんだ」
耳元へ低い声が落ちる。
「あんな顔であんな事を言っておいて、今さら逃がすと思うのか」
熱い。耳まで一気に熱が駆け上がる。
リゼが真っ赤になって固まっていると、アシュレイはくつくつと喉の奥で笑った。
「……もう俺から逃げられないな」
「〜〜っ!!」
完全に面白がっている。けれど、その腕はひどく優しかった。
逃げられない。きっと、この先もずっと。
そう思うのに、不思議と嫌ではない。
むしろ胸の奥が、どうしようもなく満たされていく。
リゼはそっと彼の服を掴んだ。するとアシュレイが少しだけ目を見開き、やがて穏やかに目を細める。
夜のエルシアは静かだった。
湖面へ映る月の光が、淡く揺れている。
その優しい光の中で、リゼはそっと目を閉じる。
これから先も。
きっと、自分は何度でもこの人の隣を選ぶのだろう。
そんな未来が、今はただ愛おしかった。




