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朝凪高校・恋路工作室 ── 恋愛操作団が愛と願いを叶えます ──  作者: Song1
朝凪高校・恋路工作室 ──最後の翻訳──
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第32話 依頼⑤:別れたいのに別れられない

第32話 依頼⑤:別れたいのに別れられない


「彼氏と別れたい。でも彼氏が 壊れそうで」。この依頼は、工作室だけでは背負えない。


十二月の第二週。 風邪は二日で治った。金曜に復帰した。


屋上で 彩音と会った。約束通り。風が冷たかった。息が白かった。 だが彩音が「おかえりなさい」と言って。俺が「ただいま」と答えて。それだけで 風邪の間の二日分が埋まった。


凛花と蒼の佐藤依頼は 順調に進んでいた。場の設計とデータ分析で 佐藤の片想いの相手に彼女がいないことが判明。佐藤は 少しずつ距離を縮めている。凛花と蒼の 二人だけの依頼。俺は口を出さない。見守るだけ。


工作室は 冬休み前の最後の数週間。二学期が終わる。 年内に、できることをやる。


そこに 新しい依頼が来た。



水曜日。放課後。工作室。


ドアがノックされた。 強いノック。迷いがない わけではない。迷った末の 決意のノック。


「どうぞ」


入ってきたのは 三年の女子だった。同学年。 面識はないが、顔は知っている。三年A組。原田 という名前だったか。


背が高い。髪がロング。制服がきちんとしている。 だが目が 疲れていた。深い疲労。睡眠不足 だけではない。精神的な消耗。


パイプ椅子に座った。 重力に引かれるように。身体が ここに来るまでに。相当なエネルギーを使い果たしている。


「名前は」


「原田 です。原田千尋。三年A組」


「原田。 何があった」


原田は 三秒ほど黙って。それから 口を開いた。


「彼氏と 別れたいんです」


別れ。 工作室の依頼で「別れたい」は 初めてだった。去年も今年も。告白の設計。片想いの翻訳。叶えない恋の居場所。 全部「始める」方向。「終わらせる」方向は なかった。


「別れたい のか。理由は」


「もう 好きじゃないんです。半年 付き合って。最初は好きだった。でも 今は。 分からなくなった」


「分からなくなった 」


「好きだった気持ちが どこかに行った。いつからか。 気づいたら 義務で会ってた。楽しくなかった。 でも別れられない」


「別れられない のは、なぜだ」


原田の手が 膝の上で握られた。 この仕草を。何度も見てきた。感情を抑えるときの 人間の無意識の動作。


「彼氏が 壊れそうなんです」


壊れそう。


「壊れそう とは」


「最近 精神的に不安定で。学校を休むことが増えて。 私が支えてる みたいになってて。私がいないと って。 私が別れたいって言ったら。彼氏が 」


原田の声が 小さくなった。


「死ぬ って。匂わせるんです。直接は言わない。でも 『お前がいなくなったら生きてる意味がない』 って。 LINEで」


工作室が 凍った。


「死ぬ」 の匂わせ。これは 恋愛の問題ではない。メンタルヘルスの問題が 恋愛に絡みついている。


翻訳者の脳が 警報を出した。赤信号。 この依頼は 工作室の領域を超えている。


「原田。 正直に言う」


原田が 俺を見た。


「この依頼は 工作室の手に余る」


原田の顔が 曇った。


「手に 余る? じゃあ 」


「待ってくれ。 手に余るから断る んじゃない。手に余るから 手を借りる」


「手を 借りる?」


「久我先生 スクールカウンセラーに。相談していいか」


原田の表情が 強張った。


「久我先生 に? でも 彼氏のことが 」


「久我先生には守秘義務がある。お前の相談内容は 絶対に外に漏れない。彼氏にも 伝わらない。 約束する」


「約束 」


「工作室の約束と 久我先生の専門家としての義務。二重の守秘だ。 お前の情報は守られる」


原田は 十秒ほど考えた。 長い十秒。


「......お願い します。 でも、なんで 久我先生に?」


「お前の彼氏が 精神的に不安定で。『死ぬ』を匂わせている。 それは恋愛の問題 だけじゃない。メンタルヘルスの問題が入っている。俺たちは メンタルヘルスの専門家じゃない。素人だ」


