第2話 救えなかった女
解雇翌日の午前七時、白峰朱莉は黒瀬の自宅を訪ねてきた。
挨拶より先に、紙の束を机へ置く。
「この一文を書いた理由を教えてください」
東央事故技研の社外秘印が入った、黒瀬の暫定報告書だった。
朱莉の指は一行を押さえている。
『救難隊到着前に、救難座標が変更された可能性がある』
「どこで、これを」
「監理庁へ出したのはあなたでしょう。救難判断を疑われている当事者として、閲覧請求しました」
黒瀬は彼女を見た。二十代の終わり。短く結んだ黒髪。東部ダンジョン救難隊の紺色の制服には、第五救難班長の銀線が入っている。眠っていない目だった。
「公式発表では、私たちの判断が遅れたことになっています」
「知っています」
「発報後、危険度を読み違えた。安全経路へ固執して、四分を無駄にした。だから牧野さんを救えなかった」
朱莉は報告書を指で叩いた。
「あなたは、そうではないと書いた。理由を聞いています」
「あなたたちは遅れていません」
朱莉の指が止まる。
「最初から、別の場所へ向かわされています」
黒瀬は壁へ簡易地図を投影した。青い点が救難隊の入口。黄色が通知された救難座標。赤が悠斗の遺体発見地点。
「第五救難班が入場したのは十七時四十二分。装備重量を含めた平均移動速度は毎分九十五メートル。分岐三つを最短で処理している。黄色の地点までの所要時間に、判断の遅れはありません」
「そのあと赤へ転進した」
「別の作業班が遺体を見つけたからです。黄色から赤までは、崩落を迂回して四分十二秒。公式記録がいう『判断の空白』とほぼ一致する」
「救難信号が最初から赤だったという根拠は」
「まだありません」
朱莉が眉を寄せた。
「では、推測です」
「はい」
「推測で、私を慰めに来たんですか」
「来たのは白峰隊長です」
朱莉は言葉を失い、それから初めて室内を見回した。
段ボール箱が二つ。会社から返却された私物と、昨日のうちに買い揃えた測定具。机には解雇通知が置かれたままだった。
「あなたたちの判断が遅かったのではありません」
黒瀬は青と黄色を結ぶ線を示した。
「誰かが、あなたたちの判断材料を変えました。私は、その可能性を検証したい」
「なぜ救難隊の動きまで分かるんです」
「三年前、北二層の多重崩落を調査しました。あなたの報告書も読みました。白峰隊長は、要救助者が呼吸停止している場合だけ、直線経路を選ぶ。今回は安全経路を選んだ」
「危険度が『通信異常』だったからです」
「遺体の損傷と、発報時刻から推定された状況は『致命的』です。通知された危険度まで変わっている」
朱莉は椅子へ座った。
背筋だけは真っ直ぐだった。
「私は、あと四分早ければと、ずっと考えていました」
「四分早く黄色へ着きます」
「……赤には着かない」
「はい」
黒瀬は慰めの言葉を続けなかった。
事実は痛みを消さない。ただ、負うべきでない責任と、負うべき責任を分けることはできる。
呼び鈴が鳴った。玄関に立っていたのは、古い紺色のコートを着た女性だった。
「牧野佳代です。悠斗の母です」
黒瀬が名乗る前に、佳代は小さく頭を下げた。
「息子の端末を持ってきました」
透明な保全袋に、ひびの入った私用端末が入っている。黒瀬が昨夜受け取った未送信メッセージの原本だった。佳代は朱莉にも頭を下げた。
「救難隊の白峰です。牧野さんを、救えませんでした」
「あなたが、あの子を殺したんですか」
「違います」
答えたのは黒瀬だった。
佳代は黒瀬を見る。
「では、誰が」
「まだ分かりません」
「分からないのに、違うことだけは分かるんですか」
