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朝凪高校・恋路工作室 ── 恋愛操作団が愛と願いを叶えます ──  作者: Song1
朝凪高校・恋路工作室 ──最後の翻訳──
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第26話 叶えない恋の居場所

 第26話 叶えない恋の居場所


 小野寺咲良が三回目のノートを持ってきた。


 九月の第三週。木曜日の放課後。空気が変わっていた。蝉がほとんど鳴かなくなった。代わりに秋の虫が昼間から鳴いている。窓から入る風に冷たさが混ざっている。夏服の襟元が寒い。もうすぐ衣替えだ。


 小野寺のノートは三週間分になっていた。一回目は一週間分。二回目も一週間分。今日で三週間分。ページの字が変わっていた。一週目は硬い字だった。正しいことを書こうとしている字。二週目は少し崩れた。正しさを手放し始めた字。三週目の字は丸い。自分の言葉になっている字。


 凛花がノートを受け取った。主導権は凛花にある。俺は後ろの席。バックアップ。陽太が隣。蒼が記録補助。


 彩音が工作室の中にいた。椅子を一つ追加して、隅に座っている。壁のない顔。面談中は発言しない。観察者として。


「読みます。三週目の記録」


 凛花が声に出して読んだ。小野寺の言葉をそのまま。


「月曜。『好きな人と廊下ですれ違った。彼女と手を繋いでいた。手を繋いでいる姿を見て、きれいだと思った。二人の関係がきれいだと思った。嫉妬ではなかった。きれいだと思えたことに驚いた』」


「火曜。『授業中に好きな人の後ろ姿を見ていた。黒板を見ているふりをして。後ろ姿を見ているとき、私は幸せだった。告白しなくても、付き合えなくても、後ろ姿を見ているだけで幸せだった。これはおかしいのだろうか』」


「水曜。『友達に好きな人がいることを話した。初めて。友達は驚かなかった。知ってたよ、と言った。顔に出てるよ、と。恥ずかしかったけど楽になった。秘密じゃなくなった。秘密じゃなくなっても好きは変わらなかった』」


 凛花がノートを閉じた。小野寺に返した。


「小野寺さん。三週間ノートを書いてみて、何か気づいたことはありますか」


「はい。一つ」


「聞かせてください」


「好きでいること自体は悪くないかもしれない、と思い始めました」


 小野寺の声が変わっていた。三週間前とは違う。硬さが消えている。罪悪感で固まっていた声が柔らかくなっている。


「最初の一週間は、好きなことが罪だと思っていました。彼女がいる人を好きなのは間違いだと。二週目から少しずつ変わった。好きなことと行動することは別だと気づいた。好きでいるだけなら、誰も傷つかない」


「好きでいるだけなら」


「はい。告白すれば傷つける。二人の関係を壊す。でも告白しなければ、好きでいるだけなら、私の中だけの問題です。誰にも迷惑をかけない」


 凛花がペンを止めた。考えている。参謀が次の質問を組み立てている。


「小野寺さん。告白しないと決めましたか」


「決めました。しない。彼女がいる限り。二人の関係を壊すようなことはしない」


「その決断は正しいと思いますか」


「正しいかどうかは分かりません。でも自分で選びました。応援するのでも諦めるのでもない。好きなまま、行動しない。三つ目の選択肢です」


 三つ目の選択肢。先週凛花が見つけたもの。しかし小野寺自身がそれを選んだ。三週間のノートを通じて。自分の言葉で。


 ここで俺の翻訳者の耳が反応した。後ろの席で。自動で。


 小野寺は三つ目の選択肢を選んだ。しかしその選択肢には名前がない。好きなまま行動しない。それは何と呼ぶ。応援でも断念でもない。保留でもない。


 翻訳したかった。名前をつけたかった。しかし俺はバックアップだ。凛花が主導している。


 凛花が俺を振り返った。目が合った。凛花の目が「先輩、ここで一つだけ翻訳してもいいですか」と聞いていた。


 小さく頷いた。


「小野寺さん。団長の高瀬から一つだけ」


「はい」


 椅子から身を乗り出した。後ろの席から一歩だけ前に出た。


「お前が選んだ三つ目。好きなまま行動しない。それは居場所を作ることだ」


「居場所」


「好きという感情に居場所を作った。告白する場所でもない。諦める場所でもない。好きという感情がただ存在していい場所。お前の中に。お前のノートの中に」


 翻訳。一つだけ。量を制限して。


 小野寺の目が変わった。翻訳が届いている。


「居場所」


「ああ。好きでいることは悪くない。お前が三週間かけて気づいたことだ。しかし好きでいるためには場所が要る。感情が存在する場所。お前のノートがその場所だ。毎日好きと書いた場所。好きという感情が許される場所」