「素人 」


「ああ。 素人の覚悟で。恋の翻訳と場の設計はできる。でも 相手のメンタルケアは プロの領域だ。久我先生の。 俺たちだけで扱ったら、お前も。お前の彼氏も。傷つくかもしれない」


原田は 黙って聞いていた。


「工作室ができることは お前の気持ちを翻訳すること。別れの場を設計すること。お前が自分の足で立てるように 支えること。 彼氏のケアは 久我先生に任せる。 役割分担だ」


「役割 分担」


「ああ。 工作室と恋愛相談室。二つで お前を支える。一つじゃない。二つで」


原田の目が 少しだけ、緩んだ。強張りが 溶けた。


「二つ で」


「大丈夫だ。 お前は一人じゃない。工作室と相談室が 両方ついてる」


原田が 頷いた。小さく。 信じるかどうか 迷いながら。だが頷いた。


凛花がノートに記録した。


「 新規依頼。原田千尋(三年A組)。彼氏と別れたいが、彼氏のメンタル不安定で別れられない。 久我先生との共同対応を開始。工作室担当:感情の翻訳と別れの場の設計。久我先生担当:彼氏側のメンタルケア」


パタン。



翌日。 面談室。


久我先生に 連携を依頼した。原田の件。 名前と状況を伝えた。原田の同意は得ている。


久我は 聞いて。頷いた。


「よく判断しました 高瀬くん」


「判断 ?」


「この依頼を 工作室だけで抱えなかったこと。私に連携を求めたこと。 素人の覚悟 でしたよね。素人の限界を知って プロに手を借りる」


「はい。 素人だけでは 彼氏のメンタルを扱えない。扱ったら 壊す」


「その判断が 正しいです。 『死ぬ』の匂わせは 恋愛問題の範疇を超えています。自傷や自殺念慮の兆候がある場合 専門家の介入が必要です。あなたが それを見抜いた」


「見抜いた というか。棲み分けの基準 を。先生と決めたときに。『自傷の兆候がある場合は即座に連絡する』 と。あの基準があったから 判断できた」


「基準 が機能した。共存の仕組みが 機能した。 嬉しいですね」


久我が 微笑んだ。穏やかに。プロの笑顔。 だが今日は そこに「共に戦う仲間」の表情が混ざっていた。


「役割分担 について。提案があります」


「聞かせてください」


「彼氏のメンタルケアは 私が担当します。個別面談を設定して。状況を評価して。必要なら 学校外の専門機関にも繋げます。 これは完全に私の領域です」


「了解です」


「原田さんへの対応 別れの場と言葉の設計。それから 罪悪感の翻訳。これは 工作室のほうが適任でしょう」


「罪悪感の 翻訳」


「はい。 原田さんは 別れたいのに別れられない。理由は 彼氏が壊れるから。言い換えれば 別れることへの罪悪感が、原田さんを縛っている。その罪悪感を 翻訳してあげてください。『別れることは裏切りじゃない。自分を守ることだ』 と」


自分を守ること。 別れが 裏切りではなく。自己保存。


「翻訳 します。原田の罪悪感を。 でも、翻訳だけでは足りない。別れの場 も設計する」


「場の設計 は。どうしますか」


「原田が彼氏に直接会って 自分の口で『別れたい』と言う場を作る。ただし 安全な場を。彼氏がエスカレートしないように。 久我先生のバックアップ付きで」


「バックアップ ?」


「原田が彼氏に会う場所を 学校内に設定する。放課後。 久我先生が近くにいてくれれば。万が一 彼氏が不安定になったとき すぐに介入できる」


久我は 少し考えた。


「......安全管理 としては。合理的ですね。 原田さんが別れを伝える場に 私が待機する。直接介入はしない。でも 必要なとき すぐに出られる位置に」


「はい。 原田のそばには俺がいる。距離ゼロで。 久我先生は 少し離れた場所で。プロの距離で。 二重の安全網」


「二重の 安全網。 初の共同案件ですね」


「初 です。うまくいくかどうかは 分からない」


「分からない ですか。素人の覚悟 で?」


「素人の覚悟 で」


久我が 手帳を開いた。日程を確認している。


「原田さんの彼氏 名前は?」


「原田から 聞いています。三年D組の 松本くん。松本陸」


「松本くん ですね。まず私が 松本くんと個別面談をします。メンタルの状態を 評価します。その結果を踏まえて 別れの場のタイミングを決めましょう」


「了解です」


「高瀬くん。 一つだけ」


「何ですか」


「原田さんに 伝えてください。別れることは 悪いことじゃない。自分を守ることだ と。 それは工作室の言葉で。私の口から 言うより。あなたの口から言ったほうが 届く」


