第46話 ホワイトボード
第46話 ホワイトボード
二月の第一火曜日。放課後。
工作室に六人がいた。恒一、陽太、凛花、蒼、彩音、真白。真白は陽太と一緒に来た。引き継ぎ式を見届けたいと言った。陽太が断る理由はなかった。
ホワイトボードの前に立った。六つのルールが書いてある。俺の字。二年前に書いた字。何度か書き直した。ver.1からver.2へ。マーカーの色が違う場所がある。時間が経つと色が褪せる。二年分の色褪せ。
ホワイトボードの白が少し黄ばんでいる。旧部室棟は古い。ホワイトボードも古い。しかし六つのルールは読める。二年間、毎日読まれてきた六つの文。
「始めます」
凛花が言った。三冊目のノートを持って。立っている。ホワイトボードの横に。
「朝凪高校・恋路工作室。引き継ぎ式。第二代団長・高瀬恒一から、第三代団長・柊凛花へ。ルールのver.2からver.3への更新。および団長職の移譲」
凛花が形式を読み上げた。参謀の声。しかし参謀の最後の仕事。今日から参謀ではない。団長になる。
「先輩。ルールを消してください」
マーカーのイレーサーを渡された。白い布。ホワイトボード用。
イレーサーを受け取った。軽い。しかし重い。二年分の言葉を消す重さ。
ホワイトボードの前に立った。六つのルールを見た。
①心は操作しない
②完全救済は約束しない
③走りながら更新する
④恋に勝ち負けの表現を使わない
⑤メンバーも当事者になりうる
⑥ドアは常に開けておく
二年間。この六つの文が工作室の骨格だった。依頼者が来るたびに、この六つを確認した。園田のとき。長谷川のとき。小野寺のとき。河野のとき。全ての依頼の前に六つのルールがあった。
「消します」
声が出た。自分の声。翻訳者の声ではない。高瀬恒一の声。
イレーサーをホワイトボードに当てた。
①から消した。心は操作しない。マーカーの線が薄くなり、消えた。白に戻った。
②。完全救済は約束しない。消えた。
③。走りながら更新する。消えた。
④。恋に勝ち負けの表現を使わない。消えた。
⑤。メンバーも当事者になりうる。消えた。
⑥。ドアは常に開けておく。
最後の一つ。イレーサーを当てた。消えた。
ホワイトボードが白くなった。何も書いていない。二年間で初めて。工作室のホワイトボードに何も書いていない状態。白。空白。
空白が広がっている。ホワイトボードの白さが眩しい。窓から入る二月の光がホワイトボードを照らしている。何もない白。
手が震えていた。イレーサーを握る手。消した手。二年分の言葉を消した手。
「先輩。ありがとうございます」
凛花がマーカーを持った。赤。新しいマーカー。蒼が先週買ってきた。
「書きます。ver.3」
凛花がホワイトボードに向かった。マーカーのキャップを外した。赤いインクの匂いが微かにした。新しいマーカーの匂い。
書き始めた。凛花の字。几帳面な字。俺の字より小さい。しかし読みやすい。記録者の字。
①心は操作しない
同じ文。しかし凛花の字で。赤いマーカーで。俺の黒いマーカーとは違う色。
②完全救済は約束しない。グレーの着地を受け入れる
グレーの着地が追加された。ver.2にはなかった補足。工作室の二年間の到達点。
③走りながら更新する(ただし本文は立ち止まって書く)
括弧の中の補足。本文は立ち止まって書く。俺が彩音への本文で学んだこと。翻訳者の経験が凛花のルールに反映されている。
④恋に勝ち負けの表現を使わない
変更なし。凛花の字で。
⑤メンバーも当事者になりうる。当事者になったら自覚して申告する
自覚して申告する。蒼がルール⑤を二回使った。その経験が文言に反映されている。
⑥ドアは常に開けておく(ただし記録は閉じることがある)
括弧の中の追加。記録は閉じることがある。記録者の責任。凛花の覚悟。
書き終えた。六つ。赤い字。凛花の字。
ホワイトボードに新しいルールが並んでいる。形は同じ。六つ。しかし字が違う。色が違う。書いた人間が違う。
凛花がマーカーのキャップを閉じた。振り返った。
「先輩。ver.3。ホワイトボードに書きました」
「見た」
「承認いただけますか。最終確認として」
