ランクDの涙
無音のサイバー空間。そこは光の粒子が舞うだけの、静寂に支配された聖域のはずだった。だが、俺たちの目の前に広がる光景は、静かなる戦場そのものだった。霞が関の地下深く、国家中枢メインフレームの中枢。俺と桜井美咲は、その心臓部に到達していた。
「……静かすぎるな」
俺の呟きに、隣でコンソールを操作していた桜井が顔を上げる。彼女の瞳には、三日前に知った婚約者の死の真相が、まだ癒えぬ傷として影を落としている。だが、今は悲しみに暮れる時間さえ許されない。
目の前のホログラムスクリーンには、複雑に絡み合ったコードの城壁が聳え立つ。ジンが仕掛けた『論理爆弾』。侵入者を検知した瞬間にログデータを偽装し、桜井を主犯に仕立て上げてサイバー防衛隊へ送信する悪趣味な罠だ。しかし、この沈黙は不自然だ。奴の性格なら、もっと派手な花火を打ち上げるはず。俺は過去の奴の行動パターン、3年前のラグナロク事件で奴が残したコードの断片を脳内で再構築する。あの時の手口。陽動の裏に隠された、本当の牙。
「これは罠を偽装した、ただの目くらましだ」
「どういうこと?」
「侵入者を捕らえるのが目的じゃない。もっと大規模な攻撃の痕跡を、この『論理爆弾』という派手な見出しで隠蔽するためのカモフラージュだ。奴は今、この国の外で何かを仕掛けている。世界経済そのものを人質に取る、馬鹿げた何かをな」
俺の言葉に、桜井の表情が凍りつく。皮肉を浮かべる余裕は、もう俺にもなかった。ディスプレイの隅に表示される海外市場のティッカーが、微かに、だが異常な振動を始めたのが見えた。ジンが仕掛けた本当の地獄の釜が、今まさに開かれようとしていた。
「この爆弾を逆利用する」俺は即座にキーボードを叩き始めた。「奴の通信経路を特定するカウンタープログラムを組む。だが、そのためにはサイバー防衛隊の内部プロトコルに潜り込む必要がある。お前の力が必要だ、桜井」
桜井が息を呑む。それは彼女が守ってきた法と秩序を、自らの手で踏み躙ることを意味する。すでに俺の「混沌の共犯者」ではあるが、これは一線を越える行為だ。
「お前の信じる正義と俺の合理性、今ここでどちらがクソッタレな現実を動かせるか、証明してみせろ」
彼女の瞳が揺れる。愛する者を奪った男の無念。そして、これから守るべき国民を切り捨てる非道なシステム。天秤にかけられた彼女の正義が、軋みを上げて傾いていく。
やがて、彼女は固く唇を結び、覚悟を決めた顔で頷いた。
「……やりましょう。これ以上、あの人のような犠牲者を出すわけにはいかない」
共犯者としての覚悟を新たにしたその瞳には、もう迷いはなかった。
その頃、世界のどこか。薄暗い部屋で無数のモニターに囲まれたジンは、口元に歪んだ笑みを浮かべていた。
「ショータイムだ、零。お前が好きだったラグナロクの、第二幕を始めようぜ」
彼がエンターキーを押すと同時に、東京証券取引所のシステムに、見えない亀裂が走った。株価を示すグラフが、ありえない角度で乱高下を始める。世界中の市場が、その異常な波紋に連鎖するようにパニックの渦に飲み込まれていく。ジンの狂気が放った『オペレーション・メルトダウン』の第一波だった。彼の目的は、もはや俺への復讐だけではない。この腐った経済秩序そのものの破壊。それが彼の歪んだ理想だった。
「始まったぞ!」
俺たちのサーバーファームでも、市場の混乱を示すアラートがけたたましく鳴り響く。
「攻撃パケットの解析を始める! 桜井、防衛隊のシステム構造から、奴が使いそうな脆弱なノードを割り出せ! 最短ルートで奴の心臓を抉り出す!」
「了解!」
監視役と被監視者という建前は、この瞬間、意味を失っていた。背中を預け合う戦友として、俺たちはそれぞれのコンソールに向き合った。俺が超高速で攻撃のパターンを分析し、桜井がその知識でシステムの迷路をナビゲートする。彼女の的確な指示には、内心舌を巻いていた。だが、過去の裏切りが染みついた俺の思考は、素直な言葉を紡ぐことを許さない。
