第49話 桜の前日
第49話 桜の前日
桜が咲いた。
三月の第三週。朝凪の桜は毎年遅い。卒業式に間に合わない桜。しかし今年は卒業式から二週間で咲いた。例年より少し早い。蒼ならデータで説明するだろう。二月の平均気温が例年比〇・八度高かったとか。しかし蒼はここにいない。教室にいる。授業中だ。
俺は私服で校門をくぐった。管理人が「また来たのか」と笑った。三回目だ。卒業してから。
旧部室棟。二階。廊下。窓の前。
窓から桜が見えた。校庭の桜。三本。満開ではない。五分咲きくらい。しかし五分でも十分に春だ。ピンクが枝を覆っている。空の青と桜のピンク。三月の色。
彩音はまだ来ていない。午後に来ると言っていた。今は午前十一時。一人の時間。
工作室のドアは開いている。中を覗いた。誰もいない。ホワイトボードに赤い字。凛花のver.3。
覗くだけにした。中には入らない。ここは凛花の工作室だ。
廊下の窓際に座った。床に。いつもの場所。彩音といつも座る場所。
スマホが光った。陽太。
『恒一。土曜日の紅茶。場所決まったぞ。駅前のカフェ。真白が見つけた。紅茶の種類が多い店』
『了解。何時だ』
『十四時。四人で。瀬川も来るんだろ』
『来る』
『楽しみだ。卒業後初めての四人。恒一と瀬川が恋人で来るのも初めてだ。二組のカップルで紅茶。大学生の遊び方だな』
『まだ大学生ではない。四月から』
『気が早いのがコミュ力お化けの取り柄だ。話は変わるが、真白がバイトを始めた。カフェで。紅茶の知識が増えている。来月にはソムリエ級になる予定だ』
『紅茶ソムリエの彼女。お前にぴったりだ』
『ぴったりだ。恒一と瀬川もぴったりだ。翻訳者と元翻訳者。壊れた者同士。お似合いだ』
『お似合いと言うな。恥ずかしい』
『恥ずかしがれ。恥ずかしいのは恋人の語彙だ。何語目だ』
『数えないと決めた』
『数えないか。成長したな。恒一』
スマホを閉じた。陽太は変わらない。卒業してもコミュ力お化け。紅茶と真白と恒一。三つが陽太の世界の中心にある。変わらない。
スマホがまた光った。凛花。
『先輩。桜が咲きました。校庭の。五分咲きです。写真を送ります』
写真が来た。校庭の桜。凛花が教室の窓から撮ったのだろう。角度が二階だ。ピンクの枝が空を背景にしている。
『きれいだな』
『きれいです。先輩。今日来ていますか。旧部室棟に』
『来ている。廊下にいる。窓から桜が見える』
『先輩。放課後、工作室に来てもらえませんか。一つだけ見せたいものがあります』
『見せたいもの』
『四冊目のノートです。一ページ目だけ。先輩に見せたい』
『行く。放課後に』
四冊目のノート。凛花が引き継ぎ式の日に開いた新しいノート。一ページ目に何を書いたか。「工作室のドアは開いている。先輩たちがいなくなっても」と報告していた。しかしそれ以降は知らない。
スマホがもう一つ光った。蒼。
『高瀬先輩。桜の開花データです。今年の開花は例年比四日早いです。二月の平均気温が〇・八度高かったことが主因です。凛花先輩の承認を得て送信しています』
やはり蒼はデータで説明した。予想通り。
『蒼。データありがとう。一つだけ聞く。白石とはどうなった』
三十秒。返信がなかった。一分。
『進展なしです。しかし昨日、図書室で白石さんと話しました。桜の話を。白石さんが窓から桜を見て、きれいだねと言いました。俺はきれいですねと返しました。それだけです』
『それだけか』
『それだけです。しかし白石さんが笑いました。普通の笑いです。データ的な意味はありません。しかし非合理の領域で、俺は嬉しかったです』
蒼が非合理の領域で嬉しがっている。白石が笑ったことを。データ的な意味はない。しかし嬉しい。
『蒼。いいデータだ』
『データではないです。感想です。高瀬先輩に教わりました。感想と翻訳は違うと。これは感想です』