「ノートが居場所」


「ああ。告白しなくても、付き合えなくても、好きでいることに居場所がある。居場所がある限り、好きでいられる。居場所がなければ、好きは行き場を失って苦しくなる」


 小野寺が自分のノートを見た。三週間分の字。硬い字から丸い字へ。変化の記録。好きという感情の居場所。


「先輩。これが工作室の答えですか」


「答えではない。設計だ。しかし設計の中身を埋めるのはお前だ。居場所を作ったのはお前自身だ。俺はそれに名前をつけただけだ」


「名前」


「居場所。お前の恋の居場所。叶えなくていい恋の居場所」


 叶えなくていい恋。


 工作室が今まで扱ってこなかった領域だ。藤川も水谷も園田も日下部も森本も白石も長谷川も、全員の恋には行動があった。告白する。距離を縮める。無害化する。しかし小野寺の恋は行動しない。告白しない。距離を縮めない。好きなまま、そこにいる。


 行動しない恋に居場所を作る。それが工作室の新しいアプローチだ。凛花が先週LINEで言っていた通り。


「先輩。もう一つだけ聞いていいですか」


「聞け」


「好きでいることに居場所がある。それは分かりました。でも、いつまでですか。居場所はいつまで有効ですか。卒業したら。社会人になったら。十年後も好きでいるんですか」


「それはお前が決める」


「私が」


「ああ。いつまで好きでいるかは、お前が決める。一年かもしれない。十年かもしれない。明日終わるかもしれない。工作室は期限を設定しない。完全救済も約束しない。お前の恋にタイムリミットを設けるのはお前だけだ」


 小野寺が黙った。十秒。蝉の代わりに虫の声が窓から入ってきた。九月の虫。秋の予兆。


「分かりました。タイムリミットは自分で決めます。でも今は決めない。今は好きでいる。居場所を持って」


「十分だ」


 凛花が前に戻った。


「小野寺さん。工作室としてはここで区切りにします。ノートは続けてください。居場所として。来たいときはいつでも来てください。しかし定期面談は今日で最後です」


「最後ですか」


「はい。あなたはもう自分で歩けています。ノートを書ける。友達に話せる。好きでいることに居場所を作れた。工作室の仕事は終わりです」


「凛花さん。ありがとうございました」


「高瀬先輩にも」


「ありがとうございます。居場所という言葉、忘れません」


 翻訳一つ。居場所。園田に渡した「名前のない距離」、長谷川に渡した「存在確認」に続く、三つ目の翻訳。一つだけ渡して、残りは依頼者に委ねる。


 小野寺が帰った。背中がまっすぐだった。来たときから姿勢は良かったが、今日の背筋には決意ではなく安心がある。居場所を持って帰る背中。


 四人と彩音が残った。


「先輩。グレーの着地です」


 凛花がノートに書いていた。


「告白しない。諦めない。好きなまま行動しない。叶えない恋に居場所を作る。完全救済ではない。しかし小野寺さんは自分の足で立っている」


「凛花。主導どうだった。三回の面談を通して」


「一回目はがちがちでした。二回目は少し慣れた。三回目の今日、先輩に翻訳を一つだけ許可するタイミングを判断できた。翻訳を出す場面と出さない場面の区別ができた。成長しました。たぶん」


「たぶん、じゃない。確実にだ」


「ありがとうございます。しかし先輩がバックアップにいなかったら、二回目で翻訳を出しすぎていたかもしれません」


「次は一人でもできる」


「次はまだ自信がない。でもやります」


 蒼が窓際にいた。


「小野寺さんのケースをデータ化していいですか。匿名で。凛花先輩の承認のもとで」


「何をデータ化する」


「面談回数と依頼者の自己観察ノートの記述量の相関です。面談が進むにつれて記述が変化するパターン。硬い字から丸い字への変化。定量化は難しいですが、記述の長さと感情語の出現頻度は数値化できます」