高負荷の連続処理に、俺のノートPCの冷却ファンが悲鳴を上げた。一瞬、画面がフリーズする。
「まずい!」
すぐさま、桜井が近くにあった液体窒素系の冷却スプレーを掴み、躊躇なく排気口に噴射した。白い冷気が立ち上り、フリーズしていた画面が息を吹き返す。ファインプレーだった。
ジンの攻撃の痕跡を追う俺たちの前に、新たな扉が開かれる。それは『プロジェクトGENESIS』の最深部。管理者権限でロックされた、深層データ領域だった。
「こじ開けるぞ」
桜井のナビゲートでシステムの壁を突破すると、管理者リストが表示される。鷹司早紀、高遠優(故人)の名。さらに、その下には現時点では意味の読み取れない、複数の無機質なコードネームが並んでいた。
「……この命名規則」俺は眉をひそめた。「人間が付けたものじゃない。クロノスが開発していた自律思考型AIの識別名と酷似している」
鷹司は、クロノスの遺産を、その最も危険な部分を掌握し、利用している。疑惑は確信に変わった。
その時、ジンの攻撃は第二波へと移行した。世界中のモニターに、奴からの声明が映し出される。
『愚かなる日本政府に告ぐ。24時間以内に国家デフォルトを宣言せよ。さもなくば、プロジェクトGENESISによってランク付けされた全国民の個人情報を、全世界に公開する』
声明と共に、ダークウェブへのリンクが表示される。そこには、無作為に抽出された国民のリストが、見せしめのように晒されていた。
桜井が、自分のコンソールに表示されたリストの一点で、凍りついた。
彼女の視線の先を追う。そこには、見慣れた二つの名前があった。彼女の両親の名だ。その横には、冷酷なゴシック体でこう印字されていた。
『ランクD:社会保障停止対象』
「なぜ……」
桜井の唇から、か細い声が漏れた。
「なぜ……私の両親までが……『社会保障停止対象』に……こんな……こんなことが許されていいはずがない!」
声にならない叫びが、彼女の全身から絞り出される。指先がわなわなと震え、怒りと絶望に、その体は打ちのめされていた。
その姿を目にした時、俺の脳裏に過去の光景がフラッシュバックした。ラグナロクのあの日、システムによって切り捨てられ、全てを失った者たちの顔。守れなかった命。俺は唇を噛みしめ、自らに言い聞かせた。
感傷に浸るのは後だ。
ジンへの個人的な復讐心は、今や別のものに変質していた。国民をデータとして切り捨てる、このGENESISという非人道的なシステムそのものへの、黒い破壊衝動。俺の心に巣食う『正義』という名のバグが、初めて合理的な損得勘定を上回る決断を導き出した。
俺は新たなウィンドウを開き、驚異的な速度でコードを打ち込み始める。アンナ・ベルとの取引で得た情報網を使い、ジンがクロノスから受け取った報酬の金の流れ、その金の終着点である彼の個人情報を特定する。
「奴の土俵で戦ってやる。ただし、ルールは俺が決める」
カウンター攻撃の準備が整う。ジンの個人情報を、奴が作った舞台で全世界に晒し上げる。エンターキーに指をかけた、その時だった。
突如、俺たちの目の前に、ノイズと共に新たなホログラムが割り込んできた。そこに立っていたのは、内閣総理大臣、鷹司早紀のアバターだった。彼女は全てを見透かしたように、冷静な声で告げる。
「雨宮君、感心しませんね。その攻撃はジンの思う壺ですよ」
静かな声が、サイバー空間に響き渡る。
「……取引をしましょう。貴方がジンを無力化してくれれば、GENESISの『真の目的』を教えて差し上げます」
俺の指は、エンターキーの上で止まった。
目の前には、憎き裏切り者への引き金。
背後からは、底知れぬ悪意を秘めた黒幕からの、悪魔の囁き。
俺は、新たな選択の岐路に立たされていた。




