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千年少女  作者: 長沢紅音
奥野祥子
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奥野祥子4


 キャンプ場に来てみると、川原沿いのバンガローの並びには意外なほど人手が溢れ、賑わっていた。地図にある三通りの道の入口はキャンプ客のための駐車場に面していた。紙面上では確かに三つあるが、車道として利用できるのはひとつしかない。他は散策用の山道である。車道は別荘地へと続いている。奥野祥子は自転車のサドルから尻を浮かせ、駐車場に乗り入れる。ちなみに自転車は昨夜、自宅に忍び込んで持ってきたものだ。両親が発見したならば盗難届けを出されるかもしれないが、元々車庫の片隅に放置してあったものなので、無くなったことすら気付かない可能性が高い。


 地図の赤いマーカーは車道へと続いている。車道は山肌を縫うようにしてなだらかに上り坂をなしていた。曲がり角の杉林が邪魔をして見えないが、上りきった先が下り坂であることを奥野祥子は願った。


 今朝方、篠崎陽名莉は一日で宿題を片付けると宣言し、部屋にこもりきりでいる。従って八重樫エリアナの尾行は休業となった。電話でそのことを告げると、それはそれで助かる、と相手はそっけなく言った。


「もしかして尾行を頼んだのは迷惑だったかい?」


「こちらに個人的な用事ができただけだ。尾行自体は楽しんでやっている」


 電話が切れてから、駐車場の縁石に腰掛けて休息をとった。篠崎陽名莉の家を出発してからすでに二時間が経過している。腿と尻の筋肉はそれぞれ硬く強張り、全身の血液が水銀になったように感じた。見上げる車道にシーシュポスを思う。


「失礼。君はこの辺の子かい?」


 顔を上げるとそこにはハンチング帽を被った髭面の男が柔和に微笑んで奥野祥子を見下ろしていた。細身のパンツにポロシャツを着込んでいる姿はキャンプ場よりもゴルフ場の方がお似合いだった。


「こいつで」奥野祥子はつま先で自転車のタイヤを小突いた。「他所の町から来たのなら競輪選手になれますよ。この町は広いのでね。でもこの辺は初めてですから何の力にもなれません」


 そうかそうか、と男は愛想笑いを浮かべ、パンツのポケットから財布を取り出し、名刺を差し出した。


「かどわかそうってわけじゃないさ。取材を兼ねた観光で来たんだが、地図が古くて道を間違えたみたいでね」


 ルポライター・三枝健二と書かれた名刺を手に奥野祥子は警戒の色を更に濃くして言った。


「名刺なんていくらでも偽造できますからねえ。警戒を解こうっていうのなら免許証かパスポートくらいは見せてもらわないと」


「道を尋ねるだけで免許証提示はないだろう」


 三枝健二が尋ねた場所はこれから向かう予定の別荘地にあった。地図を見せてもらうと確かにキャンプ場の先に道はない。三枝健二は礼の代わりに車で送ってくれるという。


「知らない土地はやはりタクシーが無難だな」


 ワンボックスカーの助手席で三枝健二の独り言を聞きつつ、奥野祥子は坂道の先の曲がり角を眺めていた。更なる上り斜面に我が身の運の強さを思った。


「取材ってなんですか」


「それはラーメン屋に行って寸胴の中身を見せてくださいって言っているようなものだぞ」


「つまり旅行記とかログハウスの魅力を伝える記事とかの、銀行で順番待ちしているときに読むような無害な記事ではなくて、もっとスキャンダラスな内容なのですね」


「どうしてそう思うんだ?」


「無害な内容なら秘密にする理由がありません。むしろ活字になる前から積極的に宣伝活動に勤しむはずです」


 嘘を吐いた。本当は直観が先に働き、しかる後に理由を捏造したのだ。加えて奥野祥子には兄の研究という後ろ暗い秘密がある。だが、三枝健二の狙うスクープは別にあるとも感じていた。


「……隣町はもっと栄えているだろう? そこの繁華街で最近新種のお薬が出回っているらしいんだ。どうも中高生の顧客が多いらしくてね。遅かれ早かれ問題になるだろう。その出所を探っているだけさ」


 曖昧に頷きつつ、奥野祥子は腹の中で安堵した。これ以上同じ話題を続けて痛くない腹を探られるよりはと、興味はなかったが三枝健二の個人的な事情に水を向けた。


「偽の名刺は何枚あるのですか?」


「名前に嘘はない。メールアドレスと電話番号は足がつかないものを書いてあるけれどね。こういう取材のときは保身も頭に入れておかないといけない。どんなトラブルに巻き込まれるかわからないし」


