第25話 半分の工作室
第25話 半分の工作室
恋愛相談室と工作室は、共存することになった。 でも共存は、半分になることでもある。
十月の半ば。 金木犀が散り始めていた。オレンジの花びらが地面に敷き詰められて 甘い匂いが残っている。空気が冷たくなった。朝、息が白くなる日が増えた。海が 秋の深い紺から、冬の手前の暗い青に変わりつつある。
久我先生との共存合意から 二週間が経った。
棲み分けの基準が 学校の掲示板に告知された。久我先生が作成した 公式の文書。
「恋愛に関する相談窓口のご案内。①恋愛相談室 スクールカウンセラーが対応。対人関係全般、メンタルヘルスに関わる悩み、制度的支援が必要なケース。②恋路工作室 生徒同士の支援。恋の悩みの言語化、関係性の設計支援、同じ目線での対話を希望する方」
二つの窓口が 並んで記載されている。公式と非公式。プロと素人。 並列。
「これ 工作室が公式に認められたってことですか?」
蒼が掲示板を見ながら言った。
「認められた というか。存在を 公式に記載された。学校が。工作室の存在を」
「大きくないですか それ」
「大きい。 桐生先輩が二年間やっても得られなかった 公的な認知だ」
凛花が ノートに記録していた。
「 恋路工作室、学校の公式掲示板に初掲載。恋愛相談室との棲み分け告知文書に 窓口②として記載。非公認活動が 準公認の位置づけに」
パタン。
「準公認 ですか」
「正式な公認ではない。部活動登録はしていない。顧問もいない。 だが、学校が存在を公式に記載した。これ以上の認知度向上はない」
蒼の 認知度向上の提案が。暴走という形ではなく 久我先生との共存合意を通じて。正規のルートで 実現した。
「蒼」
「はい」
「認知度 43%から。もう少し上がるかもしれない。掲示板を見た生徒が 知ってくれる」
「はい。 SNSで宣伝するより 公式掲示板のほうが信頼性が高い。 僕が暴走したやり方じゃなく。正しいルートで」
蒼の声に 自嘲が混ざっていた。暴走の記憶。 だがそれは 反省であって。自罰ではなかった。学んだ人間の声。
「結果オーライ じゃないですよ。蒼くんの暴走が正しかったわけじゃない」
凛花が 釘を刺した。参謀として。
「分かっています。 方法が違った。でも 工作室を知ってもらいたかった気持ちは 間違っていなかった。方法だけが間違っていた」
「方法だけ ね。了解です」
凛花と蒼のやり取りが 変わっていた。蒼の暴走の前と後で。 険しさが消えた。代わりに 率直さが増した。蒼が間違えたとき凛花が止めた。凛花が止めたから蒼が考えた。考えて戻ってきた。 その経験が、二人の間に 言葉にならない信頼を作っている。
放課後。工作室。
月次報告。 凛花がノートを開いた。
「十月第一週から第二週まで。新規依頼 三件」
三件。 先月は二件だった。微増。だが去年の同時期 六件には遠い。
「内訳。一件目 二年男子。好きな人と同じ部活で告白のタイミングが分からない。恒一先輩が翻訳と場の設計。完了。グレーの着地 告白を保留し、部活引退後に改めて考えると決めた」
「二件目 一年女子。友達に恋愛感情を持ってしまった。同性同士。工作室で翻訳。 蒼くんのデータ分析は使わず。感情の言語化のみで対応。完了。前進 感情を受け入れて、友達として関係を続けると決めた」
同性への恋。 去年は来なかった種類の依頼。工作室が準公認になったことで 今まで相談できなかった人間が来るようになっている。
「三件目 進行中。二年女子。片想いの相手が転校するかもしれない。距離の設計が必要。来週 続き」
「相談件数 回復はしていません。でも 来てくれる人の 」
凛花が 少し考えて。言葉を選んだ。
「『工作室じゃなきゃダメ』度は 上がっています」
「工作室じゃなきゃダメ度 ?」