「俺の口 から」


「はい。 同じ年齢の。同じ目線の。 あなたから」


距離ゼロ。 久我先生の正しい距離 では届かない言葉を。素人の危険な距離で届ける。 「素人の覚悟」の実践。


「伝えます」


「お願いします。 では、来週。松本くんの面談結果が出たら 連絡します」


「了解です」


握手 はしなかった。今日は 仕事の打ち合わせだ。握手 は。案件が完了したときに。



放課後。工作室。


四人が揃っている。 陽太も来ている。デートと工作室を うまく切り替えている。真白との交際が 工作室の仕事に影響していない。 さすがだ。天野陽太。公私の切り替え はコミュ力お化けの基本スキル。


「原田の件 共有する」


ホワイトボードの前に立った。 マーカーを持った。


「依頼⑤。原田千尋。三年A組。彼氏・松本陸と別れたい。 彼氏がメンタル不安定。『死ぬ』の匂わせ。 工作室の領域を超える案件。久我先生と共同対応」


書いた。 ホワイトボードに。役割分担も。


「久我先生 彼氏のメンタルケア。面談。評価。必要に応じて専門機関への接続」


「工作室 原田の罪悪感の翻訳。別れの場の設計。当日の同席」


「別れの場 を設計するんですか」


凛花が聞いた。


「する。 原田が自分の口で『別れたい』と言える場を作る。学校内。放課後。久我先生が近くに待機。俺が原田のそばに」


「先輩が そばに?」


「距離ゼロ だ。原田が崩れそうになったとき 支える。翻訳する。原田の本音を 原田自身が言えるように」


「北村の依頼のとき みたいにですか。辞書を見せるだけ」


「ああ。 ただし今回は 見せるだけじゃ足りない。原田の隣に 立つ。物理的に。別れの場で」


蒼が PCを閉じたまま。聞いていた。


「高瀬先輩。 この案件に データは必要ですか」


「今回は 不要だ。データで解く問題じゃない。 原田の罪悪感は 数字で計測できない。彼氏のメンタルは 久我先生の領域だ。蒼の仕事は ない」


「了解 です。 ないなら 見ています。学びます」


「見ていてくれ。 データが不要な案件を データ屋が見る。それも 学びだ」


蒼が 頷いた。


陽太が メロンパンを齧りながら。


「恒一。 重い案件だな。去年 こんなの来たことなかったぞ」


「なかった。 去年は 恋の始まりが多かった。告白。片想い。 今年は 恋の途中と終わりが増えてる」


「成長 したってことか。工作室が」


「成長 というか。棲み分けの結果。一般的な相談は相談室へ。工作室には 制度では対応しにくい高難度案件。 原田の件は その最たるものだ」


「高難度 だな。別れの設計。しかもメンタルケア付き。 去年の工作室じゃ 扱えなかった」


「扱えなかった。 久我先生がいなければ。共存 がなければ。 今でも扱えない」


「共存 が。工作室を大きくしたんだな」


大きくした。 依頼件数は半分に減った。だが 扱える問題の範囲が広がった。プロと組むことで。素人の限界を プロが補完する。プロの届かない距離を 素人が埋める。


「素人の覚悟 で。プロと組む。 これが共存の意味だ」


凛花がノートに記録した。


「 依頼⑤方針確定。共同対応。役割分担 明記。松本くんの面談結果を待って 別れの場を設計。 備考:工作室単独では対応不能と判断。久我先生への連携 迅速。棲み分け基準が機能」


