第〇話・石弾きゲームをしよう
はじめまして。
異世界でどん底から始まる、ちびっこと謎の女性の物語です。
……まあ、すぐに予想外の方向へ転がっていきますが。
少し変わった異世界日常(?)を楽しんでいただければ幸いです。
そう考えながら、廊下から中庭を一瞥した。
水たまりが増えていないか、また廊下に浸み込んでこないか、確かめるつもりで。
そして、ウリエルは足を止めた。
軒下の陰の中に、何かがあった。
くすんだ色をした、うずくまったかたまり。
輪郭すら定かじゃない。
斜めに吹き込む雨が何本もの線を引いてそれを叩き続け、古びた壁の影がその半分を飲み込んでいた。
(シスターが取り込み忘れた古い服か?)
(こんなに濡れたら……)
その考えが形をなす前に、彼は何となく【観測者】でそのかたまりを探ってみた。
手を、大海の底に差し込んだような感覚だった。
いや、大海よりも深い。
底がない。
指先が何にも届かない。
ウリエルは廊下に立ち尽くし、動かなかった。
(……何だ、このエーテルは)
ほんの数分前まで、彼はいつも通り、窓枠に腰掛けてかかとで壁を叩いていたのだ。
---
窓の外、老いた木の枝が重さに耐えかねて垂れ下がっていた。
ウリエルは窓枠に腰掛け、両足をぶらぶらさせながら、かかとで、ぱたぱたと不規則に壁を叩き続けていた。
部屋の中では、何人かの子供たちが走り回っていた。
笑い声が窓の隙間からどんどん流れ込んでくる。
彼はその子たちを眺めた。
嫌いというわけじゃない。
ただ——あの賑やかさは、自分のものじゃないとわかる。
試したことはある。
どうしても、それらしくできなかった。
もう一度、かかとで壁を叩く。
ふと、今世の境遇というやつを思い起こしてしまった。
一言で言い表せる。
(最悪だ)
実の母親はいない。
産んだときに逝ってしまったらしい。
その冬は格別に寒かったそうで、シスターは「出産で体の芯をやられたんだよ」と言っていた。
父親は冒険者だった。
ここに預けに来たとき、しゃがみ込んで彼の頭を撫でてくれた——ウリエルにとって、その動作の記憶はもうおぼろげなものだったが。
「お父さん、お金稼ぎに行くから。稼いだら迎えに来るね」
それっきり、帰ってこなかった。
シスターは「事故だよ。ダンジョンで死んだんだ」と言った。
「……まあ、そういうもんか」
ウリエルは目を閉じ、長くため息をついた。
背中を冷たい窓枠にぺたりと預ける。
身体のどこかに、まだ鈍い痛みの名残りがある気がした。
前世、最後の記憶。
徹夜でゲームをクリアして、拳を突き上げて雄叫びを上げたら空が明るくなっていた。
朝ごはんを作ろうとキッチンに立った、そのときだ。
(……そういえば、どうやって死んだんだっけ。トラックだ)
目玉焼きを焼いていたとき、窓の外からエンジン音が迫ってきた。
特に気にしなかった。
ここは十四階だ。エンジン音なんて、どうせ下の車道から聞こえてくるものだろうと思っていた。
そして、そのトラックが窓の外に現れた。
空中に浮かんで。
まっすぐこちらへ飛んできたのだ。
最後の一言を、今でもはっきり覚えている。
「マジかよ、なんだよこれ——」
転生という現象に関する彼の仮説はこうだ。
死に方が馬鹿げていればいるほど、事務担当の女神が罪悪感を覚えて、異世界行きの招待状を贈ってくる。
理にかなっていると思う。
異世界というのはそういうものだ。
しかし彼は改めて自分の現状を見渡した。
孤児院。五歳。両親なし。無一文。食事のたびに場所取り競争。冬の布団は薄い。煮込み料理は三日に一度だけ。
(……補償、まだ来てないな)
視線を窓の外に向ける。