「匿名なら。凛花、いいか」


「いいです。個人特定につながらない範囲で。蒼くん、字の硬さは数値化しないでね。それは私の主観的観察であって、データではないです」


「了解です。主観と客観の境界を守ります」


 蒼と凛花。安全装置が自然に機能している。提案と承認のサイクル。先月の衝突から一ヶ月。関係が修復を超えて深化している。


「恒一」


 陽太が腕を組んでいた。


「叶えない恋の居場所。小野寺に渡した翻訳。あれ、お前自身にも当てはまるだろ」


 心臓が動いた。


 翻訳者が自分の翻訳に翻訳される。園田のときもそうだった。陽太のときもそうだった。俺が他人に渡した言葉が、俺自身に返ってくる。


「当てはまる」


「お前の恋にも居場所が要る。翻訳不能な感情の居場所。名前がつかないまま存在していい場所」


「ああ。要る」


「あるのか。居場所」


 考えた。三秒。


「ある。工作室だ」


「工作室」


「俺の恋の居場所は工作室だ。彩音がここにいる。俺もここにいる。同じ場所に。名前のない感情が存在していい場所。告白しなくても。翻訳できなくても。ここにいる限り、彩音の近くにいられる」


 陽太が俺を見た。コミュ力お化けの目。二年間の友情で鍛えられた目。


「恒一。それは小野寺と同じだぞ。好きなまま行動しない。居場所に安住する」


「分かっている」


「分かっているのか。お前は小野寺に居場所を作ってやった。しかし小野寺は高校二年だ。時間がある。お前は三年だ。三月に卒業する。卒業したら工作室はない。居場所がなくなる」


 陽太の指摘が正確だった。翻訳者の恋の居場所は工作室。しかし工作室は三月でなくなる。卒業したら翻訳者は工作室を手放す。居場所ごと手放す。


 小野寺にはタイムリミットを自分で決めろと言った。俺のタイムリミットは三月だ。卒業。自動的に。


「紅茶を開けろ。前にも言った」


「分かっている」


「分かっているなら動け。卒業までにあと半年だ」


「半年ある」


「半年しかない。お前が小野寺に言ったこと、俺がお前に返す。タイムリミットは自分で決める。しかしお前の場合、卒業というタイムリミットが勝手に来る。待っていても来る」


 陽太の翻訳。友達の翻訳。翻訳者には見えない自分の構造を、友達が照らしている。


「分かった。動く。しかし今日じゃない」


「いつだ」


「分からない。しかし卒業までに。本文を書く。凛花に約束した。彩音にも言った。書く」


「書け。俺は紅茶を開けた。次はお前の番だ」


 陽太が笑った。コミュ力お化けの笑い。真白と紅茶を飲んで以来、陽太の笑いに余裕が増えている。自分の恋が動き始めた人間の余裕。


 帰り支度。


 五人で工作室を出た。四人と彩音。廊下で別れた。陽太と蒼と凛花が先に帰った。空気を読んで。


 俺と彩音が残った。廊下。


「一緒に帰るか」


「はい」


 二度目の帰り道。海沿い。九月の夕暮れ。先週と同じ道。しかし季節が少しだけ進んでいる。空気が冷たくなっている。風が乾いている。


「彩音」


「はい」


「今日の面談。中から見ていてどうだった」


「凛花さんが上手でした。先輩の翻訳を出すタイミングの判断が正確だった。一回目と二回目は出さない。三回目で一つだけ出す。あの判断は翻訳者にはできない。記録者だからできる判断です」


「俺にはできないか」


「できません。先輩なら一回目で三つ翻訳しています。園田さんの前の先輩なら」


「園田の前か。そうだな。翻訳しすぎていた」


「今は量を制限できている。でも凛花さんのほうが上手です。翻訳を出さないことにおいては。先輩は翻訳したがる。翻訳者だから。凛花さんは翻訳しない人だから、出さないことが自然にできる」


