第壱話 現代律令ニッポンの歩き方
目を覚ましたら、卓上日めくりの年号が「令和八年」ではなく「黎和八年」になっていた。
そこまではまだ良かった。「ちょっと変わった誤植だな」で済ませられたからだ。
だが、出勤して自席の引き出しを開け、職員証を確認した瞬間に俺の認識は音も立てずに狂い始めた。
身分証の最上段には、菊花紋章とともに厳めしい明朝体でこう印刷されていた。
『武蔵国 豊島郡衙 郡民生活寮 書生 佐藤和真(大初位上)』
国? 郡衙? 大初位上ってなんだ。俺は豊島区役所の総合窓口課で働く、しがないヒラの特別区公務員のはずではなかったのか。
「佐藤くん、何ボーッとしてるの。民部省から『電脳帳簿 同期不具合ニ関スル達』が回ってきたから、電脳問注所の電光高札へ貼り出しておいて」
隣の席の係長――名札には『少主鑰』という謎の肩書が光っている――が、漆塗りの塗箱から取り出した書類を差し出してくる。表題には『太政官正院布告 個民固有番号連動不具合ニ関スル件』とある。
どうやらマイナンバーカードの不具合らしい。だが「システム障害」や「マイナンバー」という言葉は影も形もなく、文書内では徹底して「電脳人別帳札」と表記されていた。
俺は動揺を胃の奥に押し込み、「は、はい、直ちに……」と引きつった笑みで書類を受け取った。
窓口業務が始まると、さらなる混乱が怒涛の勢いで押し寄せてきた。
「あの、先週引っ越してきたんですけど、人別帳写しの交付をお願いしたくて」
「あ、住民票の写しですね。ではこちらの端末にマイナン……じゃなくて、電脳人別帳札をかざしてください」
「すみません、落としちゃって。薬手形だけじゃ本人確認になりませんよね?」
「やく、てがた……保険証のことですね、はい、顔写真付きの身分証であれば……」
住民も同僚も、ごく自然に古代律令と情報化社会が混ざり合った怪文書のような日本語を使いこなしている。どうやらこの世界では、明治――この世界では「銘治」になっていたが――に太政官制が廃止されることなく、西欧聖暦二千年代――そう、西暦すら「聖暦」と呼ばれていた――の今日に至るまで、そのまま魔改造されて居座り続けているらしい。
俺は心の中で「郷に入っては郷に従え、波風を立てるな」と何千回も唱えながら、ひたすら愛想笑いでやり過ごした。
昼休み、郡衙の食堂に設置された大型電光表示板から昼の新報が流れてきた。
『本日午前、正院において参議会が開かれ、今年度の補正予算案が審議されました。会見に臨んだ大蔵卿・方山沙月参議(正三位)は、歳入の不足を理由に各省からの予算要求を一蹴し、次のように述べております』
画面には、鮮やかな紅色の背広に身を包み、大蔵官僚出身らしい鋭い眼光を湛えた女性閣僚が映し出された。
『そもそも養老の御法に定めなき、戦後の混乱で生じた新設官庁の皆様方が、正条の大蔵に向かって無闇に国費を強請るなど筋違いも甚だしいと存じます。身の丈に合わぬ要求はお慎みあそばせ』
(片山さつきが大蔵卿になってる……!しかも新設省をネチネチと刺しまくってる……!養老の御法ってもしかして養老律令のことか……?)
閣議ではなく「参議会」。財務省ではなく「大蔵省」。名門省庁としての傲岸不遜な空気が画面越しにビリビリと伝わってくる。
『続いて防衛の報です。南洋海域での警戒監視活動について、兵部卿・小和泉進次郎参議(従三位)は次のように述べました』
画面が切り替わり、見慣れた顔の若い政治家が撮影機を見据えて口を開いた。
「我が国を守るということはですね、すなわち、日本が守られるということなのです。近衛の誇りも、水軍の気概も、統合幕僚というひとつの器に溶け合ってこそ、セクシーな抑止力となる。そう思いませんか」
(進次郎は兵部卿になってもやっぱり進次郎だ……!そしてセクシーだけ横文字のままなのか……!)
