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朝凪高校・恋路工作室 ── 恋愛操作団が愛と願いを叶えます ──  作者: Song1
朝凪高校・恋路工作室 ──最後の翻訳──
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第33話 制度と草の根の握手

第33話 制度と草の根の握手


工作室と恋愛相談室が、初めて同じ方向を向いた。


十二月の第三週。 冬休みまで あと一週間。


久我先生から 連絡が来た。松本くんの面談結果。


『松本くんと 三回面談しました。精神的に不安定な状態は 確認しましたが、自傷のリスクは低いと判断します。「死ぬ」の匂わせは 原田さんを引き止めるための手段として使っていた可能性が高い。 本気の自殺念慮 ではないと評価しています。ただし 別れの際にエスカレートする可能性はゼロではありません。私が待機する形で 進めましょう』


引き止めるための手段。 「死ぬ」を 恋人を繋ぎ止める道具にしていた。本気 ではない。だがゼロではない。 プロの評価。数字ではなく 経験と訓練に基づいた判断。


俺には 出せない判断だ。素人には メンタルの危険度を評価する能力がない。久我先生がいなければ この依頼は動かせなかった。


凛花に共有した。蒼にも。陽太にも。 四人で確認。


「久我先生のGOが出た。 別れの場を 設計する」



木曜日。放課後。


原田を 工作室に呼んだ。最終確認。


原田は 先週より顔色がよかった。久我先生との面談を 原田自身も受けていたからだ。罪悪感の構造を 久我先生が専門的な言葉で整理してくれた。「あなたの責任ではない。彼氏のメンタルは 彼氏の問題です」。プロの言葉。正しい距離からの。


だが プロの言葉だけでは。原田の足は 動かなかった。


「久我先生の言うことは 分かるんです。頭では。私の責任じゃない って。でも 」


「でも ?」


「心が ついてこない。頭で分かっても 心が『裏切り者だ』って」


罪悪感は 論理で消えない。久我先生の正論が 頭に入っても。心の奥底に 「別れたら彼氏を見捨てることになる」という声が残っている。


これが プロの距離の限界だ。正しいことを言う。正確な分析をする。 だが、正しさだけでは 心は動かない。


俺の出番だ。


「原田。 一つ聞く」


「はい」


「お前は 松本のそばにいて 幸せか」


原田の目が 揺れた。


「幸せ ?」


「義務で会ってる と言った。楽しくない と。好きじゃなくなった と。 それは 幸せか」


「......幸せ じゃないです」


「松本は お前がそばにいて 幸せか」


「え 」


「お前が義務で会っている。楽しんでいない。好きじゃない。 その状態のお前が隣にいて 松本は幸せか」


原田は 黙った。


「松本が本当に望んでいるのは 義務で隣にいるお前 じゃない。好きで 隣にいてくれる人間だ。お前が好きじゃないまま隣にいることは 松本にとっても 嘘の中に閉じ込められていることだ」


翻訳。 原田の罪悪感を。別の角度から。


「別れることは 裏切りじゃない。嘘を終わらせることだ。お前が本音を言わない限り 二人とも嘘の中にいる。嘘の関係を続けることのほうが 二人とも傷つく。 別れることは 正直になることだ。自分にも。松本にも」