「翻訳しない人のほうが、翻訳の使い方が上手い」


「皮肉ですね。でもそういうものです。包丁を持っていない人のほうが、包丁を使うタイミングが分かる。持っている人は使いたくなるから」


 彩音の比喩が鋭かった。翻訳は包丁。持っていれば使いたくなる。持っていない凛花のほうが、使うべき瞬間を見極められる。


「先輩。小野寺さんに渡した居場所。あれは先輩自身の翻訳でもありましたね」


「ああ。陽太にも言われた」


「陽太先輩は何と」


「俺の恋の居場所は工作室だと言ったら、小野寺と同じだと。居場所に安住するなと。卒業がタイムリミットだと」


「正しい指摘です。先輩の恋の居場所が工作室なら、卒業と同時に居場所がなくなる」


「ああ」


「新しい居場所が要ります。工作室の外に。卒業した後にも残る居場所」


「新しい居場所」


「はい。工作室は場所です。物理的な場所。旧部室棟の一室。卒業したらなくなる。しかし恋の居場所は物理的な場所でなくてもいい」


「物理的でない居場所」


「言葉です。本文です。先輩が書く本文が、先輩の恋の居場所になる。書かれた言葉は卒業しても消えない。ノートの中に残る。小野寺さんのノートが小野寺さんの居場所であるように」


 本文が居場所になる。


 翻訳者が書く本文。翻訳ではない言葉。設計でもない言葉。高瀬恒一の言葉が、高瀬恒一の恋の居場所になる。


「書けるか。本文を」


「まだ一行目だけだ。前を見たら彩音がいる。それが一行目。二行目以降はまだ白紙だ」


「白紙でいいです。白紙に一行目がある。あとは書くだけ」


「書くだけ。簡単に言うな」


「簡単ではないです。でも先輩はもう書き始めている。今日の小野寺さんへの翻訳。居場所。あれは小野寺さんへの翻訳であると同時に、先輩自身の本文の一部です」


「俺の本文」


「はい。他人に渡した翻訳が自分に返ってくる。園田さんのときもそうだった。翻訳者の言葉が翻訳者自身を照らす。先輩が小野寺さんに居場所を渡したとき、先輩自身が居場所を必要としていることに気づいた。翻訳が本文になった瞬間です」


 翻訳が本文になる。他人への翻訳が、自分の本文の素材になる。翻訳者が二年間蓄えてきた翻訳の全部が、本文の材料として使える。


「先輩。面白いですね。翻訳者という仕事は」


「面白い、か」


「面白い。他人の恋を翻訳していたら、自分の恋の言葉が集まっている。園田さんに名前のない距離を渡した。長谷川さんに存在確認を渡した。小野寺さんに居場所を渡した。全部、先輩自身の恋にも当てはまる言葉です。名前のない感情。存在の確認。居場所。先輩の恋の辞書は、他人の恋を翻訳することで出来上がっていた」


 俺の恋の辞書。他人の恋を翻訳する過程で、自分の恋の語彙が蓄積されていた。翻訳者が知らないうちに。


「しかし辞書があっても本文が書けない」


「辞書があるなら書けます。一行ずつ。先輩がやるべきことは、辞書を開いて、自分の感情に当てはまる言葉を探すこと。他人に渡した言葉の中から、自分にも当てはまるものを見つけること。借用ではなく。自分で見つけること」


