第44話 不完全な恋人たち
第44話 不完全な恋人たち
付き合い始めて一ヶ月半が経った。
一月の下旬。朝凪の冬が底を打とうとしている。まだ寒い。まだ息が白い。しかし日が少しだけ長くなった。五時の空がわずかに明るい。季節は動いている。
翻訳者の席を閉じてから二週間。最後の大型依頼が完了してから二週間。工作室は凛花が主導している。蒼がデータで支えている。陽太が実行を回している。俺は助言者として隅にいる。隅ですらなくなりつつある。出番が減っている。
出番が減る分だけ、別の出番が増えている。
彩音との時間。
しかし。
ぎこちなかった。
付き合っている。名前で呼び合っている。恒一さん。彩音。毎日帰り道を歩いている。弁当を交換している。週末に一度は会っている。
しかしぎこちない。
「恒一さん。手を繋ぎますか」
日曜日。二人で海沿いの道を歩いていた。一月の海。鉛色。風が冷たい。
彩音が聞いた。手を繋ぐかどうか。
「繋ぐ」
手を出した。右手。
彩音が左手を出した。
手が触れた。冷たかった。彩音の手は冬の空気で冷えていた。俺の手も冷えていた。冷たい手同士が触れた。
「冷たいですね」
「冷たいな」
「温かくないですね」
「温かくない」
二人で歩いた。手を繋いで。冷たい手同士で。三十秒ほど。
「恒一さん」
「ん」
「握り方、分かりません」
「俺も分からない」
「恋人の握り方ってあるんですか。データが」
「蒼に聞くな」
「聞きません。でも握り方が分からない。力の入れ方。指の絡め方。どのくらいの圧で」
「圧の話をするな。論理的すぎる」
「論理的なのは翻訳者も同じです」
「翻訳者はもういない」
「元翻訳者も論理的です。壊れた後も」
手を繋いだまま歩いた。握り方が定まらない。力を入れすぎると痛い。緩すぎると離れる。ちょうどいい圧が分からない。
「恒一さん。天野先輩と真白さんは上手に手を繋いでるんでしょうね」
「陽太はコミュ力お化けだ。手の繋ぎ方もコミュ力でカバーしている」
「コミュ力で手を繋ぐ。面白いですね」
「俺たちにはコミュ力がない」
「ないですね。翻訳力はありますが手を繋ぐ翻訳はない」
「手を繋ぐことを翻訳する必要はない」
「必要はないですが、マニュアルが欲しい」
「久我先生に聞くか。手を繋ぐカウンセリング」
「カウンセリングの範囲外です」
二人で笑った。手を繋いだまま。冷たい手で。海沿いの道で。
ぎこちない。しかしぎこちなさが心地いい。完璧でないことが安心する。工作室の哲学と同じだ。不完全でいい。完全な恋はない。不完全な恋人が不完全な手の繋ぎ方で歩いている。
月曜日。学校。
工作室の放課後ミーティング。凛花が主導。俺は助言者席。隅の隅。
「先輩。三島くんから連絡がありました」
「何て」
「告白するそうです。宮本さんに。今週中に」
三島が動く。最後の翻訳を受け取って。三年間の恋に決着をつける。
「凛花。対応は」
「私と蒼くんでフォローします。先輩は関与しなくていいです。助言が必要なら聞きに行きます」
「いい。任せる」
「ありがとうございます。先輩」
凛花が主導している。三島のフォローを。翻訳者なしで。段階的翻訳と行動記録法で。
陽太が横にいた。真白は新聞部の活動で不在。
「恒一。暇だな」
「暇だ」
「助言者の出番がない」
「ない。凛花と蒼で回っている」
「いいことだろ。引き継ぎの成功だ」
「成功だ。しかし暇だ」
「暇な翻訳者。いや、元翻訳者。いや、助言者。いや、ただの三年生」
「肩書きが多すぎて消去法で何も残らない」
「残るのは高瀬恒一だ。彩音の恋人の」
「それだけか」
「それだけで十分だろ」
ミーティングが終わった。特に議題がなかった。凛花が通常業務を回している。蒼がデータを管理している。陽太が実行面をカバーしている。三人体制が安定している。四人目の助言者は不要になりつつある。
「先輩。一つだけ相談があります」
凛花が帰り支度の途中で声をかけてきた。
「相談」
「引き継ぎの件です。正式な引き継ぎ式をやりたいと思っています」
「引き継ぎ式」
「はい。先輩から私へ。工作室の団長の引き継ぎ。形式的なものですが。ホワイトボードのルールを書き直す式。先輩が消して、私が書く」
「いつやる」
「二月の第一週。卒業式の一ヶ月前。早すぎますか」
「早くない。引き継ぎは段階的にやってきた。九月から。形式的な式は区切りとして意味がある」
「ありがとうございます。もう一つ。ルールを更新したいです」