パタン。



帰り支度。 工作室を出た。


廊下を歩きながら 考えていた。


原田の罪悪感。 「別れたら彼氏が壊れる。だから別れられない」。罪悪感が 行動を止めている。


翻訳する。 原田の罪悪感の構造を。


原田は 彼氏を支えている。半年間。 最初は好きだったから支えていた。今は 好きじゃないのに支えている。義務で。罪悪感で。 「支えをやめたら壊れる」という恐怖で。


だが 支え続けることが 本当に彼氏のためになっているのか。


園田の件が 頭をよぎった。俺の設計図が 園田を支えた。だが支えが 依存になった。園田は設計図なしで歩けなくなった。 支えが長すぎた。


原田と彼氏の関係も 同じ構造。原田の支えが 彼氏にとっての「設計図」になっている。原田がいないと生きられない。 それは恋ではない。依存だ。


原田が別れることは 裏切りではない。依存の構造を 断ち切ることだ。


「別れることは 自分を守ること」。久我先生がそう翻訳しろと言った。 その通りだ。原田が自分を守らなければ 原田が壊れる。支え続ける側の バーンアウト。久我先生が最初に指摘したリスク。支援者が 壊れる。


原田は 依頼者であると同時に 支援者だ。彼氏を支えている。 支援者のバーンアウト。久我先生の専門分野。 工作室が扱うべきは、原田の罪悪感の翻訳。そして 別れの場の設計。


別れの場。 どう設計する。


場所。 学校内。放課後。人が少ない場所。だが完全な密室 ではなく。久我先生が近くにいられる場所。


旧部室棟 ではない。工作室のある建物。だが 工作室の中 で別れの話はしたくない。依頼者の場 であって。別れの場ではない。


本校舎の 空き教室。放課後に使われていない教室。 ドアが開けられる。廊下に久我先生がいられる。必要なとき すぐに入れる。


タイミング。 久我先生が松本くんの面談を終えた後。松本くんの状態が 「別れの話を受け止められる」レベルであることを 久我先生が確認してから。


言葉。 原田が言う言葉。「別れたい」。 シンプル。だが原田にとっては 世界で一番重い言葉。


翻訳者として 何をするか。原田の本音を 翻訳する。「別れたい」の中にある 本当の気持ち。「好きじゃなくなった」 ではなく。「自分を守りたい」 ではなく。もっと 正直な。


「あなたのことは 大切だった。でも今は 一緒にいることが苦しい」。 これが原田の本音 だろう。大切だった 過去形。苦しい 現在形。


陽太が告白した言葉。 「好きだ。付き合ってくれ」。シンプル。


原田が言うべき言葉。 「ごめんなさい。もう 一緒にいられない」。シンプル。


翻訳者は 複雑な感情を シンプルな言葉にする。それが 翻訳の本質だ。北村に教えた。名前を変えることが 行動を変える。原田にも。 「罪悪感」の名前を 「自己保存」に変える。「裏切り」の名前を 「正直さ」に変える。


「別れることは 裏切りじゃない。正直に 自分の気持ちを伝えること。 お前がやることは 嘘を終わらせることだ。嘘を続けることのほうが 二人とも傷つく」


そう 原田に伝える。


来週 久我先生から松本くんの面談結果が来る。それまでに 原田の翻訳を完成させる。


堤防沿いの県道を歩いた。 十二月の夕暮れ。四時半で もう暗い。海が 黒い。波の音だけが 聞こえる。


「恒一くん」


振り返った。 彩音。


校門で 待っていたのか。 待っていたのだ。最近 堤防の手前まで。一緒に歩くことが 定番になりつつある。毎日ではない。週に三回ほど。 偶然 のフリは。もうしていない。


「彩音」


「今日 新しい依頼が来たって。凛花さんから 」


「凛花 が。お前にも共有してるのか」


「共有 というか。私が聞いたんです。凛花さんに。 廊下で会って」


「何を聞いた」


「別れの依頼。彼氏がメンタル不安定。 久我先生と共同対応」


「ああ。 そうだ」


「重い ですね」


「重い。 工作室だけでは扱えない」


「だから 久我先生と」


「ああ。 素人の限界を。プロと組むことで 超える」


「共存 の。実践 ですね」


「実践だ。 初の共同案件」


彩音は 少し歩いて。黙っていた。 何かを考えている。


「恒一くん」


「何だ」


「前の学校で 私が壊したAさんの件。 あれも。専門家と組んでいたら 結果が違ったかもしれない」


「......ああ」


「一人で やろうとした。心理学の知識がある から。一人でできる と。 一人でやって 壊した。 あなたは 一人でやらないと決めた。久我先生と 組むと。 それが。正しい」