「はい。 恋愛相談室でも対応できる一般的な相談は そっちに流れた。工作室に来るのは 恋愛相談室では対応しきれない人。個別の事情が複雑で。一般論では届かなくて。 同じ目線の翻訳が必要な人」
「フィルタリング されてるんですね」
蒼が言った。
「恋愛相談室がフィルターの役割を果たしている。一般的な相談はそちらが吸収して 工作室には『高難度案件』だけが来る。 結果として、一件あたりの翻訳の難易度が上がっている」
「高難度 か」
「はい。 同性への恋。転校による距離の変化。 去年は来なかったカテゴリです。棲み分けの結果 工作室の専門性が上がっている」
蒼のデータ的な分析が 的確だった。棲み分けは 工作室の依頼件数を減らしたが、依頼の質を上げた。量より質。 数じゃない。
「それでいい」
俺が言った。
「数じゃない。 必要としてくれる人に。全力で応える。件数が半分になっても 一件の重みが倍になったなら。工作室の総量は変わらない」
「総量 ですか」
「ああ。 半分の件数。倍の密度。 掛けたら同じだ」
陽太が メロンパンを齧りながら。にやっと笑った。
「恒一。 半分でいいって。去年の春のお前なら 言えなかったな」
「去年は 数を追ってた。多いほどいい。多く助けるほど 工作室の価値が上がると思ってた」
「今は ?」
「半分でいい。半分が 俺たちの全力だ。全力で 半分。 それが素人の覚悟の、具体的な形だ」
半分の工作室。 去年の半分の依頼件数。だが 一件一件に注ぐ翻訳の密度は、去年以上。
凛花がノートに記録した。
「 方針確認。『半分の件数、倍の密度』。工作室の新しい指標として記録」
パタン。
昼休み。屋上。
いつもの 定位置。フェンスの影。十月の風が 冷たい。コンクリートも冷えている。 だが、二人分の体温が 少しだけ空気を暖めている。
彩音が 来ていた。いつもの距離。一メートル半。 夏より さらに縮まった気がする。一メートル二十 くらい。数字は 蒼に測らせない。絶対に。
サンドイッチ。 今日は彩音がハムサンド。俺がツナ。
「棲み分け うまくいきそうですか」
彩音が聞いた。 いつもの質問。工作室の状況を 遠くからではなく、直接聞くようになっていた。渡り廊下の時代は 終わった。今は 屋上で直接聞く。
「分からない。 まだ二週間だ。うまくいくかどうかは もっと時間がかかる」
「分からない ですか」
「分からない。 でも、やってみる」
彩音は しばらく黙っていた。ハムサンドを齧って。 風が髪を揺らしている。秋の風。 夏より冷たいが、冬より柔らかい。
「高瀬くん」
「何だ」
「あなたって 分からないことに対して、強いですよね」
「強い ? そうか?」
「普通は 分からないと不安になります。先が見えないと。結果が予測できないと。 不安で動けなくなる」
「俺も不安だけど 」
「でも動いてる。 分からないまま。不安なまま。 久我先生との共存も。園田さんの件も。蒼くんの暴走も。 全部、結果が分からないまま動いた」
「結果が分からないから 動いたんだ。結果が分かっていたら 動く必要がない。分からないから 確かめに行く」
「確かめに 」
「翻訳者だから だと思う。翻訳できないものに出会うと 確かめたくなる。名前のないものの前に立つと 名前を見つけたくなる。 分からないことが 面白い。怖いけど」
「分からないことを 楽しんでいる」
彩音の声が 穏やかだった。分析 ではない。もっと 温かい声。観察して 認めている声。
「楽しんでる か。そうかもしれない」
「私は 逆です。分からないことが 怖い。教科書にない感情。マニュアルにない状況。 全部怖かった。だから 壁を作った。論理と知識で。 分からないものが入ってこないように」
彩音が 自分のことを話している。壁の話を。 四月に比べたら。こんなに自然に壁の話ができるようになった。