原田の目が 変わった。


罪悪感 が。形を変えた。「見捨てる」 から。「正直になる」 に。名前が変わった。北村のときと 同じ構造。感情の住所変更。


「嘘を 終わらせる 」


「ああ。 お前の本音は『別れたい』だ。それは 悪いことじゃない。自分の気持ちに正直 であることは。勇気だ。 勇気を出せ。原田」


原田の手が 膝の上で 開いた。握り締めていたのが。 開いた。力が 抜けた。


「先輩 。明日 松本に 会います」


「ああ。 場は 用意してある。本校舎の空き教室。放課後。久我先生が近くにいる。 俺も」


「先輩も ?」


「距離ゼロで。 お前のそばに。 お前が崩れそうになったら 支える。翻訳する。 でも、言葉は お前自身の口から出せ。俺が設計した言葉 じゃなく」


「私 の口 から」


「ああ。 俺が翻訳したお前の本音を お前自身の声で。松本に。 シンプルでいい。『別れたい。ごめんなさい』。 それだけでいい」


「それ だけ」


「それだけ。 理由を長く説明する必要はない。弁解も要らない。 お前の本音は もう翻訳できてる。『別れたい。でもあなたのことは大切だった』。 それが全てだ」


原田は 三秒ほど黙って。 頷いた。深く。


「やり ます」


「やれ。 一人じゃない。工作室と相談室が 両方ついてる」



金曜日。放課後。


本校舎。三階。 使われていない教室。


窓から 冬の空が見えた。灰色。 だが雲の切れ間から。薄い日差しが差し込んでいる。十二月の 弱い光。


教室の中央に 机を二つ。向かい合わせて。椅子を二脚。 原田と松本が向かい合う場。


廊下には 久我先生がいる。教室の外。ドアの近く。 必要なとき すぐに入れる距離。プロの距離。


教室の中には 俺がいる。窓際。少し離れた場所。 原田から見えるが 松本の視界には入りにくい位置。原田が崩れそうになったとき 目で合図が送れる距離。


陽太が 校門で見張りをしている。部外者が近づかないように。


凛花と蒼は 工作室で待機。結果を待つ。


全員が 持ち場についた。


原田が来た。 四時十分。制服。 顔が白い。緊張している。だが 足は止まっていない。歩いている。 自分の足で。


「高瀬先輩 」


「来たか。 松本は もうすぐ来る。久我先生が 面談の名目で呼んでくれている」


「面談 の名目 」


「ああ。 松本は久我先生と面談中。面談が終わったら この教室に来る。久我先生が 『話したいことがある生徒がいる』と伝えてくれる」


原田は 自分の椅子に座った。 手が震えている。膝の上で。


「原田」


「はい 」


「深呼吸しろ。 三回」


原田が 深呼吸した。一回。二回。三回。 手の震えが 少し収まった。


「言うことは 決まってるか」


「はい。 『別れたい。ごめんなさい。 あなたのことは大切だった。でも 今の私は 一緒にいられない』」


「いい。 それでいい。シンプルに。自分の声で」


「自分の 声で」


「俺の声 じゃない。翻訳者の声 じゃない。原田千尋の 声で」


原田が 頷いた。


四時二十分。 廊下に足音が聞こえた。


ドアが 開いた。


松本陸。 三年D組。背が高い。痩せている。 顔色が悪い。目の下にくまがある。久我先生の面談で 何を話したのだろう。表情は 硬かった。だが 壊れそう ではなかった。久我先生の評価通り。不安定 だが。崩壊寸前 ではない。


