第3話 私の母が、私の友達になった
「ねえ、みのり」
「なに?」
「今日、一緒に帰ろ」
放課後。
靴箱で上履きを脱いでいた私に、千夏が声をかけてきた。
「……一緒に?」
「うん」
千夏は当然みたいな顔をしている。
「だって友達じゃん」
その言葉に、私は少しだけ固まった。
友達。
母と娘なのに。
「……まあ、そうだけど」
「なに、その微妙な返事」
「別に」
「じゃあ決まりね」
千夏は勝手に決めると、私の隣に並んだ。
その距離が妙に近い。
昨日までなら、こんな距離で母と歩くことなんてなかった。
そもそも母は、私の隣を歩くときだって、
『ちゃんと前見て歩きなさい』
とか、
『スマホ見ながら歩かない』
とか。
そんなことばかり言っていた。
でも今、隣にいる千夏は違う。
「ねえ、駅前にゲーセンある?」
「あるけど」
「寄ろうよ」
「嫌」
「なんで!」
「宿題あるから」
「真面目すぎ!」
「普通だよ」
「普通じゃないって」
千夏は大げさに肩を落とした。
「せっかく二〇二六年に来たんだから、遊びたいじゃん」
「……その感覚は分からなくもないけど」
「でしょ?」
「でも、今日は帰る」
「えー」
千夏が頬を膨らませる。
その顔を見て、私は思わず笑った。
「……何?」
「いや」
「笑ったでしょ」
「笑ってない」
「笑った!」
「笑ってないって」
「絶対笑った!」
こんなくだらないやり取りをしている自分が、少し不思議だった。
母とこんな話をしたことなんて、一度もない。
いや。
正確には――。
母がこんなふうに子どもっぽく騒ぐところを、私は知らなかった。
「みのりってさ」
「ん?」
「普段もそんな感じ?」
「どんな感じ?」
「なんか、ずっと大人しい」
「悪かったね」
「別に悪いとは言ってないよ」
千夏は笑う。
「でも、もっと遊んだほうがいいよ」
「千夏に言われたくない」
「なんでよ」
「授業中、先生に三回注意されてたじゃん」
「それは……」
千夏が黙る。
「……見てたの?」
「隣の席だから」
「忘れて」
「無理」
「みのりのくせに生意気」
「何それ」
また笑った。
気づけば、駅前を通り過ぎていた。
「……あれ?」
千夏が立ち止まる。
「どうしたの?」
「コンビニ寄っていい?」
「いいけど」
「お腹空いた」
「昼食べたでしょ」
「食べたけど、育ち盛りだから」
「十六歳だから?」
「そう」
「……まあ、それはそうか」
店に入ると、千夏は真っ先に菓子パンの棚へ向かった。
「うわ、種類多っ!」
「そんなに?」
「だって、あたしの知ってるコンビニと全然違う」
「二十七年後だからね」
「二十七年……」
千夏は棚を見ながら呟いた。
「二十七年後かぁ」
「どうしたの?」
「いや」
千夏は少しだけ笑った。
「この先、あたしどうなるんだろって」
私は答えられなかった。
知っている。
この先、千夏は大人になる。
結婚して。
私を産んで。
私を育てて。
そして四十三歳になった昨日――。
私の前から消えた。
でも、それを今の千夏に言うことはできない。
「みのり?」
「……何?」
「これ、どっちがいいと思う?」
千夏が二つの菓子パンを持っていた。
私は思わず笑った。
「知らないよ」
「友達なら選んでよ」
「友達って便利に使わないで」
「いいじゃん」
私は二つを見比べた。
「こっち」
「じゃあ、こっちにする」
「そんな簡単に決めていいの?」
「みのりが選んだならいい」
その言葉に、なぜか胸が温かくなった。
母に信頼されたことなんて、ほとんど覚えていない。
いつも私は、注意される側だった。
なのに今は。
十六歳の母が、私の選んだ菓子パンを嬉しそうに持っている。
変な感じだった。
「ねえ、みのり」
「今度は何?」
「明日も一緒に帰ろ」
「……明日も?」
「うん」
「気が早くない?」
「だって友達じゃん」
また、その言葉。
私は小さく笑った。
「……分かった」
「やった」
千夏が笑う。
その笑顔を見ながら、私はふと思った。
この時間がずっと続けばいいのに。
そんなことを考えてしまった。
母が失踪した理由も。
転校書類が四月から存在していた理由も。
まだ何も分からない。
それでも。
今だけは、考えなくてもいい気がした。
家に帰ると、千夏は玄関で立ち止まった。
「ただいま」
「……ここ、千夏の家じゃないよ」
「え?」
「今の『ただいま』」
「いいじゃん。今日からここ、あたしの家でもあるんでしょ?」
私は何も言えなかった。
母が、自分の家みたいに笑っている。
その光景が、少しだけ嬉しかった。
「……おかえり」
「うん。ただいま」
千夏は笑った。
そして私たちは、並んで部屋へ向かった。
その夜。
千夏は私のベッドに座って、部屋を見回していた。
「へえ……」
「何?」
「みのりの部屋って、意外と普通」
「悪かったね」
「もっと散らかってると思ってた」
「なんで」
「なんとなく」
「失礼」
私は机の上に教科書を置いた。
そのとき。
千夏が、机の端に置いてあった古い写真を見つけた。
「これ、みのり?」
「うん」
幼い頃の私。
そして、その隣にいる母。
二十代の頃の母だった。
「……若い」
千夏が写真をじっと見る。
「この人、みのりのお母さん?」
「そう」
「そっか」
千夏は写真を持ち上げた。
そして、しばらく黙っていた。
「……なんか」
「何?」
「変な感じ」
「何が?」
千夏は写真を見ながら笑った。
「この人、どこかで見たことある気がする」
私は息を止めた。
「……本当に?」
「うん」
千夏は首を傾げる。
「でも、気のせいかな」
そう言って、写真を元に戻した。
私は何も言えなかった。
その写真に写っているのは。
二十七年後の、千夏。
私が知っている母。
そして今、目の前にいるのも千夏。
まだ何も知らない、十六歳の女の子。
「みのり?」
「……なに?」
「明日も学校、一緒に行こうね」
私は少しだけ笑った。
「うん」
それだけ答えた。
今は、それでよかった。
母と娘じゃなくて。
未来を知っている私と、未来を知らない千夏。
ただの友達として。
明日も、この時間を一緒に過ごしたいと思った。




