霞が関の心臓、あるいは冷たい神の設計図
ドヤ街の安宿ではない。前のアジトを脱出した俺は、この作戦のため、手付金五億の一部を投じ、アンナ・ベルの協力を得て、急遽このサーバーファームを確保した。その淀んだ空気を、無数のサーバーが吐き出す熱気がかき混ぜていた。俺のノートPCが悲鳴のような冷却ファンの音を立てている。アジト脱出時のダメージで、いつオーバーヒートしてもおかしくない状況だ。俺と桜井美咲は、その中央に浮かぶホログラムの光の中にいた。前話までの重苦しい沈黙は、キーボードを叩く乾いた打鍵音だけが支配する、新たな戦場へと姿を変えていた。
目的は一つ。霞が関の地下深くに眠る、この国の心臓部。国家中枢メインフレームへの侵入だ。
俺の指先には、高遠優が遺した最後のデータという名の『鍵』がある。脳裏に燃えるのは、三年前の裏切り者、ジンへの復讐の炎。隣に立つ桜井の瞳には、三日前に愛する者の死の真相を知ったばかりの深い悲しみと、その無念を晴らすという悲壮な決意が宿っていた。
言葉はいらない。俺たちの目的は、完全に一致していた。
「――第一防壁、突破」
短く告げると、複雑な認証コードの羅列が緑色の『ACCEPTED』という文字列に変わる。だが、その先に広がった光景に、俺は眉をひそめた。静かすぎる。あまりにも。
「罠だ」
俺の呟きは、確信に満ちていた。国家の最重要機密だ。常時、幾重にも張り巡らされた監視プログラムが、侵入者の痕跡を血眼になって探しているはず。それが、今は不気味なほど沈黙している。
「ええ」桜井が頷く。「サイバー防衛隊の内部情報ですが、このセクターの定時監視プロトコルが、数時間前から意図的に停止させられています。正規の申請ルートは通っていません」
なるほどな。侵入者を歓迎するかのように門を開け、特定の経路へと誘い込む。巧妙に仕組まれた『真空地帯』というわけだ。ジンのやりそうな、悪趣味な手口だった。
「ご丁寧な案内だが、生憎と地図なしで歩く趣味はなくてな」
俺は桜井の助言に基づき、奴が用意したであろう正規ルートを無視した。膨大なデータが河のように流れるメインストリーム、その流れの影に身を隠すように、システムの深層へと潜っていく。正規のデータパケットに自らのコードを擬態させ、監視システムの網膜をすり抜ける。
やがて、データの奔流の淀みに、異質なコードの塊が潜んでいるのを見つけた。
「見つけたぞ、クソ野郎の置き土産が」
解析ウィンドウを開き、コードを逆コンパイルする。その構造が明らかになるにつれ、俺の口元から表情が消えた。
『論理爆弾』。侵入を検知した瞬間、ログデータを偽装し、サイバー防衛隊のサーバーへ送信する。そこまでは定石だ。だが、その偽装データの中身が、ジンの悪意を物語っていた。
『侵入者ID: SAKURAI_MISAKI』
『実行コマンド: 国家機密情報への不正アクセス及び破壊工作』
「…悪趣味にもほどがある」
俺のハッキング痕跡を桜井美咲にすべてなすりつけ、彼女を国家反逆の主犯に仕立て上げる。外からの攻撃と同時に、俺たちの関係を内側から破壊しようという、唾棄すべき罠だった。
背後で桜井が息を呑む気配がした。彼女を社会的に抹殺し、俺を孤立させる。その二重の罠に、俺の腹の底で冷たい怒りが燃え上がった。
「雨宮さん…」
「邪魔だ。見ていろ。こういうクソみたいなコードは、書いた人間の品性が透けて見える」
俺は指を走らせる。トラップの発動を逆手に取る。論理爆弾が偽のログデータを生成し、外部へ送信しようとする、まさにその刹那。俺のコードがパケットに割り込み、その宛先を書き換えた。
送信先は、サイバー防衛隊ではない。俺が壊滅に追い込んだクロノスだが、その残存するダミーサーバーはオペレーション・ショータイムで俺たちが叩き、その存在と脆弱性を露呈させたことで、今や国際的な監視下に置かれている。