松本が 原田を見た。


「千尋 ? 何 ?」


原田は 立ち上がった。椅子が軋んだ。


「陸 」


声が 震えていた。だが 出た。声が出た。


「話 したいことがある」


松本の表情が 変わった。何か を予感している。 分かっている のかもしれない。原田の目を見て。原田の声のトーンで。 何を言われるか。


「......何」


「別れ たい」


二文字。 教室に響いた。冬の空気の中で。


松本の目が 開いた。予感 していたのかもしれない。だが実際に聞くと 違う。言葉が 身体に入ってくる感覚は 予感とは違う。


「別れ 」


「ごめんなさい」


原田の声が 震えていた。だが 止まらなかった。


「あなたのことは 大切だった。 付き合えて よかった。でも 今の私は 一緒にいられない。 ごめんなさい」


翻訳 の通りだ。原田の本音。嘘ではない。「大切だった」 本物。「一緒にいられない」 本物。 全部、原田の声で出た。俺の翻訳 ではなく。原田自身の 本文。


松本は 黙っていた。五秒。十秒。 長い沈黙。


教室に 冬の日差しが差し込んでいる。薄い光。 二人の影が 床に伸びている。


「......俺が 嫌いになったのか」


松本の声が 低かった。怒り ではない。もっと 傷ついた声。


原田が 首を横に振った。


「嫌い じゃない。 好きじゃなくなった だけ。 ごめんなさい」


好きじゃなくなった。 残酷な言葉だ。だが 正直な言葉だ。嘘 よりも。


松本の目が 潤んだ。涙が 落ちた。一滴。頬を伝って。


「千尋 がいないと 俺は 」


「陸 」


原田が 一歩前に出た。 だが、触れなかった。手を伸ばしかけて 止めた。触れたら 撤回してしまう。罪悪感に 飲まれてしまう。


俺は 窓際から。原田を見ていた。原田の背中が 震えている。 泣きそうだ。でも泣いていない。堪えている。


原田が 俺を見た。一瞬。目で。 「大丈夫?」 と聞いている。目で。


俺は 小さく頷いた。 「大丈夫だ。お前はやれてる」。


原田が 視線を松本に戻した。


「陸。 私がいなくても。あなたは 大丈夫。 久我先生が 支えてくれる。一人 じゃない」


久我先生の名前。 原田が。自分で。 設計図にはなかった台詞。俺が翻訳していない言葉。 原田自身が。その場で。


松本が 目を閉じた。涙が 両頬を伝っている。


「......分かった」


声が 掠れていた。


「分かった 。千尋。 ごめんな。 俺 重かったよな」


「重く 」


「重かった。 分かってたんだ。千尋が 無理してるの。でも 手放すのが 怖くて」


松本も 分かっていたのだ。原田が好きじゃなくなっていることを。義務で会っていることを。 だが手放せなかった。 依存。


「ごめん 」


松本が 頭を下げた。原田に。 泣きながら。


原田も 泣いていた。声を出さずに。涙が 頬を伝っている。 二人が泣いている。別れの教室で。


俺は 何もしなかった。翻訳しなかった。分析しなかった。 ただ。窓際に立っていた。


翻訳者は 泣いている人間を急かさない。


三分。 長い三分。


松本が 顔を上げた。目が 赤い。だが 壊れていなかった。久我先生の評価通り。 不安定 だが。崩壊 はしない。


「久我先生 に。会いに行く」


松本が 自分から。久我先生の名前を出した。


「面談 してもらう。 一人で 考えるの やめる」


松本が ドアに向かった。開けた。 廊下に 久我先生が立っていた。待っていてくれた。プロの距離で。


松本が 久我先生を見た。


「先生 。少し 話 していいですか」


久我先生が 穏やかに微笑んだ。


「もちろん。 面談室に行きましょう」


久我先生と松本が 廊下を歩いていった。足音が遠ざかる。 プロが。傷ついた生徒を。受け止めに行く。


教室に 原田と俺が残った。


原田は 椅子に座ったまま。泣いていた。声を出さずに。肩が 震えている。


俺は 窓際から。原田の隣に 移動した。距離ゼロ。 椅子に座った。原田の横。


何も言わなかった。 翻訳しない。分析しない。 ただ。隣に。


五分。 原田が泣き止んだ。ティッシュで顔を拭いた。俺が渡した ではなく。自分のポケットから出した。 自分のティッシュで。自分の涙を拭いた。


「先輩 」


「何だ」


「やっと 自分の足で 立てた気がします」


立てた。 半年間。義務で。罪悪感で。松本のそばに 立たされていた。自分の意志 ではなく。罪悪感 に立たされていた。


今 自分の意志で。立った。別れる と。決めて。自分の口で言って。 自分の足で。


「別れるのは 怖かった。でも 怖いまま 動けた」


「動けた のはお前の力だ」