背後の武官――襟元に桜の階級章をつけた強面のおっさんたちが、進次郎の無重力ポエムを浴びせられて「ぬ、ぬう……」と毒気を抜かれたような顔をしているのが何とも奇妙だった。
精神をすり減らし、なんとか定時の鐘(実際にチャイムではなく鐘の音が鳴る)を聞いた俺は、胃の痛みを鎮めるため、池袋駅――いや、豊島駅前の赤提灯へと逃げ込んだ。
生麦酒を流し込み、ようやく一息ついた時、隣の区切り席から官吏風の二人組の会話が耳に飛び込んできた。胸元に国府の記章をつけ、まるで腕抜きを外したばかりのヨレヨレの洋衣姿だ。府中の国庁から出張しての直帰だろう、片方は四十代半ば、もう片方は少し若い男だ。
「聞いてくれよ。今年度、うちの主政が定年退職なんだけどな」
(主政?……課長のことか?)
「お疲れ様でした。何かあったんですか?」
「あったも何も、長年勤め上げて最後の最後に貰ったのが『正六位上』どまりだぞ。正六位上! 四十年近くも泥水すすって、結局最後まで昇殿すら許されない地下人のままだ!」
「うわあ……五位の壁、やっぱり破れませんでしたか……」
「破れるわけねえだろ!式部省の進士試験を通った若造どもは、三十そこそこで従五位下に叙されて殿上人気取りだ。こちとら現場で人別帳の電脳化を全部尻拭いさせられたっていうのにな!やってられねえよ、焼酎の湯割りおかわり!」
(進士ってキャリア組のことか?それに、公務員の出世争いに『昇殿』とか『地下人』の概念があるのか……)
俺は手元の串カツを口に運びながら、冷や汗を拭った。職員証に書かれていた『大初位上』という文字が脳裏をよぎる。俺も完全に、制度の最底辺を支える「地下人」のひとりというわけだ。
ふと店内の電視を見上げると、都知事――いや、画面の字幕には『従四位上 武蔵守 古池百合子』と表示されていた。画面の中の彼女は、緑色の背広に身を包み、説明板を掲げて朗らかに微笑んでいた。
「大江戸八百八町の民草の皆さま、環境と防災の新たな普請に向けて、一丸となって取り組んでまいりましょう」
大江戸。民草。普請。
もうツッコむ気力も残っていなかった。
俺は届いた烏龍酎を静かに煽り、心の中でそっと決意を固めた。
明日からも、書類には神妙な顔で「電脳人別帳」と書き、上司には「少主鑰、決裁をお願いします」と頭を下げよう。地下人だろうが何だろうが、官吏の給料が毎月口座に振り込まれさえすれば、世界がどれほど魔改造されていようと生きてはいけるのだから。
【コラム:太政官制と律令公務員カースト「五位の壁」と「地下人」】
本作の電脳律令国家では、銘治維新の際に"大化回帰"がスローガンとして掲げられ、古代律令に近代西洋政治体制の皮を被せて近代化するというウルトラCで富国強兵・殖産興業の時代に突入しました。本来であれば律令二官八省は西欧列強に習った近代法制に対応できませんでしたが、令外の詔勅を乱発し、なんとか近代制度を取り込んできたのです。太政官正院(参議会+八省)は行政を、左院(民撰議院)は立法を、右院(大審院)は司法をという三権分立が成り立っています。太平洋戦争敗戦後に、GHQの指導により通商勧業使(経済産業省)、公害防遏使(環境省)などが設置されましたが、八省と比べて格式と序列が弱く、発言力も低いことが日本の振興を阻害しています。最近では、電脳勘録使(デジタル庁)、養育悲田使(こども家庭庁)などが新たに設けられています。
省庁と同様、官吏(公務員)の身分も律令の「位階」で厳格に区分されています。式部省の進士試験(国家総合職)を突破したエリートは、30代前後で「従五位下」に叙され、本庁舎の正面玄関からの立ち入り(昇殿)が許される「殿上人」となります。一方、地方採用などのノンキャリアは、40年勤め上げても六位止まり。一生昇殿が許されず、裏口のプレハブ控所しか使えない「地下人」として、過酷な現場実務を支えています。