結果、送信されたログはこうなる。『ジンが、クロノスの残党と思わしきサーバーを経由し、桜井美咲の名を騙って国家システムへの攻撃を画策した』。奴の罠は、奴自身の首を絞める、より巧妙な偽の証拠へと生まれ変わった。
「…完了。これで奴も、しばらくは身内のケツ拭きに追われるだろ」
コンソールに『SENDING_COMPLETE』の文字が灯る。数秒の沈黙。振り返ると、桜井が驚きと、そして微かな安堵が入り混じった表情で俺を見ていた。言葉はなくとも、死線を一つ越えた者同士の、新たな信頼が生まれたのを確かに感じた。
俺たちはさらに深く、システムの心臓部へと進む。鷹司早紀が管理する、最高機密レベルの隔離領域。そこに、この国の冷たい神が描いた設計図があった。
『プロジェクトGENESIS』。
モニターに映し出されたのは、人という概念を否定する、無慈悲なデータだった。数百万人に及ぶ国民一人ひとりの名前。その横には、『社会貢献度』『経済的価値』『国家への忠誠度』といった無機質なパラメータが並び、冷たい数字でランク付けされている。そして、一定のスコアを下回った者には、『資産凍結』『社会保障停止』『強制労働対象』という赤いラベルが貼られていた。
それは、国家という名の機械を維持するために、不要な部品を切り捨てるための、あまりにも合理的なシミュレーション。
桜井がリストの中に、見知った名前を見つけてしまった。かつての同僚、学生時代の友人。彼らは皆、非情な烙印を押されていた。膨大なリストのどこかに、俺たち自身の名前も『危険因子』として紛れ込んでいるとは、この時の二人はまだ知る由もなかった。
「これが…総理の信じる『正義』なんですか…? ただの…虐殺計画じゃない…」
絶望に声が震える。桜井が、怒りと悲しみのあまり、目の前のコンソールを叩き壊そうと手を振り上げた。
その瞬間、俺は彼女の手を静かに、しかし強く掴んで制した。
「感傷に浸るのは後だ」
俺の声は、表面上は落ち着き払っていた。だが、その言葉に込めたのは、桜井を突き動かすためだけの冷静さではない。俺自身の腹の底で燻る怒りが、高遠優の言葉を借りて、今、確かな形を取ろうとしていた。この非人道的なシステムを設計した鷹司も、それを悪用するジンも、等しく裁かれなければならない。俺の瞳の奥では、個人的な復讐を超えた、奥深い怒りの炎が、じりじりと燃え盛るのを感じていた。
俺の言葉に、桜井ははっと我に返る。振り上げた手はゆっくりと下ろされ、その拳は固く握りしめられていた。涙に濡れた瞳が、悲しみを怒りへと変え、覚悟を決めた光を宿してモニターを睨み返す。
俺は再びコンソールに向き直り、シミュレーションデータの解析を続けた。そこで、奇妙な違和感に気づく。鷹司の合理的な設計思想とは明らかに異なる、異質なバックドア。それはGENESISの制御権を奪うためのものではない。まるで寄生するようにシステムに食らいつき、その機能を中継して外部へと接続しようとしている。
どこへ?
ネットワークの経路を追跡し、その終着点が表示された時、俺は背筋が凍るのを感じた。
国際銀行間決済ネットワーク。世界の金融取引を支える大動脈だ。
そして、そのバックドアのコードの片隅に、見慣れた署名が隠されていた。ジンのものだ。だが、その設計には、彼の手癖とは異なる、微かな異物が混じっているようにも見えた。
「…おかしい。このバックドアの行き先はGENESISのコアじゃない。外だ…世界に繋がってる」
思考が最悪の可能性を導き出す。
「ジン…てめえ、狙いは日本のデフォルトじゃねえ。この国を踏み台にして、世界経済そのものを人質に取る気か」