「一人 じゃなかったから。工作室が 場を作ってくれて。久我先生が 支えてくれて。先輩が 隣にいてくれて。 一人じゃなかった」


一人じゃなかった。 二重の安全網。工作室と恋愛相談室。素人とプロ。距離ゼロと正しい距離。 二つが重なって。原田を支えた。


「原田。 お前は強い」


「強く ない です」


「強い。 泣きながら立てる人間は 強い。陽太が 言ってた。泣ける人間は大丈夫 だと」


「泣ける 人間」


「ああ。 泣けるから。回復できる。泣けない人間 のほうが危ない」


原田が 少しだけ笑った。泣いた後の 赤い目で。


「先輩 。ありがとう ございました」


「礼は いらない。お前が自分で やった。俺は隣にいただけだ」


「隣に いてくれただけで 十分 でした」


隣にいるだけ。 それが 一番難しいことだと。彩音が言っていた。 だが今日。隣にいるだけで 人が前に進めることを。見た。


原田が帰っていった。 足取りが 軽くはなかった。重い。 別れは重い。当然だ。半年間の関係を終わらせた。 だが、重いのに 歩いている。自分の足で。設計図 なしで。


ドアが閉まった。


一人になった。 教室。冬の日差しが 最後の光を投げている。


「やった な」


声に出して 呟いた。 原田がやった。松本がやった。久我先生がやった。 全員が。持ち場で。



面談室の前。


廊下で 久我先生を待った。松本との面談が終わるのを。


二十分後。 面談室のドアが開いた。松本が出てきた。目は まだ赤いが。 顔つきが 少し落ち着いていた。久我先生との面談で 何かが整理されたのだろう。


松本は 俺を見た。一瞬。 誰だか分かっていない。原田の友達 だと思っているかもしれない。俺は 何も言わなかった。松本に名乗る必要はない。


松本が 去った。廊下を歩いていく。 一人で。だが 来週も久我先生と面談がある。一人 ではない。


久我先生が 面談室から出てきた。


「高瀬くん」


「久我先生。 松本くんは 」


「大丈夫です。 不安定ですが。崩壊 はしません。来週以降も面談を続けます。必要なら 外部の専門機関にも繋げます」


「よかった 」


「原田さんは ?」


「別れを伝えた。自分の口で。 泣いた。でも 『自分の足で立てた気がする』と」


久我先生が 微笑んだ。 今日の笑顔は いつもと少しだけ違った。プロの穏やかさ だけではなく。共に仕事をした 仲間の。達成感が混ざった笑顔。


「うまくいきました ね」


「うまくいった というか。グレーの着地 です。完全じゃない。松本くんは傷ついた。原田も泣いた。 でも、二人とも自分の足で歩いている」


「グレーの着地 ですか。工作室らしい言い方ですね」


「工作室 の哲学です。完全救済はしない」


「完全救済はしない ですか。 プロのカウンセリングでも 完全な結果は約束できません。その意味で 工作室の哲学は 正直です」


久我先生が 手を差し出した。


握手。 三度目。


「これが 俺たちの新しい形です」


「共存 悪くないですね」


「先生にとっても ?」


「プロにも 隣にいてくれる素人は必要ですから。制度は 正しいことが言える。でも 正しいだけでは 足りない瞬間がある。距離ゼロで隣にいてくれる人間が 必要な瞬間が」


「素人の覚悟 で」


「はい。 素人の覚悟に。プロとして 応えさせてもらいました」


握手の手が 温かかった。三度目。 一度目は条件つきの合意。二度目は覚悟の共有。三度目は 仕事の達成。同じ案件を 共同で完了した。制度と草の根が 握手した。


「高瀬くん。 一つだけ」


「何ですか」


「来年 あなたが卒業した後も。この共同対応の仕組みは 続けたい。柊さんと。星野くんと」


「凛花に 伝えます。蒼にも。 月次の情報共有は 凛花が引き継ぎます」


「ありがとうございます。 工作室の次世代が 楽しみです」


次世代。 久我先生が 工作室の未来を見ている。プロが 素人の組織の未来に 期待している。


「先生。 凛花は 俺より優秀です」


「桐生さんと同じことを 言いますね」


「桐生先輩が先に言ったんです。 俺は追認です」


久我先生が 笑った。穏やかに。 プロの鎧が少しだけ緩んだ、素の笑顔。



工作室に戻った。


凛花と蒼が 待っていた。陽太も 見張りを終えて戻ってきていた。メロンパンを齧っている。


「終わった」


俺が言った。


「原田は 自分で別れを伝えた。松本は 久我先生がケアしている。 共同案件。完了」


凛花がノートに記録した。


「 依頼⑤:原田千尋。完了。彼氏・松本陸との別れ 成立。原田は自分の口で伝えた。松本のメンタルケアは久我先生が継続。久我先生との共同対応 初の成功例。判定:前進」


