卒業式
一人きりの部屋で、少しだけ窓をあけたベランダを眺めていた。すぐとなりにある桜の木が見える。花はもうすでに散ってしまい、開き始めた葉がちらほらと出てきている。街灯が明るすぎて、空は真っ黒に見える。
嗚咽するでもなく、しゃくりあげるでもなく、静かに、涙が溢れ出していた。
湧き上がるような感情もなく、突き上げるような胸の痛みもなく、ただぽろぽろと、音がしそうなくらい、ぽろぽろとこぼれていく。
「こんな涙をどこかでみた気がするな」ぼんやりと思った。
あれは中学二年生のとき。先輩の卒業式でだ。
私はなぜか、号泣していた。嗚咽がとまらず、先輩の姿は見えなかった。
斜め前の席。同級生が座っていた。まっすぐに前を、先輩たちの姿を見つめていた。ぬぐうことをしない涙は、ただ静かに、ぽろぽろと頬を伝い、あごから落ちて、制服のスカートをぬらしていた。
とてもきれいだ、と思った。それと同時に不思議に思った。どうして、号泣ではないのだろう。私より、彼女のほうが、先輩たちとのつながりは深いはずなのに。どうして、あんなに冷静でいられるんだろう。だが、とても美しい泣き姿だった。
「ああ……」
この涙はあのときの彼女と同じだ。その意味をやっと気がついた。
先輩が卒業するのは、決まっていたことだ。時をとめることでもできなければ、それを止めることはできない。そして、先輩が卒業したからといって、学校がなくなるわけでも、私たちがどこか違うところへ旅立つわけでもなく、少しは違うけれど、また同じ日常が繰り返されていく。
そう、何かが変わるわけではない。
あの時は先輩が、そして今日は彼が、私のそばからいなくなった。
それでも私が私でなくなるわけではない。私たちは突然だめになったわけでもなく、気づかない振りをしていただけで、こうなるかもしれない予感がなかったわけではない。だから、いつからか、または少しずつ終わりへ近づいていっていたのだ。
そして、未来への漠然とした不安。それもあの時と同じ。
最高学年になる不安。受験の重圧。彼がいなくなった。独りになるのは初めてではない。それでも先が全く見えない不安がある。
「私、これからどうなっちゃうんだろう」
世界中を、敵に回したわけではないけれど、味方もいないような孤独感。順調に流れていく人の波に、うまく乗れていない自分への焦燥感。
心が震えている。
決まっていた別れに、それでもどうしようもなく、震える心が涙を押し出す。ぽろぽろと音をたて、後から後から溢れてくるのに、なぜか視界は曇ったりしない。
私は気がついている。先輩の卒業は祝うべきことであったように、この別れも、悪いことばかりではないことに。少しずつ壊れていった私たちは、一緒にいないほうがよいから、壊れていった。これが新しい旅立ちだと、気がついている。
たとえ打ちひしがれて立ち止まっても、時間がくれば日は昇る。たとえ、明日の朝日を見ないですむように、すべてをやめてしまっても、私が残していくものたちが、実体は消えてしまった私を未来へ連れて行く。
「とどまることはできないんだ」
つらく苦しく、切ないのに、こみ上げる感情も傷みもない。それよりも、胸の奥で、熱い思いが生まれていく。
前へ。
隣を行く人よりも、歩みは遅くても。誰も足並みをそろえてくれようとしなくても。
ただ前へ。
大人になってしまった私は、歩き始めるしか仕方なく、そして、それをできると知っている。胸にある熱い思いは、決して後悔ではなく、決意だと知っている。この静かな別れが、無駄ではなかったことを証明するために、前へ。
私は明日の朝を見るために、まぶたを閉じた。そこには、あの日の同級生がいた。私は今、彼女のように美しいのだろうか。背筋をきちんと伸ばし、凛としているのだろうか。もう二度と見ることはない彼の背中へ、ちゃんと届けることができたのだろうか。もしかしたら、遠回りだったかもしれないけれど、この恋は決して間違いではなかったことを。うまくはいかなかったけれど、本当に愛していたことを。
まぶたの裏の彼女が、意識の向こうにだんだんと遠くなっていく。『仰げば尊し』のメロディーが、窓の外で聞こえたような気がした。




