第34話 始める勇気
第34話 始める勇気
十二月に入っていた。
朝凪の海が冬の色になった。鉛色。灰色。光が低い。太陽が傾いている。十二月の太陽は弱い。蝉も虫も消えた。代わりに風の音がある。冷たい北風が海から吹いてくる。校舎の窓がガタガタ鳴る。
工作室の窓を閉めるようになった。夏は開けていた。秋も開けていた。十二月は閉める。閉めても隙間風が入る。旧部室棟は古い。断熱がない。工作室の中で息が白い日がある。
河野のケースは安定に向かっていた。行動記録法が機能している。河野が毎日行動を書いている。朝起きた。学校に行った。授業を受けた。弁当を食べた。友達と話した。
感情の記述はまだ少ない。しかし行動の記録の間に、ぽつりぽつりと感情が混ざり始めている。「今日は笑われている気がしなかった」。「好きだった子と目が合った。痛かったが死なない痛みだった」。凛花が経過を見守っている。
木曜日の放課後。
工作室に来客があった。
二年生の女子。髪をポニーテールにしている。目が大きい。表情が固い。しかし固さの種類が河野とは違った。河野は傷ついた固さだった。この子の固さは、決意の固さに近い。
「恋路工作室ですか。久我先生に紹介されました」
久我からの紹介。河野を笑った側の子。相談室でケアを受けていた。恋愛の問題があると久我が言っていた。
「入ってください。名前を教えてもらえますか」
凛花が前に出た。主導。いつもの配置。
「藤原真帆です。二年です」
藤原真帆。河野の告白を拡散した子。しかし今日ここに来たのは、河野の件ではない。藤原自身の恋愛の問題。
「藤原さん。相談内容を聞かせてください」
「好きな人がいます」
「はい」
「同じ学校の三年生です。でも三年生は三月に卒業します。あと三ヶ月で」
三ヶ月。
卒業。三年生。三ヶ月で離れる。
「好きだと気づいたのは最近です。十一月に。気づくのが遅かった。気づいたときにはもう三ヶ月しかなかった」
「遅かった」
「遅かった。一年生のときから知っていた。でも好きだと思わなかった。ただの先輩だった。文化祭の準備で一緒に動いて、話す機会が増えて、笑顔を近くで見て。そのとき分かった。好きだったんだと。ずっと」
文化祭がきっかけ。河野と同じだ。文化祭は距離を縮める装置でもあり、感情を加速させる装置でもある。
「問題は、告白しても三ヶ月で離れることです。卒業したら先輩は大学に行く。私はまだ高校にいる。付き合えたとしても、三ヶ月後には遠距離になる。遠距離が続くか分からない。始める意味があるのか分からない」
始める意味。三ヶ月しかない。始めても終わりが見えている。始める前に終わりが決まっている恋。
翻訳者の脳が凍った。
前作の日下部のケースが脳裏をよぎった。日下部は遠距離の恋人がいた。距離が関係を壊しかけていた。工作室は日下部に「距離があっても関係は続けられる」と翻訳した。距離の中で関係を維持する方法を設計した。
しかし藤原のケースは日下部とは逆だ。日下部はすでに始まっている関係を距離の中で維持する問題だった。藤原はまだ始まっていない関係を、距離が来ると分かっていて始める問題だ。
維持するのではなく、始める。終わりが見えている中で、始める。
そして。
俺自身の問題と完全に重なっている。
俺は三年生だ。三月に卒業する。彩音に本文を渡す。渡した後、付き合えたとしても、卒業までの残り時間は少ない。卒業したら離れる。大学と高校。彩音は三年生だが、工作室にいる。俺は卒業していなくなる。
始める意味があるのか。三ヶ月しかないのに。始めても終わりが見えているのに。
藤原の問いが俺の問いと完全に重なった。
翻訳者が依頼者に自分を重ねている。逆転移。久我が七月に警告した現象。翻訳者が依頼者に感情を持つと精度が狂う。