パタン。


「前進 か」


「前進 です。完全 じゃない。松本くんは傷ついた。原田さんも泣いた。 でも。二人とも 自分の足で歩いている」


「グレーの着地 だな」


「はい。 工作室の いつもの」


蒼が 言った。


「共同対応のデータ 記録していいですか。工作室と相談室の役割分担。対応フロー。 今後の共同案件のために」


「記録しろ。 ただし依頼者の個人情報は除外」


「了解です。 フローだけ。 凛花先輩と一緒に。ver.3の資料 として」


蒼と凛花が 共同対応のフローを記録し始めた。工作室の領域。相談室の領域。連携のタイミング。安全管理。 全部を。ノートとPCで。


陽太が メロンパンを齧りながら。


「恒一。 お前、大人になったな」


「大人 じゃないって。何度も言ってるだろ」


「大人だよ。 去年の恒一なら 一人でやろうとした。久我先生に助けを求めるなんて 思いつかなかった」


「去年は 久我先生がいなかったからな」


「いたとしても 頼まなかっただろ。去年の恒一は。 プライド があったから」


「プライド 」


「翻訳者としての。『俺が全部翻訳する。場を全部設計する。一人で完結する』 っていう。プライドが」


「......あった な。去年は」


「今は ない?」


「ない わけじゃない。でも プライドより 依頼者が大事だ。俺のプライドのために 原田が傷つくのは 本末転倒だ」


「素人の覚悟 ってのは。プライドを捨てる覚悟 でもあるんだな」


プライドを捨てる。 素人であることを認める。できないことはできないと言う。プロに頼る。 全部。プライドを 手放す行為。


「捨てた というか。持ち方が変わった。翻訳者としてのプライドは ある。だが 翻訳者だけで全てを解決するプライドは いらない」


「いい変化 だ」


陽太が メロンパンの最後の一口を放り込んだ。


「恒一。 あと一つだけ。個人的に」


「何だ」


「原田の件 終わったな」


「終わった」


「 なら。お前の番だぞ」


俺の番。 彩音に 「原田の件が終わったら 話したいことがある」と。予告した。


「......ああ」


「いつやるんだ」


「......考える」


「考えるな って」


「感じろ だろ。心臓で。 分かってる」


「分かってるなら やれよ。年内 に」


「年内 !?」


「冬休みに入ったら 会えなくなるぞ。彩音ちゃんと。 年内。あと一週間」


一週間。 冬休み前。あと一週間。


「一週間 は」


「充分だろ。 俺は五日で告白した。お前のほうが半年長く迷ってる。 もう充分迷っただろ」


「充分 」


「充分だ。 メロンパンにかけて」


「かけるな 」


「かけた。 もう 不可逆だ」


不可逆。 メロンパンにかけられた以上。もう 引き返せない。 冗談 だが。冗談じゃない。


「......年内 に。考える」


「考えるなって !」


「考えないで やるのは 俺には無理だ。翻訳者 だから。 でも。考える時間は 短くする。一週間以内に 答えを出す」


「答え じゃなく。行動を。 答えはもう出てるだろ。堤防で。声に出したんだろ」


「......出した」


「なら答えは出てる。あとは 行動 だけだ。シンプルに」


シンプル に。


陽太のシンプルさに 何度。背中を押されただろう。七回目 ではない。もう数えていない。



帰り支度。 工作室を出た。


正門に向かう途中 。


「恒一くん」


彩音が いた。渡り廊下の手前。本校舎の廊下。


「彩音」


「今日の件 見てました」


「見て ? どこから」


「本校舎の三階。 空き教室の向かい側の教室から。窓越しに」


窓越し。 向かい側の教室から。俺たちが 原田と松本の別れの場 を設計した教室の 反対側。彩音は そこから。見ていた。


「声は 聞こえなかったですが。原田さんが泣いて。松本くんが泣いて。 二人とも 帰っていくのが見えた。原田さんは まっすぐ歩いていた。泣いた後なのに」