「でも あなたを見ていて。分からないことを楽しんでいる人間を見ていて。 少しだけ。羨ましいと思いました」
「羨ましい ?」
「はい。 分からないことの前で。怖がりながら ワクワクしている。それは 私にはできなかった」
「できなかった 過去形?」
「......過去形 ですね」
彩音が 微かに笑った。
「今は 少しだけ。できるようになった かもしれません。分からないことを。怖がりながら 受け入れる くらいは」
「受け入れ るか」
「楽しむ まではいきませんが。 受け入れる。分からないものの前に 逃げずに立つ。 あなたの真似 ですが」
「真似 してくれてるのか」
「事実の確認です」
彩音が 顔を逸らした。海のほうを見た。 頬が また。微かに。ピンクに。
翻訳 しない。ただ見た。
秋の屋上。冷たい風。海の紺色。 二人で弁当を食べて。サンドイッチの中身を報告し合って。分からないことについて話して。 情報量ゼロの会話。だが 密度は高い。言葉にならない密度。
「瀬川」
「はい」
「お前 前の学校の生徒に。連絡 したか」
彩音の手が サンドイッチの包みの上で止まった。
六月の雨の日に 屋上で。彩音が過去を語った。カウンセリングで生徒を縛った と。「連絡すべきか考えてみます」と言った。 あれから四ヶ月。
「......まだ です」
声が小さかった。
「まだ か」
「怖くて。 連絡して。あの生徒が まだ苦しんでいたら。私のせいで まだ 」
「怖い のは分かる」
「分かります ?」
「分かるよ」
分かるよ。 プロの「分かります」ではなく。同じ場所にいる人間の「分かるよ」。
「俺も 園田に連絡するのが怖かった。園田が帰ってきたとき 設計図の副作用を知って。自分のせいだと思って。 怖かった」
「でも 向き合ったんですよね。園田さんと」
「園田が 来てくれたからだ。俺から行ったんじゃない。 園田のほうから工作室に来てくれた」
「来てくれた 」
「もし園田が来なかったら 俺から行けたかどうか。分からない。 だから、お前に『行け』とは言えない。連絡しろ とも言えない」
「言えない 」
「お前が決めることだ。 連絡するか、しないか。いつするか。 全部、お前が決める。俺が翻訳する問題じゃない。 お前の人生の問題だ」
彩音は 黙っていた。風が吹いている。海の匂い。 秋の潮。
「でも 一つだけ。言ってもいいか」
「何ですか」
「連絡しなくても お前はお前だ。連絡しないことを 罪だと思わなくていい。罰だと思わなくていい。 お前が壊れるまで自分を追い詰める必要はない」
彩音の目が 揺れた。
「追い詰めて いますか。私」
「少し な。目の奥に。 翻訳者の目は使ってない。ただの 高瀬恒一の目で。見えてる」
「翻訳者の目じゃなく 」
「ただの。 隣にいる人間の目で」
彩音は 五秒ほど黙って。それから 小さく、息を吐いた。
「......ありがとうございます。 隣にいてくれて」
「隣に いるだけだ」
「それが 一番難しいことだと。最近 分かりました」
隣にいることが 一番難しい。
長谷の依頼で学んだこと。応援できなくても 隣にいる。園田の件で学んだこと。設計図がなくても 隣にいる。 隣にいること。それだけで。
「瀬川。 いつか お前が連絡すると決めたとき。 俺は何もしない。翻訳もしない。設計もしない。 ただ、連絡した後に。お前が泣きたくなったら。 屋上にいる。いつもの場所に」
彩音の目が 光った。涙 ではなかった。別のもの。 名前がない光。翻訳者にも 名前がつけられない。
「......変な人」
「何度目だ その台詞」
「何度でも言います。 事実ですから」
彩音が 立ち上がった。サンドイッチの包みを丁寧に畳んで。
「午後の授業 行きます」
「ああ」
「高瀬くん」
「何だ」