「更新」
「はい。ver.3のルールを。先輩が作ったver.2を引き継ぎつつ、私の運用に合わせて更新する。受け継ぐけどコピーはしない。ルールも同じです」
「具体的にどう変える」
「まだ考え中です。二月の引き継ぎ式までにまとめます。先輩に提案して、承認をもらいます」
「承認。俺が承認するのか」
「先輩が最後の団長です。最後の団長の承認がなければ、次のルールは正当性を持ちません」
「正当性。大げさだな」
「大げさではないです。工作室は非公式の団体です。正当性の根拠はルールだけです。ルールの変更には前任者の承認が要る。制度と同じです。しかし制度より簡素です。先輩が一人で承認すればいい。会議も投票もない。先輩の言葉一つで」
「俺の言葉一つか」
「一つで十分です」
凛花の設計が正確だった。引き継ぎの正当性。ルールの承認。形式と本質のバランス。参謀が団長になるための準備が着実に進んでいる。
帰り道。彩音と。
「恒一さん。引き継ぎ式があるそうですね」
「聞いていたのか」
「中にいましたから」
「ああ。二月の第一週。ルールの更新もする」
「凛花さんのルール。楽しみですね。どう変わるか」
「分からない。凛花が考えている。俺は承認するだけだ」
「承認する側。先輩は引退する側ですね」
「引退だな。翻訳者を引退して、団長を引退して。残るのは」
「高瀬恒一」
「ああ。高瀬恒一。彩音の恋人。ただの三年生」
「ただの、がいいですね。ただの高瀬恒一。肩書きがない。道具もない。素手の恒一さん」
「素手で何をする」
「何でも。弁当を交換する。手を繋ぐ。帰り道を歩く。おはようと言う。おやすみと言う。全部」
「全部素手か」
「全部素手です。翻訳者の道具なしで。高瀬恒一の手だけで」
火曜日。
三島が宮本に告白した。結果は振られた。予想通り。宮本は橋本が好きだ。三島の告白を受けることはできなかった。
しかし三島は泣かなかった。凛花が報告してくれた。
「三島くんは泣きませんでした。振られると分かっていたから。しかし言えてよかったと言っていました。三年間の恋に区切りをつけられたと」
「三年間の恋は始まっていたか」
「はい。先輩の翻訳通りです。三年間好きでいたこと自体が恋だった。告白は恋のゴールではなく区切りだった。三島くんはそう受け止めています」
「グレーの着地か」
「グレーです。振られた。しかし言えた。三年分の恋に区切りがついた。完全成功ではない。しかし三島くんは自分の足で歩いている」
水曜日。
橋本が中村に「気になっている」と伝えた。告白ではない。気になっている。好きの別名。橋本は翻訳者の言葉を受けて、気になるを好きと認めた。しかし告白の形ではなく「気になっている」と伝えた。橋本のやり方。
中村は「分かった」と答えた。受け入れるとも断るとも言わなかった。分かった。扉があることを確認した。開けるかどうかはまだ決めていない。
凛花の報告。
「橋本くんと中村さんの件。結論は出ていません。しかし矢印が伝わりました。CからDへ。Dが矢印を知った。扉の前に立った。先輩の翻訳通り」
「扉を開けるかどうかは中村が決める」
「はい。工作室は関与しません。扉があることを伝えた。あとは中村さんの問題です」
「宮本は」
「宮本さんは自己観察ノートを書いています。振られた痛みと向き合っている。しかし振り向かれないことは間違いではないと、先輩の翻訳を受け止めています。回復途上です」
四人のケースが動いている。凛花と蒼が主導で。翻訳者は関与していない。助言も求められていない。
木曜日。放課後。
工作室。ミーティング。凛花の報告。蒼のデータ補足。陽太の実行報告。全部が凛花主導で回っている。俺は隅の隅にいた。
「先輩。今日は相談もないです。お帰りになっていいですよ」
凛花が言った。柔らかい声で。しかし明確に。帰っていい。出番がない。
「帰っていいのか」
「はい。先輩が毎日工作室に来る必要はもうないです。助言が必要なときは連絡します。毎日来なくても」
「来なくても」
「来たければ来てください。しかし来なければならない理由はもうないです」
来なければならない理由がない。翻訳者の席は閉じた。団長の業務は凛花に移行した。助言者としての出番もほとんどない。工作室に来る義務がない。
「凛花。寂しいことを言うな」
「寂しいことではないです。引き継ぎの成功です。先輩がいなくても回る工作室。それが先輩と私の目標でした」
「目標は達成したか」