「承認する」
一言。承認する。翻訳者の最後の最後の仕事。たった一言の仕事。
凛花がノートに書いた。三冊目。「二月第一週火曜日。引き継ぎ式。ルールver.3をホワイトボードに記載。高瀬恒一が承認。団長職を柊凛花に移譲。以上」
「以上」
「以上です。先輩。引き継ぎ完了です」
完了。
二年間の翻訳者が終わった。団長が終わった。ルールを消した。新しいルールが書かれた。世代が交代した。
工作室が静かだった。六人が黙っていた。ホワイトボードの赤い字を見ていた。
「先輩」
凛花の声が震えていた。先週と同じ震え。しかし先週より深い。
「先輩。二年間。ありがとうございました」
参謀が頭を下げた。深く。記録者が。団長が。凛花が。
「工作室を育ててくれて。翻訳者でいてくれて。園田先輩を手放してくれて。久我先生と共存してくれて。蒼くんを止めてくれて。私を育ててくれて。凛花の工作室を認めてくれて。ルールを承認してくれて。全部」
凛花が泣いていた。先週と同じ。しかし先週は準備の涙だった。今日は本番の涙。
「凛花。お前の工作室は俺の工作室より良くなる」
「分かりません」
「分からなくていい。走りながら更新しろ。ルール③だ。お前のルール③に書いてある」
「走りながら」
「ただし本文は立ち止まって書く。それもお前のルールだ」
凛花が涙を拭った。ノートで。三冊目のノートの表紙で。ノートが少し濡れた。記録者のノートに涙が落ちた。
「先輩。私は翻訳者にはなれません」
「なれない。なる必要はない」
「翻訳者より強い記録者になります」
「なる。もうなっている」
「まだです。しかし走りながらなります」
「ああ。走れ」
蒼が立ち上がった。窓際から。
「高瀬先輩」
「蒼」
「ありがとうございました。データの使い方を教えてくれて。安全装置をつけてくれて。影山にならずに済んだのは先輩と凛花先輩のおかげです」
「安全装置は凛花がつけた。俺ではない」
「先輩が凛花先輩にその役割を渡した。先輩がいなければ凛花先輩は安全装置になれなかった」
「蒼。お前はいいデータアナリストになった」
「なりました。しかし十七パーセントの領域はまだ分かりません」
「分からなくていい。分からないから恋なんだ」
「非合理の領域ですね」
「ああ。非合理の領域だ」
蒼が頭を下げた。事務的な敬語で。しかし敬語の下に温度がある。一年間の成長の温度。
「恒一」
陽太が腕を組んだまま言った。
「お疲れ。団長」
「お疲れ。実行班長」
「俺も卒業だ。実行班長を。しかし凛花と蒼がいるなら大丈夫だ。次の実行班長は新入部員から育てろ」
「凛花に言え。俺はもう団長ではない」
「凛花。次の実行班長、頼むぞ」
「頼まれます。天野先輩」
「先輩たち、面倒くさいですね。最後まで」
最後のフレーズ。凛花の。前作から続いた定番のツッコミ。面倒くさい。しかし今日の声には、ありがとうが混ざっている。面倒くさいとありがとうが同居している。
真白が陽太の横にいた。小さく手を合わせた。
「おめでとうございます。凛花さん。団長就任」
「ありがとうございます。真白さん」
「天野先輩が工作室のこと、よく話してくれます。面倒くさい人たちの面倒くさい場所だと」
「天野先輩。工作室を面倒くさいと紹介しないでください」
「事実だろ」
「事実ですが」
笑いが起きた。六人の笑い。引き継ぎ式の後の笑い。涙と笑いが同居する空間。工作室のいつもの空気。
「先輩。一つだけ」
凛花がノートを閉じた。三冊目。
「三冊目のノート。今日で閉じます」
「閉じる」
「はい。三冊目は先輩の時代の記録です。引き継ぎの記録。凛花自身の記録。先輩への感想。全部入っている。三冊目は閉じて、四冊目を開きます。凛花の工作室の記録を。一ページ目から」
「四冊目」
「はい。新しいノート。新しい団長の記録。先輩の言葉は三冊目までに全部入っています。四冊目には凛花の言葉を書きます」
「受け継ぐけどコピーはしない」
「はい。三冊目までが先輩の辞書。四冊目からが凛花の辞書」
凛花が三冊目のノートを鞄にしまった。新しいノートを取り出した。四冊目。買ったばかり。表紙がきれい。ページが白い。何も書いていない。