『感想だ。いい感想だ』
スマホを閉じた。
三人からのメッセージ。陽太。凛花。蒼。卒業しても繋がっている。LINEで。紅茶で。桜で。
午後。
彩音が来た。旧部室棟の階段を上がってくる足音。知っている足音。
「恒一さん。桜が咲いていますね」
「咲いた。五分」
「五分咲き。明日には七分くらいになるかもしれません」
「明日見よう。七分咲きを」
「明日も来るんですか」
「来る。桜が散るまで」
「散るまで。長くいますね。旧部室棟に」
「いる。ここが好きだから」
「工作室が」
「工作室ではない。この廊下が。窓が。海と桜が見える場所が。彩音と座る場所が」
「恒一さん。それは感想ですか」
「感想だ」
「いい感想です」
二人で窓際に座った。床に。弁当を広げた。卵焼き。唐揚げ。交換した。
「恒一さん。放課後に凛花さんに会うんですか」
「会う。四冊目のノートを見せてくれるらしい」
「四冊目。凛花さんの。何が書いてあるんでしょう」
「分からない。一ページ目だけ見せてくれるらしい」
「楽しみですね」
「楽しみだ」
弁当を食べた。卵焼きがうまい。変わらない味。彩音の卵焼き。
「恒一さん。一つ聞いていいですか」
「聞け」
「大学が始まったら、ここには来られなくなりますね」
「来られなくなる。平日は。しかし週末は来られる」
「週末だけ」
「週末だけ。しかし週末に海を見に来る。桜の季節が終わっても。夏になっても。秋になっても。冬になっても」
「四季」
「四季分。一年分。ここに来る。彩音と」
「恒一さん。それは約束ですか」
「約束だ」
「何度目の約束ですか」
「数えない」
「数えないんですか」
「数えない。約束も数えない。恋人の語彙と同じだ。数えない。ただ約束する」
「ただ約束する。いいですね」
放課後。
旧部室棟に授業終わりの気配が伝わってきた。遠くからチャイムが聞こえた。校舎が動き始めた。生徒の声。足音。
工作室のドアの前に凛花が現れた。蒼と一緒に。
「先輩。来てくれたんですね」
「来た。見せてくれるものがあるんだろ」
「はい。中に入ってください」
「入っていいのか。凛花の工作室に」
「先輩は卒業生です。卒業生の来訪は歓迎します。ルール⑥。ドアは開いている」
工作室に入った。引き継ぎ式以来。二週間ぶり。
変わっていた。少しだけ。
ホワイトボードの赤い字は同じ。六つのルール。しかしルールの横に新しい紙が貼ってあった。手書きの紙。凛花の字。
「段階的翻訳ガイドライン」
「何だこれ」
「私の手法をまとめました。段階的翻訳。行動記録法。記録者主導の面談手法。次の世代に引き継ぐためにガイドラインを作りました。先輩が翻訳を口伝で教えてくれたように。私の手法を文書化しました」
「文書化したのか」
「はい。先輩の翻訳は口伝でした。先輩にしかできないから。文書化できなかった。しかし段階的翻訳は文書化できます。手順が明確だから。記録者の手法だから」
「凛花。お前の工作室は俺の工作室より制度に近い」
「近いかもしれません。しかし制度ではない。ガイドラインはルールではない。参考資料です。使うかどうかは次の団長が決める」
「次の団長。もう考えているのか」
「考えています。来年。新入部員が入ったら。その中から次の団長を育てる。先輩が私を育てたように」
「一年で育つか」
「育ちます。先輩が私を育てたのは実質一年でした。二年いましたが、最初の一年は見ているだけでした。育ち始めたのは本作の一年間です。一年で育つ」
「本作。お前も作品の中にいるみたいに言うな」
「いますよ。先輩の物語の中に。先輩の翻訳者の物語は終わりましたが、凛花の記録者の物語はここから始まります」
凛花が四冊目のノートを取り出した。新しいノート。しかしもう二週間分の記録が入っている。ページが少しだけ使われている。