しかし今回は逆転移ではない。俺は藤原に感情を持っていない。藤原の問いが俺の問いと構造的に一致しているだけだ。構造の一致。感情の一致ではない。
構造が一致しているとき、翻訳者はどうする。距離を取るべきか。それとも構造の一致を使って、依頼者に届ける言葉を見つけるべきか。
「先輩」
凛花が俺を振り返った。隅の席から。
凛花の目が何かを読んでいた。俺の顔を。翻訳者の顔が変わっていることに気づいている。
「先輩。この依頼、先輩が主導しますか」
凛花が判断を変えた。凛花主導ではなく俺に渡そうとしている。なぜか。
「先輩のほうが適任だと思います」
「なぜ」
「藤原さんの問題は、先輩自身の問題と構造が一致しています。構造が一致しているとき、翻訳の精度が上がることがある。園田先輩のケースで証明されています。壊れた経験を持つ翻訳者は、壊れた依頼者に正確な翻訳ができた」
凛花が俺の構造的一致を読んでいる。参謀が翻訳者の状態を分析している。三冊のノートで。
「しかしリスクもある。構造が一致しているとき、翻訳者が自分の感情を依頼者に投影する。逆転移のリスク」
「リスクは承知しています。しかし先輩の翻訳精度は現在九割近い。園田の副作用からの学習が活きている。量を制限すれば大丈夫です」
「凛花が監督するか」
「します。翻訳量を監督します。出しすぎたら止めます」
「了解した」
椅子を移動した。隅の席から前の席へ。凛花と入れ替わった。翻訳者が前に戻った。一時的に。この依頼のために。
「藤原。俺が対応する。高瀬恒一。三年。工作室の団長だ」
「はい」
「お前の問題を整理する。好きな人がいる。三年生。三月に卒業する。告白したいが、始めても三ヶ月で離れる。始める意味があるか分からない」
「はい。そうです」
「一つ聞く。離れることが問題なのか。それとも始めることが問題なのか」
「え」
「離れることが怖いのか。始めることが怖いのか。どちらだ」
藤原が止まった。五秒。考えている。
「始めること。始めることが怖い。離れることは、始めなければ起きない。始めなければ離れない。だから始めることが怖い」
「始めなければ離れない。その論理は正しいか」
「正しい。始めなければ付き合わない。付き合わなければ別れない。別れなければ痛くない」
「痛くないのか」
「痛くない。たぶん」
「嘘だ」
翻訳者の声が出た。鋭い。自分でも驚くほど鋭い。
「始めなくても痛い。好きでいることが痛い。告白しなくても。付き合わなくても。好きでいるだけで痛い。小野寺がそうだった。好きでいるだけで消えたいと思った。始めなければ痛くない、は嘘だ」
藤原の目が大きくなった。翻訳が刺さっている。
「始めなくても痛い。始めたら別の痛みが来る。離れる痛み。しかしどちらにしても痛い。なら痛みの種類を選ぶしかない。始めない痛みと始める痛み。どちらの痛みが自分に合うか」
「痛みを選ぶ」
「ああ。恋に痛みがないルートはない。全部のルートに痛みがある。しかし痛みの形が違う。始めない痛みは、後悔の痛みだ。あのとき始めていればと思う痛み。始める痛みは、離れるときの痛みだ。しかし始めた記憶がある。一緒にいた記憶がある。三ヶ月分の記憶がある」
「三ヶ月分の」
「ああ。三ヶ月は短い。しかしゼロではない。始めなければゼロだ。始めれば三ヶ月分がある。三ヶ月の記憶は、離れた後にも残る。痛みと一緒に。しかし記憶は痛みより長持ちする」
翻訳者の言葉が出ている。しかし翻訳ではなかった。翻訳者の脳で分析した言葉ではなかった。高瀬恒一の声だった。自分自身の問題と構造が一致しているから。藤原に話しながら自分に話している。
始める意味があるのか。三ヶ月しかないのに。