「あなたが 分からないことを楽しんでいるのを見て。私も 少しだけ。分からないことを 受け入れられるようになった。 屋上で。毎日」
「毎日 ?」
「はい。 風のためだけじゃなく。分からないことを 練習するために」
「練習 」
「分からないことの 隣にいる練習。 あなたの隣で」
彩音が ドアを開けて。出ていった。
一人になった。
分からないことの隣にいる練習。 俺の隣で。
翻訳者の脳が 動きかけて。止まった。今のは 翻訳してはいけない。翻訳したら 壊れる。彩音の言葉の美しさが。
ただ 受け取った。白いページに 鉛筆の線が。また一本。
放課後。工作室。
通常業務。 三件目の依頼(片想いの相手が転校するかもしれない二年女子)の続きをやっていた。場の設計を陽太が進めて。翻訳は俺が担当して。蒼がデータを補強して。凛花が記録している。 四人で回る。いつも通り。
業務が終わった。依頼者が帰っていった。 グレーの着地が近い。来週には完了するだろう。
帰り支度をしていた。
凛花がホワイトボードの前で 何かを確認していた。依頼リスト。 完了した件と、進行中の件。
「先輩」
「何だ」
「ちょっと確認 いいですか」
「何を」
「先輩が この工作室で。残りの半年で。やるべきこと。 整理したいんです。参謀として」
「参謀 として」
「はい。 引き継ぎのためです。先輩がやるべきことと 私が引き継ぐべきことを。分けたい」
凛花の目が 真剣だった。二週間前 「団長が務まると思いますか」と泣いた凛花とは 違う目。覚悟の後の目。
「じゃあ 整理する」
ホワイトボードの前に立った。マーカーを取った。 書く。
「残りの半年で やるべきことは三つ」
「一。工作室を次世代に渡す。 凛花にver.3を完成させてもらう。蒼にデータの安全運用を定着させる。引き継ぎの仕組みを 来年の三月までに作る」
「二。卒業までの依頼に 全力を尽くす。来る人がいる限り。一件一件に。素人の覚悟で」
三つ目を 書こうとして。マーカーが止まった。
三つ目。 自分自身の問題。
「三 」
凛花が 俺を見ていた。蒼も。陽太も。
「三。 瀬川彩音」
書いた。 ホワイトボードに。彩音の名前を。
「この翻訳不能な感情に 言葉を見つける」
工作室が 静まった。
陽太が にやにやしていた。「やっと書いたか」という顔。
凛花が ペンを止めていた。記録 すべきかどうか迷っている顔。
蒼は PCの画面を見ていた。見ていなかった。 画面は閉じている。俺を見ていた。
「先輩。 三番目は。工作室の案件 ですか」
蒼が聞いた。
「工作室の案件 じゃない。俺個人の問題だ」
「個人の問題を ホワイトボードに書くんですか」
「書く。 工作室のホワイトボードに。個人の問題を。 なぜなら、この問題は 工作室の中で生まれたからだ。翻訳者として依頼者と向き合う中で 翻訳できないものに出会った。それが 彩音への、この感情だ」
「翻訳 できない」
「できない。 半年以上。辞書のページが白い。名前がつかない。 でも存在する。白いページが 存在することは認めている」
凛花が ペンを取った。
「記録 していいですか。三番目」
「......いい。記録しろ」
「 高瀬先輩。残りの半年の課題。三番目:瀬川彩音への翻訳不能な感情に 言葉を見つける。 備考:工作室の案件ではない。個人の問題。ただし 工作室の中で生まれた問題であるため、ホワイトボードに記載を許可」
パタン。
陽太が メロンパンの袋を丸めた。
「恒一。 やっとだな」
「やっと ?」
「ホワイトボードに書いた。 彩音の名前を。お前の口から。 去年の俺たちの前で『志帆が好きだった』って言えるまで半年かかった。 今回は 名前を書くまで半年。同じペースだな」
「同じ か」
「同じだよ。 でも前は『好きだった、過去形』だった。今回は 進行形だ。白いページが まだ書かれている途中。 過去形より ずっといい」