暗雲が空を覆い、院の老木は雨に押しつぶされるように弧を描いて、梢が泥地に触れそうなほど垂れ下がっていた。
(女神様、いますか。聞こえてますか——)
(あんな死に方をさせといて、こっちの境遇まで最悪なんだから、せめて【観測者】に未来視ぐらい付けてくれてもいいだろ。それが無理なら何かチートの一つでも、なんでもいいから——)
突然、雨が激しくなった。
屋根を叩く音がどんどん大きくなり、ごうごうと轟いて、後半の抗議をまるごとかき消してしまった。
(……わかった。もういい)
ご飯の時間だ。
いつもなら、ここで窓枠から滑り降りて、一目散に食堂へ向かう。
今日は煮込み料理の日だから——他のメニューより美味いし、彼の好物だった。いい席を取るには、少しでも早く行かねばならない。
そう考えて廊下を小走りに進み、中庭の横を通りかかったとき——
彼の足は、そこで止まったのだ。
---
ウリエルは【観測者】を引っ込めて、近づいた。
近づいて、ようやくはっきり見えた。
女性だった。
古い壁に背を預けて座り、膝を胸に抱え込んで、できる限り小さく折り畳んでいた。
金色の長い髪は雨に打たれてずぶ濡れになり、重たく肩と背中に貼り付いて、その身体のほとんどを、重たく覆っていた。
白い服は——雨水とそれ以外の何かで、もはや灰色と呼ぶべき色に染まっている。
布地の端はあちこち破れ、手の甲にはまだ乾ききっていない暗赤色の痕があった。
彼女は顔を上げない。
ウリエルは彼女から一歩手前のところで止まり、見下ろした。
【観測者】をできる限り穏やかな出力に調整して、もう一度、そっと探る。
脅威ではない、と感じた。
それよりも深いところにある、もっと根源的な何かだ。
この世界の地脈の一本が彼女に絡みついているような——沈黙したまま、巨大なまま、雨音と泥土の匂いと溶け合って、ただそこにいる。まるでそこにいて当然であるかのように。
はじめからここにあったように。
(……)
(なるほど。バケモノか)
普通に考えれば、今すぐ踵を返すか、全力で走って逃げるべきだ。
でも、ウリエルは動かなかった。彼女の横顔が見えたからだ。彼女は横を向いていて、髪先から雨粒が滴り落ちていた。
瞳は空洞で、何も映していなかった。
焦点が、見えない虚空のどこかに溶け込んでいた。
体はここにあるのに、もういない人の目だ。
——綺麗だ。
そう思った瞬間、ウリエルは自分でも少し驚いた。
だが、それ以上に彼が動けなかったのは、彼女のその姿のせいだ。
この目を、知っている。
前世で、一緒によく飲んでいた友人がいた。
笑って話して、それでいて、ずっとこの目をしていた。
しばらくして、帰らぬ人となった。
ウリエルは、その重い大人の記憶を、心の深いところへ押し込めた。
振り返り、近くの雑物籠から古い毛布を引っ張り出す。
縁が毛玉だらけだが、乾いていた。
シスターが膝にかけているやつだ。
自分には明らかに大きすぎる毛布を引きずって近づいて、つま先立ちになって、彼女の頭からすっぽりとかぶせた。
ぴく、と彼女の肩が縮こまった。
寒さに慣れきった体が、突然温かいものに触れて、本能的に身を竦めたのだ。
それからゆっくりと、遅れて——その視線がこちらへ流れてきた。
座ったままの自分よりも低い位置にある、小さな人影の上へ、視線が落ちた。
ウリエルは彼女の方を見ず、すぐ隣の、雨に濡れていない木の床の端に腰を下ろした。
二人の間には、大体半メートルの距離。
視線は地面に落としたまま。
沈黙。
雨は屋根を叩き続けた。
ウリエルは地面を見回した。
雨に流されて一か所に集まった小石が、いくつかあった。
大きさも形もまちまちだ。
一粒拾い上げ、手の中で軽く握って重さを確かめてから、顔を上げて少し前に乗り出し。