ホワイトボードと同じだ。白い。空白。しかし空白はこれから埋まる。凛花の字で。凛花の言葉で。
「先輩。引き継ぎ式。以上です」
「以上だ」
「先輩は今日から何ですか。肩書きは」
「何もない。高瀬恒一。ただの三年生」
「ただの三年生。いいですね」
「いいか」
「いいです。ただの高瀬恒一が、二年前に工作室に入った。玲奈先輩の隣で翻訳者になった。引き継いで育てた。壊れた。直った。恋をした。全部やった。そのただの高瀬恒一が、これからただの高瀬恒一に戻る。円環です」
「円環か」
「はい。始まりに戻る。しかし同じ場所ではない。螺旋です。同じ位置の一段上。ただの高瀬恒一の一段上に、翻訳者を経験したただの高瀬恒一がいる」
凛花の分析が正確だった。円環ではなく螺旋。同じ位置の一段上。翻訳者を経験した上での「ただの」。
帰り支度。
六人で工作室を出た。ドアの前で止まった。
「ドア。閉めるか」
「開けておいてください。ルール⑥です。私のルール」
「お前のルールだ」
ドアを開けたまま。工作室のドアは開いている。凛花の工作室のドアは開いている。
廊下。旧部室棟。窓から海が見える。二月の海。鉛色が薄くなっている。春に向かっている色。冬の鉛から春の青へ。まだ途中。灰色と青の間。
「恒一。帰るか」
陽太が真白と一緒にいた。
「先に帰れ。彩音と海を見る約束がある」
「海を見る約束。恋人だな」
「恋人だ」
「お前が恋人という言葉を普通に使うとは。二年前には想像できなかった」
「二年前の俺は翻訳者だった」
「今は」
「ただの恋人だ」
陽太が笑った。真白と手を繋いで帰っていった。コミュ力お化けの手の繋ぎ方は自然だった。俺と彩音のぎこちない繋ぎ方とは違う。しかしどちらも手を繋いでいる。形が違うだけで。
凛花と蒼も帰った。凛花が四冊目のノートを持って。蒼がデータのファイルを持って。二人で駅の方向に。
「凛花先輩。四冊目の一ページ目。何を書きますか」
「まだ決めていない。帰ったら考える」
「データ的には、一ページ目の内容がノート全体の方向性を決定する確率が七十六パーセントです」
「蒼くん。ノートにデータを持ち込まないで」
「持ち込みません。参考情報です」
二人の声が遠ざかっていった。次世代の工作室。記録者とデータアナリスト。安全装置とパートナー。
俺と彩音が残った。廊下。旧部室棟。窓の前。
「恒一さん。海を見ましょう」
「見よう」
窓の前に並んだ。二人で。旧部室棟の二階の廊下。窓から朝凪の海が見える。二月の海。鉛色が薄くなっている。夕暮れの光が水面に線を引いている。オレンジの線。冬の夕日。しかし夏の夕日より長く残る。冬の夕日はゆっくり沈む。
「恒一さん。引き継ぎが終わりましたね」
「終わった」
「翻訳者が終わった」
「終わった」
「団長が終わった」
「終わった」
「全部終わった」
「全部終わった」
「残ったのは」
「高瀬恒一だ。彩音の恋人の。ただの三年生の」
「ただの。いいですね」
「いいか」
「いい。ただの恒一さんが好きです」
「格好良くないのに」
「格好良くないから好き。前に言いました。翻訳者は格好良すぎた。ただの恒一さんがちょうどいい」
窓の外。海。夕暮れの光。オレンジの線が水平線に近づいている。
「恒一さん。翻訳者がいなくなった海。どう見えますか」
「同じだ。海は同じだ。鉛色で、夕日が線を引いていて、風が冷たくて」
「同じですか」
「同じだ。しかし一つだけ違う」
「何が」
「隣に彩音がいる。翻訳者として海を見ていたときは一人だった。今は隣にいる」
「隣にいます」
「ああ。それだけで海が違って見える。同じ海なのに。隣に人がいるだけで」
「恒一さん。それは翻訳ですか」
「翻訳じゃない。感想だ。高瀬恒一の感想」
「感想が増えましたね。翻訳が減って感想が増えた」
「翻訳者がいなくなったからな。翻訳の代わりに感想が出てくる」
「恒一さん。感想のほうが好きです」
「翻訳より」
「翻訳より。翻訳は鋭い。分析的。正確。しかし冷たい。感想は鈍い。曖昧。不正確。しかし温かい」
「温かいか」