進行形。 今、この瞬間も。書かれ続けている。
「先輩。 三番目の課題。期限は いつですか」
凛花が聞いた。参謀として。
「期限 ?」
「一番目と二番目は 三月。卒業まで。 三番目は?」
「......分からない。 翻訳ができたとき。名前が見つかったとき。 期限は設定できない」
「期限なし ですか。 園田さんの件で 期限の大切さを学んだはずですが」
「園田の件とは 違う。あれは設計図の期限だ。これは 感情の期限。 感情に期限を設定したら、設定した時点で 答えが歪む」
凛花は 考えて。頷いた。
「了解です。 期限なし。ただし 卒業 という物理的な期限は存在します」
「分かっている」
卒業。三月。 あと五ヶ月。五ヶ月の間に 白いページに何が書かれるのか。書ききれるのか。 分からない。
「恒一」
陽太が 立ち上がった。
「三番目 俺は手伝わないぞ。翻訳もしない。設計もしない。 お前が自分で」
「分かってる。 お前には自分の三番目があるだろ」
「ある。 真白。 俺の三番目」
「お前のほうが 先に着地しそうだな」
「先に着地してやるよ。 見てろ」
陽太が にやっと笑った。
蒼が 口を開きかけて 閉じた。何か言おうとして やめた。
「蒼。 何だ」
「いえ データ的な提案が 」
「するな」
「了解です。 提案を棄却。自主的に」
「自主棄却 偉いぞ」
「偉くない です。 学んだだけです」
工作室に 笑い声が起きた。軽い。四人で。秋の放課後。
ホワイトボードに 三つの課題が並んでいる。
一。次世代に渡す。
二。依頼に全力。
三。瀬川彩音。
三番目だけが 具体策がない。一番目と二番目は 手順が見えている。三番目は 白い。ホワイトボードに書いたのに 中身が白い。
辞書のページと同じだ。
存在は認めた。中身はまだ白い。 でも 認めた。全員の前で。
それだけで 今日は 十分だ。
帰り支度。工作室を出る。
廊下を歩いていた。 旧部室棟の暗い廊下。蛍光灯が三本に一本切れている。 いつもの。
ドアのプレートの横に 紙が貼ってあった。
帰る前に 見た覚えがない。凛花が貼ったのではない。 凛花はノートに記録する。プレートには触らない。
紙。 小さな紙。メモ用紙。 手書き。
読んだ。
「先生に恋をしました。 どうすればいいですか」
名前が 書いてない。匿名。 だが、原則②。匿名依頼は受けない。
「恒一。 これ」
陽太が 紙を見た。
「先生に恋 ? マジか」
「マジだろうな。 こんなこと、ふざけて書く人間はいない」
「先生って 担任? 部活の顧問?」
「分からない。 名前がない。匿名だ」
「匿名 受けるのか?」
「受けない。 原則②。 だが、紙を貼った人間に連絡する方法がある。掲示板に返信を出す」
凛花が ノートを開いた。
「 新規依頼候補。匿名。『先生に恋をした』。原則②に抵触。 対応方針:掲示板で名乗りを求める」
「先生に恋 か」
俺は 紙を見つめた。
先生に恋をした。 叶えてはいけない恋。生徒と教師。立場が 関係を許さない。距離が 物理的にはゼロなのに。制度的に 無限遠。
設計の余地がない。 告白を設計できない。成就を設計できない。撤退線を引くことすらできない。 なぜなら、そもそも「始める」ことができない恋だから。
叶えない恋。 叶えてはいけない恋。
「恒一。 工作室史上、一番やばい依頼かもしれないな」
「かもしれない。 でも、依頼者がドアをノックした。紙を貼った。 来る人がいるなら 応える」
「応えるのか 叶えない恋に」
「叶えない恋にも 居場所は要る。感情の置き場が。 叶えなくても。始めなくても。好きだという気持ちの 住所が」
叶えない恋の 居場所。
翻訳者の脳が 動いた。設計を考え始めている。 だが同時に、別のことも考えている。
叶えない恋と 始めない恋。