ある。三ヶ月はゼロではない。始めなければゼロだ。始めれば三ヶ月分がある。
「先輩。それは先輩自身の話ですか」
藤原が聞いた。鋭い子だ。翻訳者が自分自身の問題を語っていることに気づいている。
「俺自身の話でもある」
正直に答えた。素手で。
「俺も三年だ。三月に卒業する。好きな人がいる。始めるかどうか迷っている。三ヶ月しかないのに始める意味があるのか。お前と同じ問いを抱えている」
工作室で翻訳者が自分の恋を語るのは初めてだった。依頼者の前で。凛花がペンを止めた。蒼が窓際から動かなかった。空気が変わった。
「先輩。先輩は始めるんですか」
「始める。始めると決めた。三ヶ月しかなくても。始めなければゼロだから」
「怖くないですか」
「怖い。しかし怖いまま行くと決めた。前に依頼者に言った言葉がある。行動は選べる。怖いまま選べ。俺も怖いまま選んだ」
藤原の目が変わった。翻訳者が同じ問題を抱えている。同じ怖さを持っている。同じ場所に立っている。
「先輩。翻訳者なのに、自分の恋に迷ってるんですね」
「迷ってる。翻訳者は自分のことが一番見えない。他人の恋は翻訳できるが自分の恋は翻訳できない。精度がゼロだ」
「精度がゼロ」
「ゼロ。好きな人の前では翻訳者の脳が止まる。分析が機能しない。設計が描けない。素手になるしかない。素手で向き合うしかない」
依頼者の前で翻訳者が弱さを見せている。前作では考えられなかった。翻訳者は常に冷静で、常に分析して、常に言葉を持っていた。しかし今の翻訳者は自分の恋の前で無力だと認めている。
「藤原。翻訳する。一つだけ」
「はい」
「始めることが怖いのではない。始めた後に離れることが怖いのだ。お前が本当に怖がっているのは始まりではなく終わりだ。しかし終わりを恐れて始まらなければ、何も残らない。三ヶ月の始まりと三ヶ月の終わりの間に、三ヶ月の中身がある。中身を作るかどうかはお前が選ぶ」
翻訳。一つだけ。量を制限して。
凛花がノートに書いている。翻訳量の監視。一つだけ。制限内。
「先輩。三ヶ月の中身って何ですか」
「分からない。始めないと分からない。始めてから見つけるものだ。紅茶の缶を開けないと味が分からないように」
陽太の紅茶。開けなければ分からない。始めなければ分からない。
「先輩。私、告白します」
「いつ」
「年内に。クリスマスの前に。先輩と同じタイミングで」
「俺のタイミングを知っているのか」
「今知りました。先輩もクリスマスの前に始めるんですよね。三年生に」
「ああ。クリスマスの前に。本文を渡す」
「本文って何ですか」
「翻訳ではない言葉だ。俺の辞書にある言葉ではなく、俺自身の言葉。ノートに書いた。十行。それを渡す」
「十行の告白。変わってますね」
「変わってる。翻訳者の告白は変わってる」
藤原が笑った。依頼者が翻訳者と笑っている。翻訳者が自分の恋を語り、依頼者がそれを聞き、二人で笑っている。
「藤原。告白の結果は工作室に報告しなくていい。結果はお前のものだ」
「でも報告します。先輩も告白するんだから。同じタイミングで突っ込む仲間ですよ」
「仲間か」
「仲間です。翻訳者と依頼者だけど、同じ問題を抱えている仲間。同じ場所に立っている」
同じ場所に立っている。俺が久我に言った言葉。依頼者が翻訳者に返している。何度目だ。何人目だ。
「凛花。記録を」
「記録済みです。藤原真帆。二年。好きな人がいる。三年生。三月に卒業。始める意味があるかの問い。翻訳:始めなければゼロ。始めれば三ヶ月分がある。痛みの種類を選ぶ。依頼者は年内に告白すると決定。グレー着地に向かう」
「グレー」
「告白の結果は分かりません。しかし告白すると決めたこと自体が着地です。行動を選んだ」
