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プロローグ アラームの向こう側

この物語は、臨床工学技士(CE)という職業を舞台にしたフィクションです。

夜明け前の病院、モニター音だけが響く廊下、誰にも頼まれていない点検——そういう場所で、今夜も誰かが働いています。その人たちのことを、書きました。

専門用語にはそのつど説明を入れています。医療に詳しくない方も、ぜひそのまま読み進めてください。

 夜明け前の病院は、独特の静けさを持っている。

 昼間は人の声と足音で満たされているはずの廊下も、この時間帯には蛍光灯の白い光だけが冷たく伸びていて、遠くのナースステーションから漏れてくるモニター音が、まるで建物そのものの呼吸のように規則正しく響いていた。

 南條アキは、集中治療室の前に立っていた。

 自動ドアが開くたびに消毒液と空調の混ざった空気が頬をかすめる。手にしているのは几帳面に書き込まれた点検チェックリスト。ペンのキャップを外し、また閉める。外し、また閉める。気づけばそればかりを繰り返していた。

 ピッ、ピッ、ピッ。

 SpO₂(経皮的動脈血酸素飽和度――血液中の酸素がどれだけ含まれているかを示す値で、健康な成人では九十六パーセント以上が正常とされる)モニターが淡々と鼓動を刻んでいる。九十七。九十八。九十七。数値は正常だ。人工呼吸器の気道内圧も、設定どおりの十八cmH₂O(センチメートル水柱――気道にかかる圧力の単位)を保っている。回路の結露もない。加温加湿器の水位も問題ない。

 問題は、何もない。

 なのに、なぜだろう。

 アキはベッドサイドにしゃがみ込み、薄暗い照明の中で呼吸器の回路を指先でそっとたどった。シリコンチューブの滑らかな感触を、指の腹で確かめるように。Yピース(回路が患者側で二股に分かれる接続部品)の継ぎ目に、ほんの僅かな遊びがないかを。人工鼻のフィルターに、詰まりの気配がないかを。ひとつひとつを、急がずに。この一本の回路が、今この瞬間も誰かの肺の代わりに空気を送り届けている。その事実を、指先から確かめたかった。

 機械は正直だ、とアキはいつも思う。

 設定した値どおりに動く。裏切らない。疲れない。文句も言わない。自分が正しいと信じた数値を、黙々と、誠実に守り続ける。羨ましいとは思わない。ただ、時々、機械のそういう在り方がひどく眩しく見えた。自分が正しいとは、なかなか思えなかったから。

 ――私は、ここにいていいのだろうか。

 問いは、いつもこの時間帯にやってきた。仲間も患者も眠っていて、機械だけが起きている夜の境界線で、アキはその問いを一人で持て余す。医師でも看護師でもない、患者に直接触れる仕事ではないと言われることもある、「機械の人」「メリーちゃん」と呼ばれることに慣れてきた自分が、たまに怖くなる。慣れることと納得することは、きっと違う。正確さだけでは届かないものがあると、どこかでわかっていながら、その「届かないもの」が何なのか、まだ言葉にできないでいる。だからこそ夜明け前にここへ来て、回路を指でたどる。答えが機械の中にあるとは思っていない。ただ、ここにいることが、今の自分にできる唯一の誠実さのような気がしていた。

 ピーッ。

 突然、アラームが鳴った。

 アキの体が動いたのは、考えるより先だった。モニターに視線を走らせながら指がアラームリセットボタンへ伸びる――いや、待て。リセットより先に原因を見ろ。気道内圧の上限アラーム。原因は何か。回路の閉塞か、患者の体位か、気管チューブのずれか。呼吸器管理の異常は、一人で完結させてはいけない。ナースコールを押しながら、アキはすでに回路の確認を始めていた。チューブの固定位置、唇の高さとの差、回路の張り――目と指が同時に動く。

 看護師が飛び込んでくる。「何?」

 「気道内圧の上昇です。チューブのずれか体位の問題かと。吸引はしましたか」

 「三十分前に」

 「もう一度お願いできますか。私は回路を確認します」

 二人で動く。無駄のない、静かな連携。やがて吸引カテーテルが痰を引いた音がして、圧波形がなだらかに戻った。

 ピッ、ピッ、ピッ。

 また、規則正しい呼吸に戻る。

 「ありがとう、メリーちゃん。助かった」

――MEがローマ字読みのメーになり、メーがメリーになった。それがこの病院での、アキの名前だった。

 アキは微笑んで頭を下げた。「いえ、お互いさまです」と言いながら、胸の中に何かがひっかかる感覚を、今夜もうまく言語化できないまま飲み込んだ。チェックリストに小さな丸をひとつ書き加える。

 夜明けまで、あと少し。病院はまだ眠っている。機械だけが目を覚ましたまま、誰かの命を数えていた。

 南條アキ、二十六歳。病院勤務五年目。臨床工学技士。

 ――この問いに答えが出るのは、ずっと先のことだ。でも今夜も、彼女はここに来た。

 この夜から、一年。



読んでくださってありがとうございます。

「メリーちゃん」という呼び名の由来、伝わりましたでしょうか。MEがメーになり、メーが訛ってメリーになる——現場では本当にこういうことが起きています。

アキがこの問いに答えを出すのは、ずっと先のことです。でも、彼女は今夜もここに来ました。その誠実さの話を、これから書いていきます。

第一章へ続きます。

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