叶えない恋は 好きだけど手を出さない。立場が許さないから。
始めない恋は 好きかもしれないのに動かない。
俺と彩音は どっちだ。
叶えない恋 ではない。生徒と教師 のような、制度的な障壁はない。同学年の。同じ高校の。隣のクラスの。 何も障壁がない。
始めない恋 なのか。好きかもしれないのに。白いページが存在するのに。 動かない。
動かないのは なぜだ。
翻訳が終わっていないから。名前がついていないから。確定していないから。 翻訳者は、翻訳が完了するまで 行動しない。理解してから動く。名前をつけてから行動する。 それが翻訳者のプロセスだ。
だが陽太が言った。「分かる前に動くもんだ、恋は」。
分かる前に動く のか。翻訳の完了を待たずに。名前がつく前に。白いページのまま。
「恒一。 顔が複雑だぞ」
「複雑 か」
「依頼のこと考えてるのか。自分のこと考えてるのか 分からない顔だ」
「両方だ」
「両方 か。器用だな」
「器用じゃない。 全部が繋がってるだけだ。依頼者の恋も。俺の恋も。 全部、翻訳できないもの の話だ」
紙を 丁寧に剥がした。ドアのプレートを傷つけないように。
「明日 掲示板に返信を出す。『工作室は匿名依頼を受けていません。名乗ってもらえれば 相談に乗ります。情報は厳守します』」
「久我先生にも 相談する?」
「する。 先生と生徒の恋は。工作室だけで扱える問題じゃない。久我先生に 共同で対応してもらう」
「共存 だな。早速」
「早速 だ。 棲み分けが機能するかどうかの 最初のテストケースだ」
帰り道。堤防沿い。
十月の夕暮れ。 日が短い。五時前なのに 空がオレンジに染まっている。海が 暗い紺色。夕日がオレンジの帯を海面に引いている。
折り返し地点 だ。
四月に工作室を再始動してから 半年。蒼が来て。彩音が来て。園田が帰ってきて。久我先生が来て。依頼を受けて。壊れて。更新して。 半年分の全てが、折り返し地点に積み重なっている。
残りの半年。
三つの課題。 一番目と二番目は、やり方が分かっている。手を動かせばいい。 三番目だけが、手の動かし方が分からない。
瀬川彩音。 翻訳不能な感情。白いページ。
屋上で彩音が言った。「分からないことの隣にいる練習。あなたの隣で」。 俺の隣で。
俺は 彩音の隣にいることが。分からないことの 中にいることが。 怖くない。
怖くない というのは嘘だ。少しだけ怖い。白いページに何が書かれるか 分からないから。「好き」と書かれるのか。別の言葉が書かれるのか。 分からない。
だが 分からないことが面白い。翻訳者だから。翻訳できないものに出会うと ワクワクする。彩音に言われて気づいた。
彩音への この感情も。翻訳できないから 面白い。 面白い のか?
面白い だけではない。もっと 深い。もっと 温かい。もっと 痛い。
面白くて。温かくて。痛い。 三つが混ざった感情。辞書には 載っていない。
新しい言葉が 必要だ。工作室の存在意義を「素人の覚悟」と名づけたように。彩音への感情にも 新しい名前が必要だ。既存の辞書にない名前。
見つかる のか。
分からない。
だが 分からないことの隣に。立ち続ける。
翻訳者として。 ではなく。
高瀬恒一として。
海が 暗くなっていく。十月の夜。秋の夜。 星が出始めている。冬の星座が 東の空に昇ってきている。
半年。 あと半年。
短い。 だが、短いからこそ。一日一日が 濃い。
明日 掲示板に返信を出す。先生への恋。叶えない恋の居場所。 新しい依頼。
そして 屋上に行く。いつもの場所に。彩音が来る。偶然。 偶然のフリをした必然。
サンドイッチの中身を 報告し合う。情報量ゼロの会話。 だが密度は。宇宙一高い。
工作室は 半分になった。
でも 半分の工作室は。去年の全部の工作室より 密度が高い。
それで いい。
半分が 俺たちの全力だ。




