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――自らの領域に招き入れるとは大したものだ―― 歪んだ視界の中、ハセガワさんの声が響く。
「領、域?」焦点がどこにも合わない状態のまま僕は言葉を落す。
――しっかりしろ明晴。レディを待たすんじゃない――
「あらら、びっくりさせちゃったかな? こっちはバトルする気満々なんだけど……。どれどれ」織媛の声が耳に届くと同時に、僕の両の頬を人肌の温もりがなぞる。
「明晴、私を見て?」段々と目の前の世界に焦点が合い始め、僕の瞳は彼女の笑顔を捉える。彼女の顔があまりにも至近距離にあったため不快感を覚えたが、僕は先程の温もりにすっかり骨抜きにされてしまったようで、彼女を強く拒否することが出来なかった。
「なんだよ、間接キスじゃあ足りなかったか……?」
「足りないよ。でも私からはキスはしないから」彼女はそう言うと両手を僕の頬から外し、僕に背中を向けて領域の中を泳ぎ出す。
「なんだよその足。随分と便利そうじゃないか」
彼女の下半身に人間の足は無かった。泳ぐというのは比喩では無い。彼女は魚の尾ヒレで優雅に領域の中を泳いでいるのだ。
「いいでしょ。私はここでは自由なんだ。空なんていらない。海の中ならどこまでだって飛べるんだから」霊域を覆う青はペペさんの創るそれとは違い、随分と深い色をしていた。
「人魚姫。幼稚園の頃よく読んでたよな」僕は犬のように頭を振り、麻酔のかかった意識を研ぎ澄ませる。
「明晴も少しは憶えてるんだ、昔の事」
「中学生に昔もなにもあるかよ」
「あるよ。ね、私の明晴……」彼女はそう言って上空を泳ぎ、十字架に磔にされた二人の小学生の頬をそれぞれの手で撫でた。
「なんでもう一人増えてるんだよ……」僕は悔しさと怒りから歯をギリギリと鳴らす。
「本物の明晴は多い方がいいから」彼女は二人の少年の首筋に順番にキスをする。
――型は嫉妬型のリヴァイアサンで間違いは無い。しかし彼女にはまだなにかある――
「嫉妬型? 織媛! お前なにか嫉妬してるのか!」
「嫉妬? してないよ? 私はただひたすらに正しいだけ」
――あの状態では満足な会話は期待できないぞ。会話の為には人は仮面を被らなければならないのだ。今の彼女にそれは無い――
「ねぇ、早く闘おうよ! 私は偽物の明晴を殺さなきゃならないんだから!」織媛は右手を体の前に出すと、何もない空間から仰々しいデザインのダガーを一本取り出し、それを握った。
――ブルース……。やはりビートも扱えるのか――
「お前と闘う気はない。僕はお前を殺したくない。ただお前に、人を殺すのを止めて欲しいだけだ」
「なら、私は止められないよ。私を殺してよ明晴」彼女はナイフを構える。
――来るぞ――
「みたいですね。バリアと視力と三半規管、お願いします」僕はそう言って右手に刀を生成する。策を考えながら適当に闘うしかない。とりあえず今はそれで……。
――了解した―― 薄い空色の膜が僕の周りを包む。視力が格段に上昇し、彼女の姿を細部まで観察できるようになる。
「それじゃあ行くからね。絶対に殺してやるんだから」
「お前なんかに殺されねえよ」
「ふふっ、行くよ王子様」
彼女は瞳孔を爬虫類のそれのように縦長に引き伸ばし、尾ヒレを使ってこちらへと急速に接近する。
接近のさなか、彼女はダガーの柄に左手を添え、両手持ちに変更する。殺意が露わになっていく。
護身の為に刀を出したはいいが、僕にはこの決闘の意味が解らなかった。