「まっすぐ 歩いてたか」


「はい。 そして。久我先生が松本くんを連れて 面談室に向かうのも見えた。 工作室と相談室が。別々に動いて。同じ生徒を支えていた」


「共同 対応。初めての」


「見ていて 思いました」


彩音が 俺を見た。


「あなたたち 変わりましたね」


「変わった ?」


「良い方向に。 四月に工作室に来たとき。あなたたちは 一人で全部やろうとしていた。翻訳者が全部翻訳して。場を全部設計して。 一人で完結しようとしていた」


「ああ してた」


「今は 違う。プロに頼れるようになった。自分の限界を認められるようになった。 それは 成長です」


「成長 か」


「はい。 大きな成長です」


彩音の目が 真剣だった。 だがその真剣さの奥に。もう一つ 別の光があった。


「恒一くん。 私も 変わらなきゃ」


「変わる ?」


「はい。 あなたたちが変わったのを見て。私も。 ずっと 壁の中にいた。批判者として。観測者として。 でも もう。壁の中にいる理由が なくなった」


「理由が 」


「工作室が 変わった。善意だけの素人集団 じゃなくなった。プロと組んで。自分の限界を認めて。 私が批判した理由 が。消えていく」


「批判の理由 が消えたら。お前は 」


「批判者 じゃなくなる。 じゃあ。私は 何者 ですか。工作室にとって」


去年 同じ問いを。俺が自分にした。「工作室がなくなったら 俺は何者だ」。彩音が 今。同じ問いを。


「彩音 」


「はい」


「お前は 批判者 じゃない。もう」


「じゃあ 」


「仲間 だと。先週も言った。 でも今日は。もう一つ」


心臓が 速くなった。


言 うのか。今。ここで。 いや。原田の件の直後だ。感情が 高ぶっている。冷静 じゃない。 今は 。


「もう一つ ?」


「......原田の件が 終わったら。話したいことがある と。先週 言った」


「はい。 約束しました。聞くと」


「終わった。 原田の件。今日」


「はい 」


「だから 話 」


止まった。 言葉が。


今 ではない。ここ ではない。廊下 ではない。 原田の別れの直後に。同じ場所で。 別の告白を。するのは 。


「恒一くん ?」


「......ごめん。 今 じゃなくて」


「今じゃ ない?」


「今日 は。原田の日 だ。原田が 勇気を出して別れた日。 その日に 俺が。別のことを 混ぜたくない」


彩音は 三秒ほど黙って。 微笑んだ。


「......律儀 ですね」


「律儀 じゃなくて。原田への 敬意だ」


「敬意 」


「原田が 自分の足で立った日。その日を 大事にしたい。 俺の話は。別の日に」


「分かりました。 別の日 に。 いつですか」


「......冬休み前 に。来週の どこかで」


「来週 」


「屋上で。 いつもの場所で。 待っていてくれるか」


彩音は 頷いた。小さく。


「待って います」


声が 柔らかかった。壁がない声。丁寧語の鎧がない声。 素の 瀬川彩音の声。


「おやすみ 彩音」


「おやすみなさい 恒一くん。 来週 楽しみにしています」


楽しみ に。


彩音が 歩いていった。左の道に。


俺は 右の道に。


堤防沿い。 十二月の夜。星が出ている。 寒い。息が白い。


来週。 屋上で。彩音に。 話す。


翻訳 じゃなく。設計図 じゃなく。 本文で。


「好きだ」 と。


陽太のように。シンプルに。設計図なしで。


あと一週間。


心臓が 速い。怖い。 だが怖いまま動く。工作室の哲学。完全救済はしない。完全な告白も ない。不完全でいい。 不完全なまま。


来週。


屋上で。


海が 暗い。星が 明るい。


十二月の夜空の下で。


翻訳者が 最後の翻訳の準備を始めている。


自分自身の 恋を。


言葉にする 日が。


来る。

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