「先輩。一ページ目を見てください」
ノートを開いた。一ページ目。凛花の字。赤いペン。
「柊凛花。第三代団長。朝凪高校・恋路工作室。
工作室のドアは開いている。先輩たちがいなくなっても。
翻訳者はいない。記録者がいる。データアナリストがいる。二人で工作室を回す。翻訳の代わりに記録と段階と行動で。不完全だが回す。
受け継いだもの。三冊のノート。六つのルール。工作室の名前。ドアが開いていること。
受け継がなかったもの。翻訳者の才能。翻訳者の目。翻訳者の辞書。全部、先輩だけのもの。コピーできない。コピーしない。
先輩。ありがとうございました。工作室を育ててくれて。翻訳者でいてくれて。壊れてくれて。直ってくれて。恋をしてくれて。本文を書いてくれて。卒業してくれて。
怖い。しかし怖いまま行く。先輩が教えてくれた言葉で」
読み終えた。
ノートを閉じた。凛花に返した。
「凛花。いい一ページ目だ」
「ありがとうございます」
「卒業してくれて、が入っているのか」
「入っています。先輩が卒業してくれたから、私が団長になれた。卒業しないと引き継げない。だから卒業してくれてありがとうです」
「卒業がありがとうか。変な感謝だな」
「変ですか」
「変だ。しかし正しい」
凛花の目が赤くなった。泣いてはいない。しかし赤い。引き継ぎ式のとき以来の赤さ。
「先輩。もう一つ。蒼くんから」
蒼が窓際にいた。いつもの位置。
「高瀬先輩。最後のデータを渡しました。凛花先輩に。工作室の二年間の全データ。匿名化済み。安全装置の範囲内。これで先輩への報告義務は終了です」
「報告義務が終了か」
「終了です。しかし非公式の連絡は続けます。桜のデータとか。天気のデータとか。安全装置の範囲内で」
「蒼。非公式の連絡に安全装置は要らない。友達の連絡だ」
「友達」
「ああ。友達だ。先輩と後輩ではなく。翻訳者とデータアナリストではなく。友達」
「友達ですか。高瀬先輩と」
「友達だ。嫌か」
「嫌ではないです。しかしデータ的に、友達の定義が」
「定義するな。非合理の領域だ」
「非合理の領域。了解です。友達として、非公式の連絡を続けます」
蒼が微笑んだ。事務的な顔が崩れた。データアナリストが友達という非合理を受け入れた。
「先輩。そろそろ帰りましょう。瀬川さんが待っていますよ」
「彩音は廊下にいる」
「知っています。中には入りませんでした。先輩と私たちの時間を邪魔しないように」
「気を遣うな」
「気を遣います。先輩のために。最後です」
「最後か」
「最後です。先輩が工作室に来るのは。たぶん。次に来るのは桜が散った後。五月か六月。凛花さんが紅茶で釣るかもしれませんが」
「釣る。凛花が」
「釣ります。先輩が来てくれるなら紅茶を十杯でも淹れます」
「十杯は飲めない」
「三杯でいいです。来てくれれば」
工作室を出た。ドアの前で振り返った。ホワイトボード。赤い字。凛花のルール。段階的翻訳ガイドライン。窓。海。桜。
「先輩。また来てくださいね」
「来る。桜が散った頃に」
「待っています。ドアは開いています」
廊下に出た。彩音が窓際に座っていた。弁当の空箱を片付けていた。
「終わりましたか」
「終わった」
「凛花さんのノート。見ましたか」
「見た。いい一ページ目だった」
「どんなことが書いてありましたか」
「秘密だ。凛花のノートは凛花のものだ」
「そうですね。秘密でいいです」
二人で旧部室棟を出た。渡り廊下。校庭に桜が見えた。五分咲き。ピンクの雲が枝に載っている。
「恒一さん。明日。花見をしましょう」
「明日。七分咲きくらいになるか」
「なると思います。蒼くんなら予測できるでしょうが、私は予測しません。明日見て確認します」
「確認。二語目だ。好きだと確認し続ける」
「数えないと言ったのに」