「正しい かどうかは。結果を見ないと分からない。まだ始まったばかりだ」


「でも 方向は正しい。一人で抱え込まない。 それだけで。私のときとは 違う」


彩音の声に 痛みがあった。微かな。 Aさんの記憶。消えていない。 消さなくていい。痛みと一緒に生きる。


「彩音。 お前の経験が 俺を助けてる。知ってるか」


「私の ?」


「お前がAさんの件を話してくれたから。善意の暴走のリスクを。一人で抱え込む危険を。 全部、お前が教えてくれた。 お前の失敗から俺が学んでる」


「私の失敗 から」


「ああ。 園田の副作用も。蒼の暴走も。 全部、お前の批判から始まってる。お前が工作室を批判しなかったら。善意のリスクに気づかなかった。久我先生と組むことも 思いつかなかったかもしれない」


「私の 批判が」


「お前が 工作室を変えた。批判者として。 そして今は 」


「今は ?」


「仲間 として」


彩音の足が 一瞬止まった。暗い道。海の音。 星が出ている。


「仲間 ですか」


「仲間だ。 工作室のメンバーではないが。 工作室の 隣にいる仲間」


「隣 」


「距離ゼロで。 いつも」


彩音は 五秒ほど黙って歩いた。


「......変な距離 ですね。メンバーじゃないのに。隣にいる」


「名前 がない距離だ。園田に作った『名前のない距離』 みたいに。お前と工作室の距離も 名前がない」


「名前のない 距離。 工作室にとって 私は何ですか」


「何 だろうな。批判者。分析者。元カウンセラー。 全部、肩書きだ。お前が工作室にとって何か は。肩書きでは 言えない」


「言えない 」


「翻訳 できないんだ。お前と工作室の関係を。俺と お前の関係を」


心臓が 速くなった。「俺とお前の関係」と 口から出た。工作室の話 から。個人の話 に。すり替わった。


彩音は 気づいただろう。翻訳者ではなくても 気づく。


「翻訳 できないんですか。あなたが」


「できない。 白いページだ。まだ」


「まだ 」


まだ。 「まだ」は 「いつかはできる」の含意がある。


「恒一くん。 その『まだ』は いつ 」


「分からない。 翻訳者にも」


「分からない ですか」


「分からない けど。近い と思う」


「近い 」


声が 小さくなった。二人とも。 暗い道で。海の音の中で。星の下で。声が 小さくなっていく。大事な話に 近づくほど。


「彩音」


「はい」


「原田の件が 終わったら。 話したいことがある」


「話したい こと」


「翻訳 じゃなく。俺の 本文を。 聞いてくれるか」


彩音は 三秒ほど黙った。


「......聞きます。 いつでも」


「いつでも か。ありがとう」


「事実の 」


「確認じゃないだろ」


「......事実の 確認 でもないです。 約束 です」


約束。 彩音が。俺の本文を 聞く と。約束した。


堤防の分かれ道。 ここで別れる。左と右。


「おやすみ 彩音」


「おやすみなさい 恒一くん。 原田さんの件 うまくいきますように」


「ああ。 うまくいくように。 プロと素人で」


彩音が 左の道に。俺は 右の道に。


歩きながら 振り返らなかった。振り返ったら 止まってしまう。今日の会話の余韻で。


「原田の件が終わったら 話したいことがある」


言った。 予告した。 彩音に。


原田の依頼が終わったら。 本文を。翻訳なしで。設計図なしで。 「好きだ」と。


陽太のように。シンプルに。


言 えるのか。


言う。 言わなければならない。


三月までに。卒業 までに。 時間は限られている。


原田の件を まず終わらせる。久我先生と。共同で。 素人の覚悟で。


それが終わったら 自分の番。


翻訳者が 最後に翻訳するのは。


自分自身の 恋。


海が 暗い。星が 明るい。


十二月の夜道を 歩いた。家に向かって。


心臓が 速い。原田の件の緊張 と。彩音への約束の緊張 と。二つが混ざって。


だが 怖くない。


怖くない のは。一人じゃないから。


工作室がある。凛花がいる。蒼がいる。陽太がいる。久我先生がいる。 そして彩音がいる。


隣に。


全員が 隣にいてくれる。


だから 怖くない。


明日も 工作室が開く。依頼が来る。翻訳する。場を設計する。 日常が回る。


その日常の中で 少しずつ。自分の答えに 近づいている。


近い。 もう。近い。

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