奥野祥子 3
八重樫エリアナは篠崎陽名莉を尾行しているはずである。彼女には篠崎陽名莉と兄が友人関係にあるからいつか姿を見せるかもしれない、と伝えた。尾行などせずに直接篠崎陽名莉に尋ねればよかろうに、という言葉はなかった。単純に暇つぶしとして楽しもうという構えでいたらしく、細かい矛盾には目を瞑っていた。「変わったことがあればメールしてやろう」と言ったときの悪意に満ちた顔を奥野祥子は勤めて忘れるようにした。
養護教諭の名は笹塚沙織。独身。長身。童顔であるが化粧と身なりでこざっぱりとした大人の女性を演出している。川沿いの町営住宅で一人暮らしをしており、学校まで軽自動車で通勤していた。車の車種と住所は八重樫エリアナが調べてくれた。
夜半に駐車場に忍び込み、携帯電話を車のナンバーの裏に粘着テープで貼り付け、もう一台の携帯電話から位置情報取得サービスで行き先を特定する。夏季休暇でも日曜日は部活動を禁止しているらしく、笹塚沙織が学校に来ることはない。ならば兄と接触する可能性があるかもしれないと奥野祥子は考えた。
前日、喫茶店で落ち合ったときに、車に細工したことを八重樫エリアナに伝えると、面白がって自分の持つ携帯電話からも位置情報を探れるようにと懇願してきた。IDとパスワードを教えると携帯電話の画面を見てはしゃいだ。取り澄ました顔が笑顔に歪み、思いのほか不細工な面構えになった。
君のその物腰はアベレージを上げるためのものだったんだな、と伝えるも相手は意味を掴みかねているように見えた。笑顔が不細工な美人は、きっと笑うことが少ない人生を歩んできたのだろう。いつか魅力的な笑顔の作り方を教えてあげよう、と奥野祥子は思った。
当日、篠崎陽名莉は私服で出掛けている。行き先が学校でないのは確かであるが、篠崎香月のふりをし続けている影響なのか、どこか女性らしさを強調した服装に見えた。バスに乗って駅前まで一緒に移動したあと、篠崎陽名莉は雑踏に消えた。同時に八重樫エリアナに連絡を入れ、後を追わせる。自分は落ち着いた雰囲気の手狭な喫茶店に入り、地図を広げ、笹塚沙織の動向を地図に書き込む準備をした。だが、車は動かない。
「男と会っている。だが、どうみても二十歳以上にはみえない」と八重樫エリアナからメールが入る。
デートか。奥野祥子は篠崎陽名莉と一緒にいる男を想像する。プライドが高く、ペシミスティックなところはあるが、あれで依存性の高い性格をしている。男からすれば中々興味をそそられる存在であろう。他人を見下す態度に引く手数多とはいかないかもしれないが、中には食い下がる人もいるだろう。
「こりゃあハズレかもしれないな」
男がいる姿を兄が目撃したのならば、あっさり身を引くこと請け合いである。不幸を観測してしまう確立が高い、と思い込んでいる兄のことだ、失恋の自己憐憫で忙しくなり、篠崎陽名莉の許から離れる可能性が高い。
ため息をつくと同時に、携帯電話の画面に動きがあらわれる。笹塚沙織の車は市街地を離れ、工場が密集する地域で三十分ほど停車した後、山間部の方へと向かっている。その間、アイスコーヒーを二杯お代わりし、地図に赤いマーカーで線を引いた。やがて車は停車する。そこはキャンプ地や別荘の集落がある、いわばレジャースポットであった。
「歩き詰めで疲れた。やつらは林道を歩くものだから隠れる場所が草むらしかない。蚊に刺されて曲線美が傷物になった。どうしてくれる」
車が更に動き出したところでメールが入り、内容を確認する。よほど尾行は終了していいと伝えたかったが、言っても無駄のような気がした。追跡画面に戻ると、対象をロストしたという画面が目に入る。携帯電話を発見されて電源を切られたか、走行の振動で落ちて壊れたか、もしくは電波の届かない場所に行ってしまったか。しかし、地図を確認するとキャンプ地の先につづく道は数えるほどしかない。足取りを追うのは容易である。
