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朝凪高校・恋路工作室 ── 恋愛操作団が愛と願いを叶えます ──  作者: Song1
朝凪高校・恋路工作室 ──最後の翻訳──
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第24話 素人の覚悟

第24話 素人の覚悟


「俺たちは素人だ」 恒一は、ようやくその言葉を武器にできた。


十月。


金木犀が香り始めていた。校庭の隅に一本だけある金木犀の木が オレンジの小さな花を咲かせている。甘い匂いが 秋の空気に溶けている。海が 深い紺色になった。夏の記憶が 遠くなっていく。


蒼が戻ってきてから 二週間。工作室は四人に戻って回っていた。依頼件数は 少ないままだ。だが「少ない」ことに 焦りはなくなっていた。来る人がいる限り 全力で応える。ゼロでない限り 続ける。


その間に 言葉を探していた。


久我先生に伝える言葉。工作室の存在意義を 一文で言い切る言葉。プロの大人にも。彩音のような経験者にも。蒼のようなデータ屋にも。 誰にでも伝わる、シンプルな言葉。


四月から 半年間。彩音に批判されて。久我先生に正論を突きつけられて。園田の副作用と向き合って。蒼の暴走を止めて。凛花に引き継ぎの道筋を見せて。 全部の経験が、一つの言葉に収束しようとしている。


今日 見つかった。


朝。教室で。 何気なく窓の外を見ていたとき。C組の窓の向こうに 彩音の横顔が見えた。いつもの。 朝の光を受けて教科書を開いている横顔。


そのとき 降りてきた。


言葉が。


翻訳 ではなかった。翻訳者が他人の感情を言語化したのではなく。高瀬恒一が 自分の信念を言語化した。


俺自身の言葉。 本文。



放課後。


面談室に向かった。 一人で。


久我先生に アポイントを取っていた。昨日の放課後に。「お話したいことがあります」。久我先生は「どうぞ。明日の放課後に」と答えた。


面談室のドア。 プラスチックのプレート。「スクールカウンセラー・久我朋子」。四月に初めて見たとき 銃弾のように感じたプレート。今は ただのプレートだ。敵の名刺ではない。


ノックした。


「どうぞ」


入った。 面談用のテーブル。椅子。柔らかい照明。 何度目かの面談室。もう緊張しない。


久我が 眼鏡の奥で俺を見た。穏やかな笑顔。 だがプロの観察眼は消えていない。俺が何を言いに来たのか 測っている。


座った。


「久我先生。 今日は、結論を持ってきました」


「結論 ?」


「工作室の存在意義について。先生に ずっと聞かれていたこと」


久我の表情が 少しだけ動いた。真剣になった。穏やかさはそのまま だが目の奥に、聞く準備ができている光がある。


「聞かせてください」


俺は 一度、息を吸った。深く。 言葉は見つかっている。あとは 口に出すだけだ。


「久我先生。 認めます。俺たちは素人です」


久我の目が 微かに開いた。認めるとは 思っていなかったのか。いや 認めることは予測していただろう。だが 「認めます」から始まる言葉が、結論の冒頭であることに 驚いたのだ。


「心理学の訓練もない。カウンセリングの資格もない。スーパービジョンもない。 先生が指摘してくれたこと。全部 事実です。否定しません」


「......」


「善意だけでは不十分かもしれない。場を作ることが介入であること。支援の副作用があること。善意の暴走が 悪意より止めにくいこと。 全部、今年 身をもって学びました」


園田の副作用。蒼の暴走。 体験として。教科書ではなく。


「俺たちは素人です。 それは変わらない。来年卒業するまで プロにはなれない。資格も取れない。訓練も受けられない。 素人のまま 卒業する」


久我は 黙って聞いていた。メモを取っていない。全部 頭に入れている。プロの集中力。


「でも」


ここからだ。 ここからが 半年かけて見つけた言葉。


「素人だからこそ できることがある」


「具体的に」


「先生は 正しい距離で相談者と向き合います。カウンセラーとクライアントの境界。倫理綱領。枠。 全部、正しい。安全な距離。相談者を守るための距離」


「はい」


「俺たちは 距離ゼロです」


久我の目が 動いた。


「距離 ゼロ」


「同じ教室にいる。同じ制服を着ている。同じ試験を受ける。同じ部活に入っている。 依頼者と、同じ場所に立っている。上からでもなく。斜め上からでもなく。 真横に」


「真横 ですか」


「はい。 先生の距離は 安全で、正しい。相談者を傷つけないための距離です。でも 安全な距離からは届かない言葉がある」


「届かない 言葉」


「河合 という依頼者がいました。推し活と恋愛の区別がつかなくて苦しんでいた。先生の相談室に行ったら 『冷静に話し合いましょう』と言われたかもしれない。正しい。 だが河合が欲しかったのは、『分かる。俺も推しのことで混乱したことがある』という 同じ場所にいる人間の言葉だった」