 車内の空調のせいで汗が乾き、体が冷えてきた。断りを入れて窓を開けると蝉の合唱がなだれ込んできた。湿気を帯びた熱気を取り込んだ衣服が硬く感じる。


「見えてきた」


 三枝健二の声に顔を上げると、道路わきにバンガローや洋館めいた屋敷、ログハウスなどがある。いつの間にか山肌は消え、平地の雑木林の中を車は走っていた。樹木のアーチに囲まれ、トンネルのようになった道なりに、時折不動産広告の看板が建っている。


「保養地としては中々だな」


「いかにも殺人事件が起きそうな所ですね。死体遺棄の場所には困らない」


「最近の学生は皆そんな風なのか?」


「そんな風とは?」


 私は苛立っている、と奥野祥子はこの時になって初めて自覚した。悪意は感じない。整った顔立ちではないが小奇麗にしている。淀みない話し振りはそこそこ異性の気持ちをくすぐるのだろう。だが、どうにも虫が好かない。


 奥野祥子は刺激を好む。同世代の女の子が抱く欲望とは違う形の刺激である。それは映画制作であり、少年染みた冒険心であり、謎の探求である。同時に凡庸なるものを毛嫌いしているわけでもない。クラスメイトたちが素敵なにきび面の男子に熱を上げても、少し離れたところから微笑みを浮かべて見守ることができる。ファッション誌のモデルに少しでも近づけようと昼食を我慢する隣の席の子を馬鹿にしたりもしない。奥野祥子にとっては凡庸さも刺激を引き立たせる立派な誘発剤として、美しきものの一部と認めているのである。奥野祥子に嫌いなものはない。


 だが、隣でハンドルを握る男は違った。虫唾が走るという感情を生まれて初めて味わい、戸惑いは喉の奥から湿り気を奪った。五式君のストーキングしたときともまた違うな。あれは嫌悪じゃない。たぶん、悲しみの一種だ。香月が死んだときには放心して何も感じられなかった。微々たる刺激の方が人は大きく感情を動かされるものなのだろうか? 渇いた喉にむりやり唾を流し込み、口を開いた。


「派手なアクションや無駄なラブシーンで観客の興味を惹こうとしている映画に似ている。それでも作り事ならエンターテイメントとして許される」


「何の話だい?」


「ここでいいです」


 荷台に押し込んだ自転車を背面ドアから出してもらい、機械的に礼を述べて車とは反対方向へと走り出した。三枝健二と同じ道筋にいるのが嫌で、細い横道に逸れた。覆いかぶさるように伸びた梢に、道路は斑に影を彩る。時間を確認しようと自転車を路肩に停めて携帯電話を取り出すと、圏外表示が消えていた。


「つまり、もう一度再検索しておけばよかったのか」


 喫茶店で笹塚沙織の車の反応がなくなったのは一瞬の出来事で、その後再びアクセスすれば行き先が判明したのだ。


 奥野祥子は突飛な発想を思いついたり、推理に興じたりするのは得意としていたが、機械を操るのは苦手だった。機械に精通するということはルールの習得を意味している。理論先行は兄の領分である。兄は機械に強かった。


 念のために笹塚沙織の居場所の検索をかけると、車はこの林道の先にあることがわかった。驚きとともに地図帳を開き、別荘地の領域と現在地を確認する。手が震える。奥野祥子は興奮していた。別荘地は思ったより広く、地図には家屋の配置までは書かれていない。大よその位置を把握してから携帯と地図をズボンのポケットにしまい自転車に跨ろうとしたとき、顔を布のようなもので覆われ、鼻の奥まで刺激臭が届き、奥野祥子の意識は途切れた。




 天井の木目は実家のものとも、一人暮らしのアパートのものとも違っている。しばらく帰省しない間にリフォームをしたのだろうか、あれほど私の部屋には立ち入らないでくれと頼んだのに。


 奥野祥子は母に文句を並べてやろうと起き上がろうとするも、体が動かない。恐慌に襲われて必死に暴れると、首だけが動いた。ベッドらしきものの上で拘束されている。最初に感じたのは安堵であった。知らぬ間に事故に遇って半身不随になったのではあるまいかと一時考えたからである。


「拉致られた。たれらちら」


 戯れに回文調に呟いている自分の声は部屋の反響を伴い、自分とよく似た他人が発したように聞こえた。声は出せる。首を限界まで持ち上げると白いコルセットのようなものが全身を覆っているのが見えた。ついでに三枝健二の立ち姿も見えた。