キャンプ地の売店で物資を調達し、兄の隠れる場所に届ける笹塚沙織の姿を想像し、そこで兄と笹塚沙織の関係について疑問を持つ。恋愛関係にあるのか? いや、ならば篠崎陽名莉への懸想はどう考える? 思いのほか、兄の下半身はピューリタンではなかったのだろうか。
「交尾にはならなかった」と八重樫エリアナは電話口で開口一番に言った。
喫茶店の中は込み合っていない。奥野祥子は座席についたまま小声で会話を続けることにした。
「兄の下半身はむしろピータンであったらしい」
「私の発言もどうかとは思うが、お前の発言ほどじゃない」
「尾行は終わったのかい」
「ハイキングしただけだった。篠崎陽名莉は帰りのバスに乗ったところだ」
礼を言って電話を切った。すると目の前に十歳くらいの少女がメニューを広げ、対面の座席に座っていた。
「頼子はおなかが空きました」
「君は……」口ごもり、記憶の中に篠崎陽名莉と同席した病院のワンシーンが浮かび上がる。
「ピロシキセットというものは何ですか? 頼子は興味津々です」
「……ロシア料理で、肉詰めの揚げパンみたいなものだよ」
店員を呼び、注文をする頼子と名乗る少女の姿を呆然と眺めた奥野祥子はようやく我に返り、何用かと問いかける。
「夢のお告げでまいりました」
「化身……いや、君は数年前に山で発見された少女、で間違いないね? 私とは一度病院で会っているのだが覚えているかね?」
「コスプレしたお姉さんですね。頼子の記憶は断片的であるがゆえに、普通の人よりも過去の事象をより鮮明に思い出せるのだ、とレオナが言っていました。だからお姉さんのことはよく覚えています」
「それはどうも」変装をコスプレと言い換えられることにより、奥野祥子は過去の自分に恥ずかしさを覚えた。その時、この少女に残酷な事実を教えたはずであったが相手はその事実に言及しない。そういえばこの少女の外見は数年前とほとんど変わらない。「レオナって人は博識だね」胸の間の筋肉が収縮するのを感じながら辛うじて言った。
「成否はあなたに掛かっています。そのためにあなたは毎日ジョギングをしなければなりません」
「は?」
「これは頼子という因子が独自に動いたものだから干渉にはならない、と夢の中で聞きました」
何を言っているのか問い出そうとしたところで店員がピロシキセットを持ってきた。無言で食べ始める頼子をよそに携帯電話の画面を確認すると、笹塚沙織はキャンプ場に戻ってきていた。ナンバープレートから外れて落ちたわけではないと分かり、ひとまず安堵する。
「やみつきです」頼子は満足したかのようにおなかをさすった。「今なら名前を”頼子・ピロシキ”に変えても構いません」
「じゃあ、ピロシキ君。夢の中ってのは」
「私は頼子です。ピロシキじゃありません」
「過去の事象は覚えているのに、自分で言ったことは忘れるのか……」
「それでは頼子はここで失礼します。レオナは頼子が喋ると腹を立てますが、居なくなるともっと腹を立てるので」席を立つと同時に思い出したかのように付け加えた。「あなた、少しだけおかしいです」
そう言って頼子は奥野祥子に向けて人差し指で円を描いた。「言葉が通じる分だけにしておく」
一瞬、目の前が真っ暗になったがすぐに戻った。貧血か? 生理はまだ先のはずだが。
頼子は振り返りもせずに店を出て行った。出口の方をじっと眺め、失礼なものいいには目をつぶり、頼子の言った意味についてしばらく考えていた。夢のお告げとは化身からの言伝ではなかろうか。ならばジョギングとは、と思考を進めていくうちに頼子が金を払わずに出て行ったことに奥野祥子は気がついた。




