不調
その朝、起き上がろうとしてわたしは体勢を崩した。
立ち眩みを起こしていたらしい。
夫は驚き慌ててわたしを安静にしようと試みたが、使用人もいない我が家では、家事をしない訳にはいかないのだ。いつも夫と手分けして済ませているので、基本的に出来ない作業はないのだけれど、元々こなしていたか否かで、得意不得意は勿論ある。具体的にいえば、掃除だ。そして夫は逆に掃除が得意で料理が苦手なので、釣り合いは取れているといえる。つまりは朝食の用意に困るのだ。
「立ち眩みなら少し休めば回復すると思うから…」
そう告げると、夫はにこやかにその先を遮った。
「うん、なら今日一日はゆっくり休んでいて。私が家事を全てこなそう」
血の気が引いた。夫は料理が苦手、と前述したが、それはわたしが掃除が苦手、とする程度の苦手度合いではない。寧ろやらせてはならないという程の領域である。頭が更にくらくらするけれど、そんなことを言っていられるものか。わたしは命が惜しい。
「なら、かまどの前に椅子を置いて、座って料理をしましょう。それなら大丈夫」
言い切ったのは、夫の余計な干渉を防ぎたかったからだが、夫は幾分不満そうな顔をした。確かに彼はまだ少年と言える年齢ではあるけれど、子供のような顔をするなという訳にもいかない。
「具合が悪化したら、すぐ寝台へ連れ戻す」
唇を尖らせながら言う内容だろうかと首を傾げつつも適当に同意しておく。夫は意外に頑固な性質で、こうと決めたことは譲らないのだ。だが、朝食の味でわたしの体調の回復度も決まる。まともな食事に出来ないならそれは寧ろ拷問になるだろう。朝からそれだけは勘弁願いたい。しかし刃物は頭がくらくらしている時には良くないだろう、ということで、夫が食材を切ることになった。わたしはかまどの前で食材を調理するだけになったので、少し楽になった。ようだ。夫は包丁さばきはそれなりのものなので、わたしは目の前の鍋に意識を集中させることにした。
汁ものと、主食になるもの。そして作り置きしておいた副菜。豪華とは言えないがそれなりに庶民の食卓を彩るには程よい程度の品が並ぶころには、わたしの気分も上昇していたのだが、油の香りが強く聞こえた瞬間、わたしは気分が悪化して、思わず口元を押さえた。吐くには至らないが、気持ちの悪さがある。
「阿君?」
わたしの異変に気付いたらしく、夫が駆け寄ってきた。もうほぼ出来上がっていた食事はそのまま、わたしを寝台へと運ぶ。そしてわたしの額に脂汗が滲むのに気づいた様子で、眉間に皺を寄せていた。ちなみに阿君とは夫がわたしにつけた愛称である。平君という名なので阿平とか平平、平児という愛称になることが多いが、彼は家族の誰も呼んだことがない愛称を欲しがったのだ。それくらいなら大したことでもないのでそのまま許可し、早速彼がつけた愛称が前述のとおりだったという訳である。
「気分が悪くなったきっかけは? 判る?」
「……油の匂いを強く感じたあとに、気持ち悪くなって。朝食を少し摂ったら横になるわ。それでいい?」
この辺りが妥協点だろう。少し休めば回復もするだろうけれど、食事も食べないままでは更に体が弱る。
「判った。お医者さんを呼ぼうか?」
医者に診て貰うには金がかかる。あまりこのようなことで金を無駄遣いしたくはない。
「無駄遣いじゃないよ。普段なら元気に動く阿君が気分が悪いと言っているんだ。病気なら早く診て貰って、治した方がいい。そのための費用ならちゃんとある。阿君が心配しなくても大丈夫だよ」
思っていたよりずっとわたしの夫は甲斐性があって優しい男だったようだ。
「でも……」
「なら、数日様子を見て、不調が続くようなら診て貰うというのでもいい。阿君はどうしたい?」
躊躇うわたしに、提案したのは彼の譲歩だ。時々、彼は年上の余裕を垣間見せる。そんなに年上という訳ではないのだけれど、どこか余裕があるように見せたいのかも知れない。わたしの父親だったら「男の見栄ってやつだ」と言ったに違いないのだけれど。
「……そうね。なら……、三日。三日様子を見て、回復しないなら、お医者さまに診て頂きましょう」
寝台の上でわたしを抱えながら、夫はわたしの言葉に嬉しそうに頷いた。
二日ほどして、母が実家からやってきた。どうやら彼が不調について相談していたらしい。お医者さまに行くより先に母に相談するのは、確かに悪くないことのように思えた。
「大丈夫? 季節の変わり目だから確かに体調を崩しやすいころではあるけれど、食欲はあるの?」
眉を曇らせながらわたしに尋ねるのは、あまり食べていないと思っているせいか。
「旦那様はちゃんと稼いできてくれるから食事は摂っていたけど、確かに言われてみればここ暫く、食欲が落ちていたかも。言われるまで気づいてなかったわ」
「……月のものは?」
瞬間、頭が真っ白になった。月のもの? え?
「……そういえばここ暫く来てない、わ。元々周期が乱れやすいからあまり気にしていなかった……」
「……おめでた、かもね? お医者さまに診て頂くほうがいいでしょう。それならはっきりしたわ。体が特定の食材とか匂いとかを受け付けにくくなっているのよ。無理して食べる必要はないけれど、体が弱ってはいけないから、ちゃんと食事を摂れるように環境を整えないと。食べられる食材でまず食事の量を確保しなくてはね」
まだはっきり決まった訳ではないけれど、と微笑む母は、どこか嬉しそうに見えた。そういえば母がわたしを生んだ後、父が宮刑に処せられてしまったために、わたしには弟妹がいない。それを最も悲しがったのは、子供好きな母であるということを、わたしはふと思い出した。
「旦那様には、まだ言わないでくれる?」
恥ずかしいのと、確定していないことから、わたしはそう母に頼んだ。
「いいわよ。でも、多分当たりでしょうね。……夜は少し控えて頂くしかないだろうから、そのあたりもちゃんと相談しなさいね」
それはものすごく無理難題な気がしたけれど、それも含めて家族になっていくということなのかも知れない。わたしは少しはにかんで、「うん」と頷いたのだった。
平君、ご懐妊です。
そしてそのころの美少年と母。
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