行動は選べる。小野寺に渡した翻訳。藤原にも当てはまる。恒一にも当てはまる。
「先輩。一つだけ確認です」
蒼が窓際から声を出した。
「藤原さんのケースと、先輩のケースの構造的一致について。翻訳の精度に影響はありましたか」
「影響はあった。構造が一致しているから、依頼者の問いが自分の問いとして響いた。しかし翻訳の精度は落ちていない。むしろ上がった。自分の問題だから、依頼者の痛みが分かった。同じ場所に立っていたから」
「逆転移のリスクは」
「なかった。藤原に対する個人的な感情はない。構造の一致であって感情の一致ではない。志帆のケースとは違う」
「了解です。データとして記録します。構造的一致が翻訳精度を上げるケース。匿名で」
蒼がデータを記録している。安全装置の範囲内で。凛花の承認のもとで。
藤原が帰った。ドアを出ていく背中。来たときよりも軽い。決意の固さが柔らかくなっている。固いまま折れそうだった姿勢が、柔らかく曲がれる姿勢に変わっている。
「先輩」
凛花が俺を見た。
「今日の翻訳、一つだけでした。制限内です。しかし」
「しかし」
「先輩が依頼者の前で自分の恋を語りました。前例がないです」
「前例がない。前作では一度もなかった」
「なかったです。翻訳者は自分を語らない。依頼者の前では。しかし今日先輩は語った。三年生で、好きな人がいて、三ヶ月しかなくて、始めるかどうか迷っている。全部語った」
「語ってしまった」
「語ったことが正しかったと思います」
「正しかった」
「はい。藤原さんは、翻訳者が同じ問題を抱えていると知って、安心した。プロではない。完璧でもない。同じ場所に立っている人間が言葉を渡している。先輩が久我先生に言ったこと。同じ地面の上にいること。今日はそれが最高の形で機能しました」
「素人の覚悟だな」
「はい。怖がりながら前に立った。自分の弱さを見せながら。不完全なまま」
凛花がノートを閉じた。三冊目も閉じた。
「先輩。記録します。高瀬恒一が依頼者の前で自分の恋を語った日。十二月。工作室の歴史の中で初めて」
「大げさだ」
「大げさではないです。翻訳者が仮面を外した日です。工作室の中で。依頼者の前で。それは工作室の転換点です」
帰り支度。廊下に彩音がいた。
「彩音」
「聞こえていました」
「全部か」
「全部です。先輩が藤原さんに自分の恋を語ったこと。三ヶ月しかなくても始める。始めなければゼロ。始めれば三ヶ月分がある。全部」
「恥ずかしい」
「恥ずかしくないです。先輩が依頼者の前で素手になった。翻訳者ではなく高瀬恒一として話した。あれが先輩の本文です。ノートに書いた十行よりも、今日藤原さんに話した言葉のほうが本文でした」
「ノートより」
「はい。ノートは書いた言葉です。今日のは話した言葉です。書いた言葉より話した言葉のほうが生きている。先輩は翻訳者だから、書くほうが得意だと思っていた。でも今日、話すほうが本文だった」
「話した言葉が本文」
「本文は書くものだと思っていました。でも違った。本文は話すものかもしれない。先輩がノートを読み上げるのではなく、先輩が私の前で話す。今日の藤原さんへの言葉のように。素手で。準備なしで。そのまま」
彩音が本文の形式を変えようとしている。ノートの朗読ではなく対話。書いた言葉ではなく話す言葉。
「先輩。ノートを渡すのをやめませんか」
「やめる」
「やめてください。ノートではなく。先輩の声で。私の前で。藤原さんに話したように。素手で」
「ノートに書いた十行は」
「十行は先輩の準備です。準備があったから今日藤原さんの前で話せた。十行が先輩の中にあるから、話す言葉が出てくる。ノートは渡さなくていい。先輩の中にある十行が、話すときに出てくる」