「同じ場所 」


「長谷 という依頼者がいました。親友の恋を応援できなくて自分を最低だと思っていた。先生なら 『自己受容が大切です』と言うでしょう。正しい。 だが長谷が必要としていたのは、『最低じゃない。俺も同じ痛みを知ってる』という 同じ痛みを共有している人間の声だった」


久我は 黙っていた。反論 しなかった。聞いている。 真剣に。


「小林 という依頼者がいました。SNSの恋人にリアルで会うのが怖かった。先生なら 『リスクを慎重に判断しましょう』と言うでしょう。正しい。 だが小林が必要としていたのは、一緒にDMの文面を考えてくれて。工作室の中で みんなが見守る中 送信ボタンを押せる場だった」


DMの送信ボタン。 あのとき。工作室に四人がいて。小林が震える指で 送信した。「ここで 先輩たちがいるところで送りたい。一人だと怖くて」。


プロのカウンセラーの面談室では 起きなかったことだ。


「先生。 プロの距離は安全です。正しいです。でも 安全じゃない距離に立つことでしか掬えない言葉がある。同じ場所にいて。同じ痛みを知っていて。同じ年齢で。 そこからしか届かない翻訳がある」


「翻訳 」


「俺たちがやっていることは 翻訳です。依頼者の感情を読んで。名前をつけて。言語化する。 それは技術です。だが技術だけじゃない。技術を 距離ゼロで使うことに意味がある。先生の正しい距離では 翻訳が届かない場所がある。俺たちの危険な距離だから 届く場所がある」


久我は しばらく沈黙していた。長い沈黙。 十秒。十五秒。プロが 言葉を処理している時間。


「高瀬くん」


「はい」


「それは 覚悟ですか」


覚悟。 久我が使った言葉。


「はい。 素人の覚悟です」


声が 自分でも驚くくらい、静かだった。怒りでもなく。悲壮でもなく。 ただ、確かな声。


「素人であることを認めた上で。リスクがあることを認めた上で。 それでも距離ゼロで隣に立つ。先生の正しい距離では届かない言葉を 素人の距離で届ける。 それが、俺たちの覚悟です」


「覚悟 だけで。リスクを引き受けるんですか」


「覚悟だけじゃないです。 原則がある。五つの原則。壊れたら更新する仕組みがある。凛花がチェックする。蒼がデータで補強する。陽太が場を整える。 一人じゃない。四人で回す。 それでも足りないとき 先生に相談する。約束しました」


「約束 しましたね。生徒が傷ついたら、私に相談すると」


「はい。 その約束は生きています。素人だけで抱え込まない。プロの力が必要なとき 先生を頼る。 でも、プロじゃなくていい場面。素人だからこそいい場面。 そこは俺たちがやる」


久我は 椅子の背にもたれた。 初めて見る姿勢だ。今まで久我は 常に前傾姿勢で話を聞いていた。プロの姿勢。 今、背にもたれた。力が 少しだけ抜けた。


「高瀬くん」


「はい」


「プロの距離は安全で正しい と言いましたね。そして、安全じゃない距離に立つことでしか掬えない言葉がある と」


「はい」


「その通りです」


認めた。 久我が。プロが。


「カウンセリングの限界を 私は知っています。制度の枠の中でしか動けない。マニュアルがある。倫理綱領がある。 全部、正しい。正しいから 窮屈なんです」


「窮屈 」


「私も 高校生のとき。恋の悩みがありました。カウンセラーに相談したことがある。 『一般的にはこうです』と言われた。正しかった。でも 私の恋は一般的じゃなかった」


久我が 自分の過去を話した。初めて。プロの鎧の下の かつての高校生の声。


「あのとき 同じ年齢の友達が隣にいてくれたら。一般論じゃなく 『分かるよ』と言ってくれたら。どれだけ救われたか。 私がカウンセラーになったのは、あの経験があったからです。でもカウンセラーになって気づいた。制度の中では あの『分かるよ』は言えない」


「制度の中では 」


「プロは 『分かります』とは言えても。『分かるよ』とは 言えないんです。敬語で。距離を保って。 高瀬くん。あなたたちは『分かるよ』が言える」


分かるよ。 敬語ではなく。距離を保たず。同じ場所から。


「それが あなたの言う『距離ゼロ』ですね」


「はい」


「なら 共存の方法を、具体的に考えましょう」


久我が テーブルの上に。手帳を出した。 仕事モードに切り替わった。プロの手帳。日程管理。


「棲み分けの基準。 いくつか提案があります」


「はい」


「一。恋愛の悩みのうち 一般的な対人関係の問題は、工作室が対応。制度的対応が必要なケース いじめ、虐待、メンタルヘルスの兆候がある場合は 私に回してください」


「了解です」


「二。工作室が対応中に 依頼者の状態が悪化した場合。自傷や深刻な抑うつの兆候があった場合 即座に私に連絡してください。ここは 絶対に。素人の覚悟では扱えない領域です」


「分かっています。 約束します」


「三。 これは提案ですが。月に一度、工作室と恋愛相談室で 情報共有の場を設けませんか。個人情報は出さない。傾向だけ。どんな相談が増えているか。学校全体の空気がどう変わっているか。 お互いの視界を共有する場」