「癖だ。翻訳者の名残」
「名残。消えないですね。翻訳者の癖」
「消えない。しかし薄くなっている。四月にはもっと薄くなる。五月にはもっと」
「消えなくてもいいです。翻訳者だった恒一さんも好きですから。名残ごと」
校門を出た。海沿いの道。三月の午後。春の光。桜のピンクが視界の端にある。海の青が正面にある。二つの色。春の二色。
「恒一さん。明日は何を持っていきますか。弁当」
「唐揚げ」
「またですか」
「母親のレパートリーだ。変わらない」
「変わらなくていいです」
「彩音は」
「卵焼き。花見用に特別版を作ります。桜の塩漬けを入れた卵焼き」
「桜の卵焼き。手が込んでいるな」
「花見ですから。特別な日です」
「花見が特別な日か」
「特別です。恒一さんと初めての花見。二人だけの。春の。桜の下の。特別でなくて何ですか」
「特別だな」
「特別です」
分かれ道。彩音の家まで送る。左の道。もう何度歩いたか数えていない。数えない。
「恒一さん。手を繋いでいいですか」
「いいぞ」
手を繋いだ。自然に。考えないで。右手と左手。春の手。冬より温かい。三月の空気が手を包んでいる。
「恒一さん。握り方、上手になりましたね」
「なったか」
「なりました。最初の頃は力の入れ方が分からなかった。今は自然です。考えていないでしょう」
「考えていない」
「考えないことが上手くなること。七語目でした」
「数えてるじゃないか。お前のほうが」
「数えました。最後です。もう数えません。七語目が最後の番号つきの語彙です。八語目以降は番号なし。ただの言葉」
「ただの言葉」
「ただの。恋人の。日常の」
彩音の家に着いた。マンション。三階の窓に光。
「恒一さん。明日。十一時に。旧部室棟の廊下で」
「十一時。桜が見える場所で」
「はい。弁当と紅茶を持っていきます。紅茶はアールグレイ。水筒に入れて」
「アールグレイか」
「始まりのフレーバーです。天野先輩の」
「陽太の始まりを俺たちの花見に使うのか」
「使います。いいフレーバーですから。始まりのフレーバー。工作室の全部はアールグレイから始まった。真白さんが天野先輩にくれた缶から。全部」
「全部がアールグレイから」
「はい。明日もアールグレイから始めます。花見を。春を。新しい季節を」
「分かった。明日。十一時。アールグレイ。桜」
「おやすみなさい。恒一さん」
「おやすみ。彩音」
「恒一さん。一つだけ」
「何だ」
「明日。花見の後。一つだけ話したいことがあります」
「何を」
「明日話します。今日は言いません」
「気になる」
「気にしてください。明日まで」
彩音が笑った。壁のない笑み。何かを隠している笑み。しかし悪い隠し方ではない。サプライズの隠し方。
彩音が入っていった。ドアが閉まった。
一人で帰った。春の夜。三月の夜。星が柔らかい。風が温い。花の匂いがどこかからする。桜ではない。梅かもしれない。春の匂い。
帰宅。自室。
窓を開けた。春の空気が入ってきた。冬の鋭さがない。柔らかい。温い。しかし夜はまだ少し冷える。
本棚を見た。ノートが並んでいる。十三行のノート。記念品。
手に取らなかった。もう開かない。十三行は内側にある。
明日。花見。彩音と。桜と。卵焼きと。アールグレイと。
彩音が何を話したいのか。分からない。翻訳者なら推測する。行動パターンから。声のトーンから。笑い方から。しかし翻訳者はいない。推測しない。明日聞く。
三月の夜。桜の前日の夜。
翻訳者だった人は眠る。明日のために。春のために。桜のために。彩音のために。
ただの人として。ただの恋人として。
明日が来る。桜が咲く。アールグレイの湯気が立つ。彩音が笑う。
それだけで十分だ。
それだけが全部だ。
三月の夜。春の星。潮の匂い。どこかで花が咲いている。
明日。