長いあいだ虚ろだったその瞳と目を合わせた。
「石を弾くの、できる?」
声は小さかった。
「ゲームをしよう」
反応はなかった。
「ゲームをしよう」
彼は小さな声のまま続けた。
「石をはじいて、遠くまで飛ばす。遠い方が勝ちだ」
中庭の水たまりに向けて、親指で石をはじく。
石は水面でバウンドして、ぱしゃんと沈んだ。
小さな波紋が広がっていった。
「こんな感じ。やってみて」
少しの間、静寂があった。
それから、彼女は手を伸ばした。
指先が石を拾い上げ、はじいた。
かすかな空切り音がして、石はウリエルの倍近く遠くに落ちた。
狙い過たず別の水たまりに着弾し、短い水しぶきを上げた。
ウリエルは自分の飛距離を見て、彼女の飛距離を見た。
一秒置いた。
そして平然と言った。
「……反則だ。力が強すぎる、ノーカン」
彼女は何も言わなかった。
しかし死んでいたその眼差しが、微かに動いた。
理不尽極まりない宣告に、何かを引き戻されたような、茫然とした気配があった。
ウリエルはもう次の石を拾おうと下を向いていた。
一粒を彼女の方に押し出して、至極事務的な口調でごね続ける。
「ルールは俺が決める。俺と同じくらい飛ばせ。やり直し」
この強引で中身のない押し問答が、かえって彼女の遠くに飛んでいた意識を、この数粒の石ころの上に引き戻すことになった。
ウリエルは地面からもう一掴み石を集めた。
雨水で湿った大小合わせて十四粒ほどの石が、ざらっと彼女の前に積み上げられる。
「新ルール。この石全部、俺が投げた石の周りに当てること」
そう言いながら、少し大きめの石を選んで投げた。
「次はお前の——」
言い終わる前に、「シュパパパッ」と連射音がした。
十四粒の石が次々と飛んで、彼が投げた石の周りにきれいに着地した。
地面が空になった。
彼女は石をはじいていた手を引っ込め、空になった地面を見つめたまま、何も言わなかった。
ウリエルは「投げるぞ」のポーズのまま、三秒間固まった。
「……つよっ」
雨がだんだん弱まってきた。
止んではいないが、最初の土砂降りではもうなかった。
細かく静かな糸雨に変わり、中庭の空気を洗い流していた。
草と泥土の匂いが混じって、かすかに漂っている。
悪くない匂いだった。
ウリエルは地面から立ち上がり、膝を払った。
できる限り厳かな声を作って、言った。
「勝ったわけだから、」
「ルール上、表彰しなければならない」
彼女に表情はなかった。
ただ、その眼差しが動いた。
この人間の幼子は一体何を言っているんだろう——という、微かな戸惑いが混じった目だった。
「お前は準優勝だ」
彼は付け加えた。
それが彼女の顔に、初めて表情を浮かべさせた。
少し疑問げで、でも口には出さず、さっきよりほんの少しだけ生気が戻った目だった。
「優勝は俺だ」
ウリエルは当然のように言った。
「ルールを作ったのが俺だから、優勝は必ず俺。これは慣例だ」
自分でも何の理屈かわからなかった。
まあいい、子供には子供の理屈がある。
彼女は二秒ほど沈黙した。
「だから、お前は準優勝しかない」
彼は頷いた。論理は完璧だ。
「何も問題はないな」
彼女はしばらく、この事実を受け入れようとするように沈黙した。
「じゃあ」
ウリエルは続けた。
「準優勝の賞品がある」
彼は頭を上向けた。
両手の人差し指で、自分の両頬をつんつんと突いた。
自分なりに精一杯のかわいいポーズのつもりだ。
全力で、彼女の目を見た。
「俺だ」
彼は言った。
「この俺という可愛いやつを、お前にあげる」
雨音の中。
短い沈黙があった。
【第〇話・終】
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