「準備としてのノート」
「はい。渡すのはノートではなく声です。先輩の声」
形式が変わった。ノートの朗読から対話へ。書いた言葉から話す言葉へ。
「彩音。クリスマスの前に。話す。ノートを読まずに。素手で」
「はい。聞きます。素手で」
「怖い」
「怖いです。私も。でも怖いまま行く。先輩が小野寺さんに言った通り」
帰り道。十度目。十二月の夜。星が鋭い。空気が刺す。吐く息が白い。
「先輩。藤原さんに言った言葉。始めなければゼロ。始めれば三ヶ月分がある。あれは先輩自身への翻訳でしたね」
「ああ。自分に言っていた」
「先輩は依頼者に翻訳を渡すたびに、自分の本文を書いている。園田さんに名前のない距離を渡したとき。長谷川さんに存在確認を渡したとき。小野寺さんに居場所を渡したとき。藤原さんに始める勇気を渡したとき。全部、先輩の本文になっている」
「翻訳が本文になる」
「はい。翻訳者が他人のために作った言葉が、自分の本文の素材になる。先輩は二年間、自分の本文を書くための素材を集めていた。知らないうちに」
「知らないうちに」
「翻訳者は自分が一番見えない。だから自分の本文の素材を集めていることにも気づかなかった。でも素材は揃っている。十行のノートに。そして今日の藤原さんへの言葉に」
「揃っている」
「揃っています。先輩。もう書かなくていい。話してください。クリスマスの前に。私に。藤原さんに話したように。自然に。準備なしで」
「準備なしは怖い」
「十行の準備がある。ノートの中に。それが先輩の中にある。準備はもう終わっている。あとは話すだけ」
話すだけ。
翻訳者が翻訳するのではなく話す。高瀬恒一が素手で話す。十行の準備を内側に持って。ノートを開かずに。声だけで。
「分かった。話す。ノートは開かない。声で」
「楽しみにしています」
「怖い」
「怖くていい。怖いまま話してください」
分かれ道。左と右。
「先輩。クリスマスの前。あと二週間くらいですね」
「二週間」
「いつにしますか」
「お前が決めろ」
「私が」
「ああ。俺はいつでもいい。お前が決めてくれ。日にちと場所を」
「場所は工作室がいいです」
「工作室」
「はい。先輩の居場所で。翻訳者の場所で。しかし翻訳者ではなく高瀬恒一として」
「日にちは」
「考えます。連絡します。クリスマスの前に」
「待ってる」
「はい」
彩音が左に。俺が右に。
十二月の夜。冬の夜。星が鋭い。空気が痛い。息が白い。
帰宅。ノートを開いた。十行。
十一行目は書かなかった。もう書かなくていい。十行で準備は終わった。ノートを渡すのではなく話す。声で。
十行のノートを閉じた。鞄にしまった。枕元ではなく鞄に。渡すものではなくなった。準備になった。
始める勇気。藤原に渡した翻訳。俺自身の問題。三ヶ月しかなくても始める。始めなければゼロ。始めれば三ヶ月分がある。
三ヶ月。一月、二月、三月。彩音との残り時間。工作室の残り時間。翻訳者の残り時間。
しかし残り時間を数えるのは本文ではない。残り時間の中身を作るのが本文だ。
話す。彩音に。クリスマスの前に。工作室で。素手で。十行の準備を内側に持って。
翻訳者の最後の仕事。翻訳ではない仕事。話す仕事。
十二月の夜。冬の星。
あと二週間。彩音が日にちを決める。場所は工作室。
翻訳者は待っている。待つことは翻訳者の得意技だ。依頼者が来るのを待つように。ドアを開けて待つように。
しかし今回待っているのは、依頼者ではない。彩音だ。答えをくれる人だ。
本文を話した後、彩音が答えてくれる。約束した。本文を読んだら答えると。読むではなく聞くになったが、約束は変わらない。
答えが怖い。しかし怖いまま行く。
始める勇気。三ヶ月分の勇気。
翻訳者は素手で行く。




