第六十八話:セラフィーナの近況(上)
誘拐され、地下牢に繋がれ、毎日の採血。普通なら泣き叫ぶか、恐怖に震える状況。だが、セラフィーナ・ヴァルドリッチは違う。
目が覚めたとき、最初に感じたのは手首の冷たさだった。
次に、鉄錆の匂いが鼻に入ってきた。
地下牢特有の、湿気とかびの匂いと混ざり合っていた。
視線がぼやけた状態から徐々に焦点が合った。見えたのは灰色の石組みの天井で、亀裂の隙間には暗緑色の苔がいくつか生えていた。
首が少し凝っていた。
手を伸ばして揉もうとしたとき、カチャリと音がした。
鎖が触れ合う音が、狭い空間に広がった。
右手首に、手首ほどの太さの鎖がついていた。
もう一端は壁の鉄輪に繋がれていて、動ける範囲はわずか数歩程度だった。
左手も同じだった。
足首には何もなかった。
それだけはありがたかった。
「誘拐されたみたいですね」
独り言は、落ち着いていた。
授業中に大して重要でもない問いに答えるときと、まったく同じ声調だった。
鎖を一度引いてみた。
鉄輪と石壁がぶつかって、重い音がした。
手首の感触から、本物で、マナ封じの術もかかっていると分かった。
諦めて、床に敷かれた薄い毛布の上に胡座を組んだ。
最後の記憶はデートからの帰り道だった。
ウリエルと別れて一人で帰る途中、学院西側の並木道を通ったところで、少し甘ったるい匂いがした。
それ以降の記憶はなく、気づいたら今だった。
眠らされて連れてこられた。
手口はわりと手慣れていた。
セラフィーナは顔にかかっていた髪を耳の後ろに流して、牢の中を見渡した。
広さは四畳半ほど。
隅に木の桶が一つ置いてあって、用途は明らかに——
視線を外して、その桶については今は考えないことにした。
鉄格子の外は細い廊下で、向かいの壁に薄暗い魔光灯が一つぶら下がっていた。
光がかろうじてこちらまで届いていた。
廊下の両端は曲がり角になっていて、その先は見えなかった。
空気はよくなかった。
そう観察していると、廊下の右手から複数の足音が近づいてきた。
足音が鉄格子の前で止まった。
三人いた。
先頭の一人は暗色の短いローブを着て、腰に剣を下げていた。
表情は凶悪だったが、いかにも小物といった顔つきだった。
道端ですれ違っただけで子どもが泣き出しそうな、典型的なチンピラ面だった。
後ろの二人も似たような格好で、一人の顔には古い刀傷があった。
刀傷の男はセラフィーナが目を開けているのを見て、鼻を鳴らした。
「おお、起きたか。おとなしくしてろよ、痛い目見たくなければな」
セラフィーナは彼を見た。
「おはようございます」
刀傷の男が一瞬止まった。
学院の廊下で同級生に挨拶するときとまったく同じ声だった。
礼儀正しく、感じよく、口元にはいつもの完璧な笑みを浮かべていた。
手首に鎖がなければ、まるでここに客として来ているようだった。
「……は?」
刀傷の男は明らかに想定外の反応に戸惑っていた。
彼が反応しきる前に、廊下の奥からまた足音が来た。
今度はヒールが石畳を叩く音だった。
先頭の三人がさっと道を開けた。
二人は即座に道を開け、明らかに畏まった態度を見せた。
来た人物は白い長コートを着ていた。
中に濃いグレーのハイネックを着込んで、片手に小ぶりの革鞄を提げていた。
表情はなかった。
片眼鏡をかけていて、レンズ越しの視線は、人を見るものではなかった。
後ろに助手が二人続いていた。
それぞれ器具箱を持っていた。
研究員は鉄格子の前でポケットから鍵を出して、扉を開けた。
蝶番が耳障りな音を立てて、錆の粉がパラパラと落ちた。
中に入り、助手たちがその後に続いた。
刀傷の男ともう一人がセラフィーナの両肩を押さえて、胡座の姿勢から背中を壁につけた状態にさせた。
押さえる手の力は相当なものだった。
セラフィーナは首を傾けて、研究員が鞄を開けるのを眺めた。
中には採血管が数本と、採血針と、一巻きのガーゼが収まっていた。
研究員は採血針に採血管をセットした。
何千回と繰り返してきたような手慣れた動きだった。
それからセラフィーナの右腕を持ち上げて、袖口を肘の上まで折り上げた。
指が肘の内側を押して、血管を探した。
冷たい感触にセラフィーナが少し身を引きかけたが、肩を押さえられていて動けなかった。
「あの」
彼女は落ち着いた声で口を開いた。
「あなたたちが、私を誘拐した方々ですか?」
研究員の動きが一瞬止まった。
「これ、健康診断ですか?」
セラフィーナは鞄の中の器具を見てから、首を傾けた。
「衛生状態は悪くなさそうですね。針は新品ですか?」
研究員は眼鏡を一度直して、答えなかった。
消毒用のアルコールコットンを開けて、肘の内側を拭いた。
冷たさが皮膚を伝った。
「採血が終わったら食事はありますか?」
セラフィーナはさらに続けた。
「少しお腹が空いていまして」
刀傷の男の表情が歪んだ。
口を開いて「おとなしくしろ」とか「余計な口を叩くんじゃねえ」といった凄みのある言葉で場の空気を取り戻そうとしたが。
何一つ出てこなかった。
研究員がようやく口を開いた。
声は乾いていた。
「……押さえてろ」
針が皮膚に刺さった。
セラフィーナは暗赤色の血が細い管を通って採血管に流れていくのを眺めた。
