第1話 母、十六歳、体育座り
母がいなくなって、三か月になる。
警察は「事件性は低い」と言った。
家の中に争った形跡はない。
財布も、携帯電話も置いたまま。
だから、自分の意思でどこかへ行った可能性が高いらしい。
私は「そうですか」と答えた。
泣かなかった。
怒りもしなかった。
ただ、家に帰って冷蔵庫を開けた。
そこには母の字で、
『カレー、冷凍庫。ちゃんと食べなさい』
と書かれた付箋が貼ってあった。
三か月経った今でも、その付箋だけは剥がせない。
私は昔から、手のかからない子だった。
朝は自分で起きる。
学校にもちゃんと行く。
ご飯も作れる。
母がいなくなっても、生活はできる。
だから大丈夫。
――そう思っていた。
少なくとも、その朝までは。
「……何、この人」
私立青葉ヶ丘高等学校の昇降口。
私の靴箱の前に、見知らぬ女の子が座っていた。
茶色い髪。
短いスカート。
膝下まであるルーズソックス。
スクールバッグには、ぬいぐるみやら謎のキャラクターやらが大量についている。
そして手には、アンテナの伸びた携帯電話。
どう見ても、令和の高校生じゃない。
「ねえ!」
女の子が顔を上げた。
「人いた!」
「……はい」
「ちょっと聞いていい?」
「何ですか?」
「ここ、青葉ヶ丘高校だよね?」
「そうですけど」
「よかったぁ!」
女の子は勢いよく立ち上がった。
「じゃあ学校は合ってる!」
「……学校は?」
「うん。でも、なんか変」
「何がですか?」
「公衆電話ない」
「ないですね」
「駅前のレンタルビデオ屋もない」
「たぶん、もうありません」
「みんな携帯で電話してない」
「スマートフォンなので」
「すまーと……?」
女の子が眉を寄せた。
私は嫌な予感がした。
「……その携帯、見せてもらえますか?」
「これ?」
手渡されたのは、小さなPHSだった。
私は実物を見るのが初めてだった。
「これ、いつ買ったんですか?」
「昨日」
「……何年に?」
「何年って?」
「今、何年ですか?」
女の子は不思議そうな顔をした。
「一九九九年だけど」
私は黙ってスマートフォンを見せた。
「二〇二六年です」
「…………」
「令和八年」
「……令和?」
女の子の顔が、ゆっくり青ざめていく。
「ちょっと待って」
「はい」
「平成は?」
「終わりました」
「……いつ?」
「二〇一九年」
「平成が?」
「はい」
「三十一年も続いたのに?」
「そうですね」
「じゃあ、ノストラダムスは?」
「外れました」
「恐怖の大王は?」
「来てません」
「世界は?」
「終わってません」
「……」
女の子はその場にしゃがみ込んだ。
「よかったぁ……」
「何がですか?」
「世界が終わってなくて!」
「そこなんですか?」
「だってあたし、まだ十六歳だよ?」
女の子は胸を張った。
「人生これからじゃん!」
「……」
元気すぎる。
私だったら、二十七年も未来に飛ばされた時点で泣く。
「それより」
女の子は立ち上がった。
「どうやったら帰れるかな?」
「分かりません」
「だよねー」
「……」
「まあ、なんとかなるでしょ」
「なんとかなるんですか?」
「なんとかするしかないじゃん」
あっさり言って、女の子は笑った。
その笑い方が、なぜか気になった。
「そういえば、名前聞いてなかった」
「あたし?」
「はい」
「小野寺千夏」
――小野寺。
その名字に、心臓が跳ねた。
母の旧姓だった。
「……」
「どうしたの?」
「いえ」
偶然だ。
そう思った。
同じ名字なんて、いくらでもある。
「これ、学生証」
千夏がスクールバッグから生徒手帳を取り出した。
私は何気なく写真を見る。
そして、息が止まった。
茶色い髪。
少し垂れた目。
右側だけ見える八重歯。
写真の中の少女は、母が実家に残していた高校時代の写真と同じ顔をしていた。
違う。
同じ顔じゃない。
――同じ人だ。
「……嘘」
「え?」
「お母さん……?」
千夏が首を傾げる。
「今、お母さんって言った?」
「……言ってません」
「いや、言ったって!」
「言ってません」
「絶対言った!」
その顔。
その仕草。
その笑い方。
全部、母だった。
でも、ありえない。
母は四十三歳だ。
この子は十六歳。
二十七歳も違う。
「……何歳ですか?」
「十六」
即答だった。
「本当に?」
「なんで疑うの?」
「……」
私は母の年齢を思い出した。
四十三歳。
そして私が十六歳。
母が二十七歳のとき、私を産んだ。
だから計算は合う。
合ってしまう。
「あなた……」
「うん?」
「私の母に、そっくりです」
「へえ!」
千夏は目を輝かせた。
「どんな人?」
「……真面目で」
「うんうん」
「しっかりしてて」
「へえ」
「すぐ『ちゃんとしなさい』って言う人です」
「最悪じゃん」
「……」
「そんな母親、絶対うるさいでしょ」
「……そうですね」
「私はそんな母親にならないようにしよ」
私は何も言えなかった。
目の前にいる人が、将来その母親になる。
「でもさ」
千夏は突然、私の顔を覗き込んだ。
「あなた、名前は?」
「日野みのり」
「みのり?」
「はい」
千夏は少し考えてから、にっこり笑った。
「いい名前じゃん」
「……」
「私もさ」
「はい」
「いつか子どもができたら、みのりって名前つけよっかな」
胸の奥が、ぎゅっと痛くなった。
もう、つけられている。
二十七年後。
あなたは私を産んで、その名前をつける。
でも今のあなたは、それを知らない。
「……千夏さん」
「なに?」
「今日って、本当に一九九九年の九月二十九日ですか?」
「うん」
「……そうですか」
母が失踪した日も、九月二十九日だった。
そして今、目の前にいるのは、その日の母。
十六歳の姿をした母。
そこで、ようやく一つの可能性が頭に浮かんだ。
母は、未来へ来たんじゃない。
私がいる2026年から見れば、母は――
二十七年前から来たのだ。
「……みのり?」
「はい」
「顔、怖いよ?」
「すみません」
「ねえ」
千夏が笑った。
「今日から友達になろうよ」
私は返事に困った。
だって。
この人は友達じゃない。
私の母だ。
しかも、まだ母になる前の。
「……分かりました」
「やった!」
千夏が手を差し出してくる。
私はその手を握った。
その瞬間。
校内放送が流れた。
『二年三組の日野みのりさん。至急、職員室まで来てください』
「呼ばれてるじゃん」
「……はい」
「私も一緒に行っていい?」
「なんでですか?」
「だって転校生だもん」
「……転校生?」
「うん」
千夏は当然のように言った。
「さっき先生に会ったら、今日からここに通っていいって」
「…………」
「しかも、二年三組」
私は固まった。
「……私と同じクラス?」
「そう!」
千夏は嬉しそうに笑う。
「よろしくね、みのり!」
私は笑えなかった。
今日から。
私のクラスに。
私の母がいる。
しかも――十六歳の平成ギャルとして。
そして私はまだ知らなかった。
この日から始まる高校生活が、母がなぜ私を置いて失踪したのかを知るための、最後の手がかりになることを。