「ハロー、クラリス」


「私が言うべき台詞だと思うがね」奥野祥子は諦めて視線を天井に戻した。「そんなに女子高生に興味がおありか。盛り場に行けば高校出たての夜の友なんぞいくらでもいるだろうに。違うのはほんの僅かの年齢と知識だけだ。法を犯す価値はないと思うがね」


「いやいや、勘違いしているぞ。俺は犯人じゃない」三枝健二は奥野祥子の視界に顔を出し、顔を覗きこんで言った。「君が車に引きずり込まれるのをみかけたもんだから跡をつけた。歩きだったからしんどかったぜ。もっとも拉致された現場からはこの家まで一本道だったもんで車のある場所まで戻らなくて済んだ」


 なぜ一旦別れた相手の方へと、しかも徒歩で戻ってきたのか、という疑問が浮かんだが、質問するより早く三枝健二は白状した。


「俺の望む情報かどうかは知らんが君は何かを隠している。だから尾行することにした。予感が的中したかどうかは分からないが、タイミングは良かったみたいだな」


 虫唾の走った理由はこれだったのだろうか。自分よりも勘の冴えた相手に対する同属嫌悪。相対してみるとこれほど嫌な相手はいない。あらゆる虚偽が実を結ばない。丸裸にされるような視線。断頭台に立たされたような気分だった。「私は貴方が嫌いです」


「そりゃあ困ったな。いや、君の方がだ。嫌いな相手に助けられるのはさぞや惨めなことだろう。つまりその宣言は自分に対しておこなったと俺は感じたね。鏡に向かって唾を吐きかけたのさ」


 言葉通り、三枝健二は奥野祥子の拘束を解いた。寝台の下に落ちた拘束具は蛹のような形をしている。蛹状になって寝台にゴムバンドで括り付けられた自分を想像して奥野祥子はひときわ惨めな気分になった。


 すぐに警察に通報するのかと思ったが、武家屋敷を訪れた修学旅行生のように三枝健二は物珍しそうに部屋の中を検分している。「病院の構えをしている。なるほどね」


 板張りの床は歩くたびに軋んだ音を立てた。窓の外には雑木林が見える。


「犯人を見たのですか」


「女だ。今は車でどこかに行ってしまったがね。君、恨まれるようなことでもしたのか?」


 笹塚沙織は車のナンバープレートに携帯電話が付けられているのを発見したのかもしれない。あるいは、つい最近非常勤の職場を訪れてきた者が学校にまで現れたので疑いを抱いたのかもしれない。自分が覚えていたのなら相手も顔を覚えている可能性は高いのは道理だ。そしてのこのこと現れた私を捕らえ、その後は……


「君さえ良ければ通報しないでもらいたいんだが、どうかね?」


「その女は売人ですか?」


「いつ戻るか分からないから念を入れて調べられないのが残念だ。だが施設は整っているから辻褄は合う。お薬も作り放題だ。もう少し探りを入れたい」


 助けられた身の上で異議を唱えるわけにもいかず、渋面を作って通報しないことを承諾した。だが、奥野祥子にとっても都合が良かった。警察が介入することで兄は更に雲隠れしてしまうことだろう。それに、薬の精製に兄が関わっているのかどうかも未知数である。更に根本問題として、笹塚沙織が本当に兄と繋がりがあるのかどうか、未だ確認できていない。せめてそれさえ確認できていたならば。


 玄関を通って堂々と脱出した。古い洋館の建物は雑木林に囲まれ、その外観をみてルイス=ブニュエルの映画に出てきたワンシーンを奥野祥子は想起したが映画のタイトルは思い出せなかった。自転車が門扉のところに立てかけられている。あの女、自転車を放置していきやがったんだぜ、犯罪者の自覚がないよ、おかげで俺はここまで足に肉刺を作らずに済んだがな、と三枝健二は説明する。


「つまりあの道は私道だったということでは」三枝健二に自分の自転車を使われたと知って嫌悪感を抱いたが顔には出さないようにした。


「そうすると今度は俺たちの方が犯罪者になるな。不法侵入だ」


 立ち去り際、名刺を渡された。


「普通は見せるだけなんだが、サービスだ」と三枝健二は言った。「あの女に関して知ることがあったら連絡してくれ。プリペイド携帯だが繋がる」


 その流れで自分のアドレスも教えなくてはならない羽目になったのを奥野祥子は敗北感と共に受け入れた。もう暫くこそ泥の真似事をしていくという三枝健二を残し、奥野祥子は洋館を後にした。



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