十一人目の椅子
四月最初の月曜日、トラッバセキュリティの事務所には十脚の椅子が並んでいた。壁際に増やした折り畳み椅子だけが、ほかより少し低い。経理と総務を一人で受け持つ田倉澄子は、その脚に厚紙を挟んで揺れを止めた。新しく買う予算はない。紙コップを十一個用意したところで、今月の支払予定表が印刷機から出てきた。
会社は三期続けて赤字だった。顧客の監視端末は増え続けているのに、口座の残高は増えない。社員九人と社長一人。田倉には全員が毎日出社するだけで小さな奇跡に思えた。社長の銀利樹一は、昨夜も顧客の調査報告を書いていたはずなのに、午前八時には床の配線を束ねていた。
九時五分、青年が扉を開けた。「本日からお世話になります。盛良助です」。声は穏やかで、履歴書にあった一年の空白を思わせない。家族の介護をしていたという説明を、田倉は面接記録で読んでいた。彼の視線は社長でも高価な機材でもなく、机の間に置かれた水入りの洗面器に向いた。
「そこ、雨漏りするんですか」「空調の結露。直すと結構かかるの」。田倉が答えると、青年は洗面器を避けて鞄を置いた。社員の野江蓮が古い端末の設定を進める間、良助は床を濡らさない場所に自分の椅子を動かした。
昼休み、田倉が戻ると洗面器の下に使い終えた吸水マットが敷かれていた。良助は誰に報告するでもなく、見積書の裏を使って簡単な座席表を作っていた。「電話が鳴ると、皆さん同じ通路に集まりますね」。それだけ言って、必要な名前を教えてもらう。田倉は新しい椅子に座ってみた。今朝まで引っ掛かった足元のコードに、もう靴先が触れなかった。