「ほぼ達成しました。二月の引き継ぎ式で完了します」
「ほぼ」
「ほぼです。あと一つだけ残っています」
「何が」
「先輩に承認してもらうルール。ver.3。まだ完成していない。完成したら持っていきます。先輩に」
「待ってる」
「待っていてください。もうすぐです」
帰り支度。工作室を出た。
彩音が廊下にいた。
「恒一さん。凛花さんに帰っていいと言われましたね」
「聞こえていたか」
「はい。中にいましたから。恒一さんが帰っていいと言われた顔。園田先輩を手放したときと同じ顔でした」
「また空洞か」
「空洞です。しかし前と違います」
「何が違う」
「前は空洞が痛かった。今は痛くない。彩音がいるから。恒一さん自身が言った三語目です」
三語目。いるから。彩音がいるから。
「恒一さん。工作室に来なくてもいい日が増えたら、その分、私と過ごす時間が増えます」
「そうだな」
「嬉しいですか」
「嬉しい」
「即答ですね」
「即答だ。翻訳者の脳で考える必要がない。嬉しいは嬉しいだ」
「高瀬恒一の言葉ですね」
「高瀬恒一の言葉だ。翻訳ではなく。本文だ」
帰り道を歩いた。冬の道。しかし日が少しだけ長くなっている。五時でもまだ空に光が残っている。オレンジではなく薄い紫。冬の終わりの光。
「恒一さん。手を繋ぎませんか」
「繋ごう」
手を出した。右手。彩音が左手を出した。
触れた。先週より冷たくない。一月の下旬。少しだけ気温が上がっている。あるいは慣れてきたのかもしれない。冷たい手に。
「恒一さん。先週より上手になっていませんか。握り方」
「なっていない。同じだ」
「同じですか。でも先週より自然に感じます」
「自然か」
「自然です。先週は考えすぎていた。力の入れ方。指の角度。全部考えていた。今日は考えていない。ただ握っている」
「考えていない」
「考えていないのが自然だということです。恋人の手の繋ぎ方は、考えないことで上手くなる。翻訳と逆ですね。翻訳は考えることで精度が上がる。手を繋ぐことは考えないことで精度が上がる」
「精度。手を繋ぐことに精度を求めるな」
「求めません。非合理の領域です」
二人で笑った。手を繋いだまま。冬の帰り道で。
ぎこちない。しかし先週よりマシだ。来週はもっとマシになる。再来週はもっと。三月にはもしかしたら自然に繋げるかもしれない。
不完全な恋人。不完全な手の繋ぎ方。不完全な会話。しかし不完全でいい。工作室が依頼者に渡してきた言葉と同じだ。完全救済は約束しない。完全な恋も約束しない。不完全なまま歩く。揺れながら。ぎこちないまま。
「恒一さん。一つ聞いていいですか」
「聞け」
「付き合って一ヶ月半。恒一さんは私のどこが好きですか」
唐突な質問だった。しかし恋人同士では普通の質問だ。翻訳者の辞書にはない質問。高瀬恒一の辞書にある質問。
「全部」
「全部は答えになっていないです」
「全部だ。壁があった頃の彩音も好きだった。壁がない彩音も好きだ。毒舌の彩音も。知的テニスの彩音も。卵焼きを作る彩音も。泣く彩音も。怖がる彩音も。マフラーに顔を埋める彩音も。全部好きだ。翻訳できないくらい好きだ」
「翻訳できない」
「できない。翻訳者の道具では捉えきれない。精度がゼロだ。ゼロだから全部好きだとしか言えない」
「全部好き。ゼロパーセントの精度で」
「ゼロパーセントの精度で全部好き。非合理だ」
「非合理でいいです。恋は非合理ですから」
蒼のフレーズ。工作室で最も繰り返されたフレーズ。恋は非合理だ。二年間の結論。
「恒一さん。私もどこが好きか聞いていいですか」
「聞け」
「恒一さんのどこが好きか。答えます。翻訳者の恒一さんが好きでした。しかし翻訳者はもういない。今は高瀬恒一が好きです」
「違いはあるか」
「あります。翻訳者の恒一さんは格好良かった。依頼者の前で言葉を渡す姿。分析モードの鋭い目。構造を読む速度。全部格好良かった」
「過去形だな」
「過去形です。もういないから。高瀬恒一は格好良くないです」
「格好良くないのか」
「格好良くない。手の繋ぎ方が分からない。弁当のおかずが唐揚げばかり。帰り道の会話がぎこちない。朝起きたとき隈がある。寝癖が直っていない。全部格好良くない」
「散々だな」
「散々です。しかし格好良くないから好きです」
「格好良くないから好き」
「はい。翻訳者は格好良すぎた。格好良すぎて近づけなかった。四月に批判者として始めたのは、格好良すぎる翻訳者に近づけなかったからです。批判することで距離を保っていた。格好良い人の隣にいるのは怖い。格好良くない人の隣にいるのは安心する」