表情は変わらなかった。
痛みを訴えず、暴れもせず、ただ静かに見ていた。
研究員は三十ミリリットルほど採って、針を抜いた。
小さなガーゼを針穴に当てて、医療テープでぐるりと一巻きした。
それで終わりだった。
鞄が閉まり、研究員が立ち上がり、助手たちを連れて鉄格子の外へ出ていった。
刀傷の男が肩を放して、出がけにもう一度セラフィーナを見た。
困惑と苛立ちが半々になった顔だった。
鉄扉が再び施錠された。
セラフィーナは肘の内側の、ゆるく巻かれたガーゼを見下ろした。
テープが浮いていた。
腕を曲げてみると、ガーゼがすぐに落ちた。
針穴から小さな血の玉が滲んだ。
眉が少し寄った。
「片手だけでも外してもらえますか?」
声は鉄格子を越えて廊下に届いた。
「押さえていただけるだけでもいいです。このガーゼ、巻き方が少し雑なので」
廊下から返事はなかった。
足音が遠ざかっていった。
「……そうですか」
ガーゼを押さえ直して、反対の手の親指で針穴を圧迫した。
しばらく押さえていると、血は止まった。
袖を戻して、雑な処置の跡を隠した。
良い知らせがあった。
研究員は質問に答えなかったが、およそ三十分後、本当に食事が届いた。
当直らしき若い看守が鉄扉の小窓を開けて、木の盆を差し入れてきた。
盆の上には堅いパンが一つと、小鉢のマッシュポテトがあった。
表面に薄く膜が張っていた。
しばらく置いてあったらしかった。
セラフィーナは両手で盆を受け取った。
鎖がカチャカチャと鳴った。
「ありがとうございます」
当直の看守が一瞬止まって、「あ、うん」と小声で言い、早足で立ち去った。
堅いパンは武器になりそうな硬さだった。
試しに鎖にコツコツと当ててから、小さくちぎって口に入れた。
しばらく噛んでいると、ようやく飲み込めるくらいには柔らかくなった。
マッシュポテトは味がほとんどなかったが、パンよりは飲み込みやすかった。
ゆっくり食べながら、心の中で時間を計算した。
目が覚めてから今まで、二時間ほどが経っていた。
研究員はその日、さらに二度来た。
毎回同じ流れだった。
肩を押さえられ、採血され、雑に巻かれたガーゼで終わる。
一度目は左腕で、二度目は右腕に戻った。
採血管は一回り大きいサイズに変わっていて、量も最初より増えていた。
三度目の採血が終わったとき、セラフィーナは採血管の中で揺れる暗赤色の液体を見て、そして、善意から忠告を一つだけ添えた。
「頻度の管理が必要だと思います」
研究員が目を上げた。
セラフィーナは目が合ったまま、真剣な顔で続けた。
地下牢に閉じ込められている人間の顔とは、到底思えない顔で。
「ちなみに、人間の血液量って体重の七〜八パーセント程度なんです。三十パーセント以上の失血は生命に関わります。つまり、限界は中瓶で三本分ほどです」
採血管に視線を落として、静かに続けた。
「今日は合計でどのくらい採りましたか?」
研究員の指が鞄の縁で止まった。
肩を押さえていた刀傷の男も、思わず少し力を緩めた。
「……回復魔法でも使えるのか?」
研究員が初めて、冷淡さ以外の感情を混ぜた声で聞いた。
「いいえ」
セラフィーナは答えた。
「一般常識です」
研究員は数秒黙って、採血管を鞄の中の溝に収めた。
出がけに刀傷の男に視線を向けて、声を落として言った。
セラフィーナにはちゃんと聞こえた。
「次からは間隔を空ける。様子には気をつけろ」
鉄扉が閉まったとき、セラフィーナは今日は無駄ではなかったと思った。
本当に良かったことは、夕方の採血だった。
その日最後の一回で、研究員は採血管を小さいサイズに戻していた。
それだけでなく、助手にガーゼを押さえるよう指示して、きっちり二分間押さえさせた。
押さえた助手は若い女の子で、肘の内側に当てる指の力加減がちょうど良かった。
目はずっと床を向いていて、セラフィーナとは視線を合わせなかった。
「ありがとうございます。さっきよりずっといいです」
女の子の助手は答えなかった。
俯いたままガーゼをきれいに巻いた。
今度は角が浮かなかった。
セラフィーナは腕を動かしてみた。
ガーゼはそのままだった。
夕食の当直看守が来た。
また堅いパンとマッシュポテトだったが、今回はマッシュポテトが温かかった。
横に小さなコップの水も添えてあった。
盆を受け取ったとき、看守が鉄扉の前で二秒ほど余分に立っていた。
「お前……怖くないのか?」
セラフィーナはパンを一口かじって、顔を上げた。
「怖がっても何か変わりますか?」
看守は黙った。
「……それもそうだな」
頷いて、立ち去った。
【第六十八話・終】
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
もし「面白い!」「続きが気になる!」「笑った!」と少しでも思っていただけましたら、 ページ下部にある【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】にして応援していただけると、作者のモチベーションが爆上がりします!
ブックマークの登録も、ぜひよろしくお願いいたします! 次回もよろしくお願いします!