「救難隊へ通知された場所と、牧野さんがいた場所が違います。白峰隊長が与えられた情報の中で、判断を誤った記録はありません」
佳代はしばらく黙り、朱莉へもう一度頭を下げた。
「ごめんなさい。責めたのではないんです。ただ、誰に何を聞いても、あの子が勝手なことをしたと言われて」
声は震えたが、泣き崩れはしなかった。
「あの子は、怖がりでした。小学校の遠足でも、橋を渡る前に手すりを三回確かめるような子でした」
佳代は保全袋を両手で持った。
「だから、命令を無視して一人で行くような子ではありません」
黒瀬はすぐには受け取らなかった。
「私は昨日、会社を解雇されました。調査資格端末も停止されています。監理庁が資格停止を認めれば、正式な事故調査はできなくなります」
「それでも、調べられることはありますか」
「遺族の技術代理人としてなら、端末と装備の保全、記録の検討、監理庁への意見提出ができます」
「お願いするには、何が必要ですか」
「委任状と、調査費用の契約です」
佳代は鞄から封筒を出した。
すでに委任状が入っていた。
「息子から、あなたの名前を聞いていました。装備の相談をしたら、笑わずに全部測ってくれた人だと」
黒瀬は委任状を読み、署名欄を確認した。
「牧野悠斗さんの名誉回復と、死亡原因の究明。受任します」
保全袋を受け取る。
その瞬間、朱莉の通信端末が鋭く鳴った。
『第五救難班へ。東三層、旧転移区画で救難信号。装備回収作業員三名。隔壁異常、甲殻鬼を確認』
朱莉が立ち上がる。
「牧野さんの事故区画です」
黒瀬は壁の地図を消した。
「中継器は停止していたはずです」
『補助電源系から断続的な転移波。作業班が奥へ分断されています』
朱莉は端末へ応答しながら玄関へ向かった。二歩進み、止まる。
「黒瀬さん。転移設備の型式は」
「久遠重工のRT六型。補助電源接続時に三秒弱、停止入力を受理しない欠陥があります」
「内部配置は」
「昨日、測量しました」
「甲殻鬼の行動範囲は」
「遺体の位置と斬痕から、おおよそ」
朱莉は迷わなかった。
「遺族側技術代理人として、現場情報を保有している。救難隊運用規程第三十二条により、外部技術顧問を緊急招集します」
「私の資格端末は止まっています」
「事故原因の確定はさせません。救助に必要な助言だけです。指揮権は私が持つ」
黒瀬は佳代を見た。
「行ってください」
佳代は言った。
「今度は、生きている人を」
***
東三層へ降りた時点で、最初の救難信号から十一分が経過していた。
朱莉は走りながら隊員へ指示を飛ばした。前衛二名、結界担当一名、搬送担当二名。黒瀬の左腕には「外部技術顧問」の橙色灯が巻かれている。
事故区画の手前で、隔壁が内側から大きくへこんだ。
甲殻鬼の角が鋼板を突き破る。
黒瀬は足元の粉塵を見た。昨日貼った黄色い保全テープが、引き裂かれて通路へ散っている。
『作業班三名、生命反応あり。隔壁の奥、北端!』
朱莉が短槍を展開した。透明な結界が盾のように広がる。
「隔壁を開けます。私が引きつける。二班は作業員へ」
「待ってください」
黒瀬はへこんだ壁の横へ照明を当てた。
三本の細い斬痕。
昨日、悠斗の死亡残響で見た剣の軌道と同じ高さ、同じ角度だった。
あのとき悠斗は、ここで何を斬ろうとしたのか。
隔壁の隙間から、甲殻鬼の側面が見えた。黒い装甲の継ぎ目に、古い傷が走っている。
壁の斬痕と平行だった。
「黒瀬さん」
朱莉が短槍を構えたまま問う。
「倒せますか」
黒瀬は首を横へ振った。
「私には無理です」
床へ膝をつき、斬痕の延長線へ黄色いテープを貼る。
「ですが、牧野悠斗なら倒せます」




