第5話 四分間の空白
「四分十二秒」
白峰朱莉は、赤い測量旗の前で時計を止めた。
東三層。牧野悠斗の事故当日、救難隊へ通知された地点だった。防護服の下で息は乱れていない。二十キロの救難装備を背負い、事故当日と同じ入口から同じ経路を走ってきた。黒瀬は後方から映像と位置情報を記録した。
「公式記録より八秒早い」
「当日は途中で別の探索者を退避させています。その処理が十一秒。誤差内です」
朱莉は壁面の区画表示を指した。
「ここが通知座標。牧野さんの死亡地点は北東へ四百八十メートル。でも直通路は崩落。迂回路は二本です」
二人は第一経路を歩いた。狭い階段、魔力濃度の高い水路、甲殻鬼の縄張りを避ける遮蔽通路。死亡地点まで四分二十四秒。第二経路は四分五秒だったが、途中の隔壁は当時閉鎖されていた。救難隊の権限で開けても十八秒を要する。
「どちらを選んでも、死亡推定時刻には間に合いません」
朱莉は結論を自分の端末へ記録した。
「発報と同時に本当の座標を受けていれば?」
「通常経路で三分三十秒。致命的危険度なら直線突破を選び、二分四十秒」
「死亡推定まで、五分四秒ありました」
「間に合った可能性が高い」
朱莉は赤い旗を抜いた。
「私たちは四分、遅れたんじゃない。四分、奪われた」
黒瀬は訂正しなかった。
それは怒りではなく、測定結果だった。
***
環が借りた解析室には、壁一面に通信記録が投影されていた。
「公式ログはきれいです」
環は嫌そうに言った。
「時刻順、欠損なし、署名も正常。だから偽物です」
「理由は」
「正常すぎる。東三層は魔力ノイズが多い。音声通信なら一分に二、三回は再送が入る。公式ログには再送番号が一つもない」
朱莉が事故当日の救難端末を接続した。
「端末側の受信履歴は?」
「本文は消えています。でもパケットの受領番号は残る」
環は公式ログと救難端末を重ねた。
番号が三つ飛んでいる。
「消された三パケットを、前後の誤り訂正符号から復元します。完全な本文は無理ですが、変更命令の項目名と署名領域は出せる」
処理に二時間かかった。
一つ目のパケット。
救難座標を、赤い地点から黄色い地点へ変更。
二つ目。
危険度を「致命的」から「通信異常」へ引き下げ。
三つ目。
変更を正式ログへ確定。
朱莉は画面を見つめたまま動かなかった。
「署名は」
「変更要求が班長権限。確定には管理者承認」
「榊原一人でできますか」
「無理です。現場班長が座標の訂正要求を出すことはできる。でも危険度を下げ、救難管制の正式記録へ反映するには、クラン事故対策部門の管理者鍵が要る」
環が署名領域を拡大した。個人識別番号は上書きされている。しかし、鍵を発行した端末群の識別子が残っていた。
グランドアーク本部、事故対策部門。
「城戸さんの部署」
朱莉が言う。
「部署までは証明できます」
黒瀬は画面を保存した。
「城戸本人とは限りません」
「また喜ばない」
環が椅子を回した。
「榊原が牧野さんを飛ばした可能性が高い。事故対策部門が救難先を変えた。これで十分では?」
「責任が二つあります」
黒瀬は時系列の間へ線を引かなかった。
「強制転移させた判断と、その後の救助を妨げた判断。別の人間が、別の時刻に行った可能性がある」
「榊原が『全員を救うため』と言ったことは?」
「転移時の説明にはなり得ます。救難座標を変える理由にはならない」
朱莉が、消されたパケットの時刻を読み上げた。十七時三十九分二十秒。強制転移から八秒後。悠斗の推定死亡時刻より、四分五十六秒前。
「このとき牧野さんは、生きています」
「推定上は」
「なら、救えた」
朱莉の声に初めて怒りが混じった。
「誰かが座標を変えなければ、私たちは救いに行けた」
黒瀬は答える前に、言葉を選んだ。
「それを公開の事実にするには、復元ログの真正性を監理庁に検証してもらう必要があります」
「今すぐ提出しましょう」
「はい」
環が二人を見比べた。
「似た者同士ですね。片方は熱くて、片方は冷たすぎますけど」
「私は冷静です」
朱莉が言った。
「計測旗を引き抜くとき、折っていました」
「劣化していたんです」
黒瀬は割れた旗の柄を見たが、何も言わなかった。
***
監理庁へ提出して二時間後、グランドアークが記者会見を開いた。事故対策部長の城戸は、濃紺のスーツで壇上に立った。
『まず、牧野悠斗氏のご逝去に、改めて哀悼の意を表します』
黒瀬たちは解析室の画面で見ていた。
『現在、懲戒解雇された元調査員が、未確定の推測を公表し、救難活動および監理庁の事故調査を混乱させています』
記者から、強制転移記録について質問が飛ぶ。
『破損装備から得られた断片であり、誤作動と外部命令の判別も完了しておりません。にもかかわらず、特定個人と組織が意図的に新人を死亡させたかのような情報が流されています』
城戸はカメラを真っ直ぐ見た。
『黒瀬直人氏は、懲戒解雇への逆恨みから、希少能力による主観的な映像を事実として扱っている。グランドアークは、探索者と救難隊員を根拠のない疑惑から守ります』
中継の直後、東央事故技研も声明を出した。
『黒瀬元社員の調査手法には重大な手続違反があり、当社はその結論の信頼性を保証しない』
環が乾いた笑いを漏らした。
「私はまだ社員扱いのはずですが、聞かされていません」
朱莉は黒瀬を見る。
「反論しないんですか」
「残響を事実として扱っていないことは、提出書類を読めば分かります」
「世間は提出書類を読みません」
「監理庁は読む」
「あなた自身が傷つくことには、本当に興味がないんですね」
「調査対象ではありません」
そのとき、黒瀬の私用端末へ暗号化された短文が届いた。
『牧野と同じ班にいました。榊原さんがタグへ何を入れたか知っています』
送信者は、佐伯海斗。
グランドアーク所属三か月。二十歳。
悠斗と同じ班にいた、もう一人の新人だった。