「園田と同じだ。借用ではなく自分で見つける」


「はい。先輩は翻訳者です。翻訳者が自分を翻訳する。それは翻訳の中で一番難しい。でも辞書は揃っている。あとは書くだけ」


「書くだけか」


「書くだけです」


 二人で笑った。海沿いの道。九月の夕暮れ。空がオレンジから紫へ。虫の声が増えている。秋が深まりつつある。


 分かれ道に来た。先週と同じ場所。左と右。


「では。また明日」


「明日。工作室で」


「中に」


「中に」


 彩音が左の道に入った。振り返った。手を振った。


 俺も振り返った。手を振った。


 彩音が歩いていった。


 一人で右の道を歩いた。


 居場所。


 小野寺に渡した言葉。叶えない恋に居場所を作る。行動しなくても好きでいられる場所。


 俺の居場所は工作室だ。陽太が指摘した通り。工作室に彩音がいる。俺もいる。翻訳不能な感情が存在していい場所。


 しかし工作室は三月に終わる。居場所がなくなる。


 だから本文を書く。本文が新しい居場所になる。工作室がなくなっても、書かれた言葉は残る。


 辞書は揃っている。彩音が言った通り。名前のない距離。存在確認。居場所。全部、他人に渡した言葉。全部、俺自身にも当てはまる。


 名前のない感情。存在を確認したい相手。居場所を共有したい人間。


 全部、彩音だ。


 翻訳不能。しかし翻訳不能であること自体が、翻訳者の辞書に載っている。翻訳できない感情がある。それを見つけるたびに世界が広くなる。前作のテーマ。


 翻訳不能な感情は恋だ。陽太が言った。翻訳できない感情が恋じゃないのかと。


 恋。


 その一語が。


 本文の二行目かもしれない。


 帰宅。窓を開けた。九月の夜。虫の声。潮の匂い。星が増えている。秋の星。


 ノートを開いた。白紙のノート。小野寺のノートとは違う。俺のノート。


 一行目。「前を見たら彩音がいる」。先週、彩音に言った言葉。


 二行目。


 ペンを持った。手が震えていた。翻訳の震えではない。本文の震え。


 二行目を書いた。


「翻訳できない。しかし感じている」


 二行目。翻訳不能の告白。翻訳者が翻訳できないと認めた。しかし感じている。


 恋、とは書かなかった。まだ。名前はまだつけない。しかし感じている。それは書けた。


 二行だけのノート。白紙のページが残っている。三行目以降は。


 まだ白紙だ。しかし二行ある。一行より多い。


 九月の夜。虫の声。海の音。


 スマホが光った。凛花。


『先輩。久我先生からフィードバックが来ました。小野寺さんのケースについて。久我先生は「居場所」というアプローチを高く評価しています。臨床心理学では「感情の正当化」と呼ぶ手法に近いそうです。感情を否定せず、存在する権利を認める。先輩が直感でやったことを、プロの用語で名前をつけてくれました』


 感情の正当化。久我がプロの名前をつけた。翻訳者が「居場所」と呼んだものを、臨床心理士が「感情の正当化」と呼ぶ。同じものに違う辞書で名前をつけている。制度の言語と草の根の言語。


『もう一つ。久我先生が言っていました。「好きでいること自体は間違いじゃない。でも行動は選べる」。小野寺さんが自分で辿り着いた結論を、久我先生もプロとして支持しています。相談室と工作室で同じ結論に至ったことは、共存の証拠だと』


 好きでいること自体は間違いじゃない。でも行動は選べる。


 久我の言葉。プロの言葉。しかし同じことを小野寺が自分のノートに三週間かけて書いた。同じことを凛花が面談で引き出した。同じことを俺が「居場所」と翻訳した。


 全員が同じ場所に辿り着いている。プロも素人も。制度も草の根も。辞書が違うだけで、答えは同じ。


『凛花。いい報告だ。久我先生にお礼を伝えてくれ。四原則の三番目が機能している。非公式の情報交換。良い流れだ』


『はい。先輩。もう一つだけ。三冊目のノートに書いたことです。小野寺さんのケースで凛花がやったこと。翻訳なしで三回面談を主導し、三回目にだけ先輩の翻訳を一つ入れた。この方法を「段階的翻訳」と名付けます。凛花式の手法として記録します』


 段階的翻訳。凛花が自分の方法に名前をつけた。翻訳者の翻訳とは違う方法。記録者が主導し、必要なときにだけ翻訳者の翻訳を差し込む。凛花の工作室の形。


『いい名前だ。記録しろ。お前の手法として』


『はい。受け継ぐけど、コピーはしません。先輩の方法をベースに、私の方法を上書きします。借用ではなく自分のものとして』


 凛花が園田の語彙を使っている。借用ではなく自分のもの。工作室の語彙が世代を超えて循環している。


 九月の夜。虫の声。星。潮の匂い。


 叶えない恋に居場所を作る。小野寺に渡した翻訳。


 俺の恋にも居場所を作る。工作室ではない居場所。本文という居場所。


 ノートに二行。三行目はまだ白紙。


 しかし二行書けた。白紙に二行の言葉がある。それだけで、ノートの重さが変わった。


 好きでいること自体は間違いじゃない。でも行動は選べる。


 小野寺は行動しないことを選んだ。俺は。


 俺の選択は小野寺とは違う。俺は行動する。本文を書く。彩音に向けて。卒業までに。


 行動しないことを選ぶのも勇気だ。行動することを選ぶのも勇気だ。どちらが正しいかは分からない。しかしどちらも自分で選んだ。それが大事だ。


 九月の夜。折り返しから一歩進んだ夜。


 翻訳者は歩いている。ノートを持って。二行分の本文を抱えて。

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