「温かい。隣にいるだけで海が違って見える。それは鈍くて曖昧で不正確な感想です。翻訳者なら光の角度と水面の反射率で説明する。しかし恒一さんはそう言わない。隣にいるだけでと言う。鈍い。しかし温かい」
「翻訳者をやめてよかったか」
「やめてよかった。しかしやめる前の恒一さんも好きでした。どちらも」
「どちらも」
「どちらも。二層とも。翻訳者の層も高瀬恒一の層も。翻訳者はもういない。しかし翻訳者だった記憶は恒一さんの中にある。記憶は消えない。凛花さんの三冊のノートに記録されている。蒼くんのデータに残っている。天野先輩の記憶にある。私の記憶にある」
「消えないか」
「消えない。翻訳者は終わった。しかし翻訳者がいた事実は消えない。園田先輩の中に名前のない距離が残っているように。長谷川さんの中に存在確認が残っているように。小野寺さんの中に居場所が残っているように」
彩音の声が続いた。
「翻訳者が渡した言葉は依頼者の中に残っている。翻訳者がいなくなっても」
「翻訳者がいなくなっても言葉は残る」
「残ります。恒一さんの中にも。翻訳者の辞書は凛花さんに渡した。しかし辞書を使った記憶は恒一さんの中にある。二年間の記憶」
「二年間」
「長いですね」
「長い。しかし短い。終わってみれば」
「終わってみれば短い。しかし中身が詰まっている。二年分の中身」
海が暗くなっていった。夕日が沈んでいく。オレンジの線が細くなる。水平線に吸い込まれていく。鉛色が深くなる。冬の海が夜の色に変わっていく。
「恒一さん。手を繋いでいいですか」
「繋ごう」
右手と左手。窓の前で。海を見ながら。
握り方が自然になっていた。考えていない。力の入れ方。指の角度。何も考えていない。ただ繋いでいる。
「恒一さん。上手になりましたね」
「なったか」
「なりました。考えていないでしょう」
「考えていない」
「恋人の語彙の七語目。考えないこと」
「七語目を使っている」
「使っています。もう数えなくてもいいかもしれません。恋人の語彙を数えることは翻訳者の名残です。高瀬恒一は数えない。ただ使う」
「数えない」
「数えないでください。数えると分析になる。分析は翻訳者の仕事。恒一さんの仕事ではもうない」
「分かった。数えない」
「ただ繋ぐ。ただ歩く。ただ見る。ただ話す。全部、ただ」
「ただ」
「ただ。それが恋人です。翻訳者ではなく。記録者でもなく。データアナリストでもなく。ただの人間」
ただの人間。
翻訳者が二年かけて辿り着いた場所。翻訳を超えた場所。設計を超えた場所。分析を超えた場所。
ただの人間。ただの恋人。ただの高瀬恒一。
海が暗くなった。夕日が完全に沈んだ。水平線が闇に消えた。星が出始めている。二月の星。一月より柔らかい。春に近い星。
「帰ろう」
「はい」
「家まで送る」
「お願いします」
窓から離れた。手を繋いだまま。廊下を歩いた。旧部室棟を出た。渡り廊下を越えた。校門を出た。海沿いの道。
歩いた。二人で。冬の終わりの道を。春に向かう道を。
工作室のドアは開いている。凛花のルール⑥。ドアは常に開けておく。ただし記録は閉じることがある。
ドアが開いている限り、工作室は続く。翻訳者がいなくても。団長が変わっても。ルールが更新されても。ドアが開いている限り。
「恒一さん」
「ん」
「卒業式。いつですか」
「三月の第一週。金曜日」
「あと一ヶ月」
「一ヶ月」
「一ヶ月。長いですか。短いですか」
「分からない。数えないことにした」
「数えない」
「数えない。来たら行く。それだけだ」
「恒一さん。それは悟りですか」
「悟りじゃない。面倒くさいだけだ。数えるのが」
「凛花さんのフレーズですね。面倒くさい」
「工作室の共通言語だ。面倒くさい」
二人で笑った。彩音の家に向かう道。手を繋いだまま。二月の夜。星が柔らかい。風がわずかに温い。春の予感。
卒業まで一ヶ月。
しかし数えない。数えなくてもいい。来たら行く。
翻訳者はいなくなった。工作室は凛花に渡った。ホワイトボードは赤い字で書き直された。
残ったのは高瀬恒一だ。ただの。彩音の隣にいる。手を繋いでいる。考えないで。
それだけで十分だ。
二月の夜。春に近い夜。右手が温かい。