「俺が格好良くないから安心する」
「安心します。不完全な恒一さんが好き。手が冷たくて、握り方が分からなくて、弁当が唐揚げばかりで。その不完全さが好き」
「不完全な恋人」
「不完全な恋人同士。お似合いです」
お似合い。翻訳者の辞書にない言葉。しかし高瀬恒一の辞書にある言葉。恋人の語彙。四語目かもしれない。お似合い。
「恒一さん。ノートに書きますか。今の会話」
「書かない。ノートは十三行で止まっている。もう書かない」
「書かないんですか」
「書かない。ノートは翻訳者の道具だった。翻訳者の準備だった。翻訳者はもういない。ノートも閉じる」
「ノートを閉じる」
「ああ。本文は声で話す。ノートに書くのではなく。毎日。彩音に。おはよう。おやすみ。卵焼きうまかった。手が冷たい。全部が本文だ。ノートに書かなくても」
「恒一さん。それは恋人の語彙の五語目ですね」
「五語目」
「書かなくても本文。声で話す本文。毎日の本文。ノートがなくても本文は続く」
五語目。書かなくても本文。
恋人の語彙が増えていく。一語目、名前を呼ぶ。二語目、確認し続ける。三語目、いるから。四語目、お似合い。五語目、書かなくても本文。
翻訳者の辞書が凛花に渡された。高瀬恒一の辞書が彩音との間で育っている。
「恒一さん。分かれ道です」
「ああ」
「今日は送ってくれますか。家まで」
「送る」
分かれ道を左に入った。彩音の家の方向。初めて彩音の家まで歩く。
「恒一さん。家に来ますか」
「行かない。今日は」
「今日は」
「まだ早い。付き合って一ヶ月半だ」
「一ヶ月半は早いですか」
「早い。俺はぎこちない恋人だ。手の繋ぎ方も分からない。家に行くのはもっと先だ」
「ぎこちないですね。恒一さん」
「ぎこちない。不完全だ」
「不完全でいい。恒一さんが依頼者に言ってきた通り。完全を目指さない。不完全なまま歩く」
「歩いている。不完全に」
「はい。一緒に」
彩音の家の前に着いた。小さなマンション。三階建て。海からは少し離れている。
「ここです。着きました」
「着いた」
「恒一さん。送ってくれてありがとうございます」
「どういたしまして。翻訳者の辞書にはない言葉だ。どういたしまして」
「恋人の語彙ですね。六語目。どういたしまして」
「六語目か。増えすぎている」
「増えていいです。辞書は増え続けるものです。翻訳者の辞書も二年間で増え続けた。恋人の辞書も増え続ける」
「何語まで増える」
「分かりません。終わりがない。恋が続く限り」
「恋が続く限り」
「続きますよ。恒一さん。不完全でも」
彩音がマンションの入り口に向かった。振り返った。
「おやすみなさい。恒一さん。明日。学校で」
「おやすみ。彩音。明日」
彩音が入っていった。ドアが閉まった。
一人で帰った。彩音の家から自分の家まで。反対方向。遠回り。しかし遠回りが心地いい。送った帰り道。恋人を送った後の帰り道。翻訳者の辞書にはない道。高瀬恒一の初めての道。
冬の夜。星が鋭い。風が冷たい。しかし右手がまだ温かい。彩音の手の温度が残っている。
不完全な恋人。不完全な手の繋ぎ方。不完全な会話。不完全な帰り道。
しかし全部が本文だ。翻訳ではない。設計でもない。高瀬恒一の本文。毎日が本文。声で話す本文。書かなくても続く本文。
帰宅。自室。
ノートは鞄の中にある。開かなかった。十三行で止まっている。もう書かない。
ノートを閉じる。翻訳者の最後の道具を閉じる。
しかし本文は続いている。ノートの外で。声の中で。手の温度の中で。
二月の第一週に引き継ぎ式がある。凛花がルールのver.3を提案する。俺が承認する。最後の団長の仕事。
それが終わったら。本当に何もない。高瀬恒一だけが残る。彩音の恋人だけが残る。
寂しいか。
寂しくない。彩音がいるから。三語目。
嬉しいか。
嬉しい。不完全でも。四語目。
続くか。
続く。書かなくても。五語目。
一月の夜。冬の終わりが近い。春が来る。三月が来る。卒業が来る。
しかし卒業の前に。凛花の引き継ぎ式。ルールのver.3。工作室の世代交代。
翻訳者の最後の最後の仕事が残っている。承認。凛花のルールを承認する。たった一つの言葉で。
その一つの言葉を渡したら。翻訳者は完全に終わる。高瀬恒一だけが残る。
不完全な恋人として。
それでいい。
一月の夜。冬の星。右手がまだ温かい。