「月一の 情報共有」


「はい。 スーパービジョン とは呼べませんが。近いものです。お互いに 死角を照らし合う」


死角を照らし合う。 彩音が言った「スーパービジョンがない」への 現実的な解。完全なスーパービジョンではない。だが プロと素人が対話する場。それだけでも 蒼の暴走のような事態を 早期に検知できるかもしれない。


「受けます。 月一。場所は ここでいいですか」


「ここで結構です。 放課後。三十分程度。 高瀬くんと 参謀の柊さんも一緒に」


「凛花も 入れますか」


「入れてください。 来年、あなたが卒業した後 柊さんがこの対話を続けてくれるなら。 共存は、あなたがいなくなっても続きます」


卒業した後。 久我先生が 卒業後の工作室のことまで考えてくれている。共存を 一時的なものではなく。持続可能な仕組みとして。


「ありがとうございます 久我先生」


「感謝は まだ早いです。うまくいくかどうかは やってみないと分からない」


「やってみます」


「素人の覚悟 でしたね」


「はい」


久我が 微笑んだ。穏やかに。 だが今日の笑顔は いつもと違った。プロとしての笑顔 だけではなく。かつて高校生だった久我朋子の 素の笑顔が混ざっていた。


「高瀬くん。 あなたの覚悟に プロとして応えます。共存しましょう」


「共存 します」


手を 差し出した。久我が 握った。二度目の握手。 一度目は「条件つきの合意」だった。今回は 「覚悟の共有」だ。


久我の手は 温かかった。あのときと同じ温度。だが今日は 握り返す力が 少しだけ強かった。



面談室を出た。


廊下を歩いた。 放課後の校舎。生徒が減っている。部活動の声が グラウンドから聞こえる。


足が 軽かった。


言えた。 言葉にできた。半年間 探していた言葉。


「素人の覚悟」。


格好いい言葉じゃない。飾りもない。ロジックで固めた宣言 でもない。ただ 正直な言葉だ。素人であることを認めて。リスクを認めて。 それでもやると。距離ゼロで隣に立つと。


桐生先輩の言葉は 「心は操作しない」。合理的で隙がない宣言だった。


俺の言葉は 「素人の覚悟」。不格好で、隙だらけで。 だが嘘がない。


翻訳 ではなかった。他人の感情を言語化したのではなく。自分の信念を 自分の言葉で 語った。


凛花が去年言った。「設計図じゃなくて本文を書いている感じです」。 あのとき、俺は 本文を書き始めた。今日 本文が一つ完成した。


「素人の覚悟」。 これが俺の本文だ。


工作室に向かった。 旧部室棟。暗い廊下。蛍光灯が三本に一本切れている。 ドアを開けた。



三人が 待っていた。


凛花がノートを開いている。蒼がPCを閉じたまま座っている。陽太がメロンパンを 半分に割って、残りを机に置いている。 俺の分を取っておいてくれたのだ。


「先輩 どうでしたか」


凛花が聞いた。


「話してきた。 久我先生と」


「結果は」


「共存 する。棲み分けの基準を決めた。恋愛の設計と翻訳は工作室。制度的対応は相談室。月一で情報共有。凛花も参加」


「私も ?」


「来年 俺がいなくなった後も続けるためだ。凛花が久我先生との窓口になる」


凛花は 少し驚いた顔をして。それから 頷いた。覚悟の頷き。


「了解です。 引き受けます」


蒼が口を開いた。


「高瀬先輩。 久我先生に何と言ったんですか。共存を認めてもらえた理由は」


「認めてもらった というか。俺が先に認めた」


「認めた ?」


「俺たちが素人であることを。 全面的に」


蒼の目が 開いた。


「素人 と認めて。それで 共存?」


「ああ。 素人であることを認めた上で。素人だからこそできることがある と言った。距離ゼロで隣に立つこと。同じ場所から『分かるよ』と言えること。 プロの正しい距離では届かない言葉を、素人の危険な距離で届ける。 それが俺たちの仕事だ」


「素人の覚悟 ですか」


凛花が 呟いた。


「素人の覚悟。 先輩の言葉ですね」


「俺の言葉だ。 翻訳じゃない。俺自身の 本文だ」


本文。 凛花の目が 光った。あの日の言葉を覚えている。「設計図じゃなくて本文を書いている感じです」。 去年の凛花の言葉が。今日 回収された。


「先輩 」


「何だ」


「本文 完成ですね」


「一つだけ な。まだ書くことは いっぱいある」


陽太が メロンパンの残り半分を俺に投げてきた。


「恒一。 お前、いつの間に大人になったんだ」


「なってない。 素人のままだ」


「素人のまま 大人になった。矛盾してるな」


「矛盾 好きだろ。この工作室は」


陽太が 笑った。メロンパンを齧りながら。


凛花がノートに記録した。


「 久我先生との正式合意。棲み分け確立。工作室の存在意義を『素人の覚悟』として言語化。月次情報共有を開始。 参謀・柊凛花も窓口として参加」


パタン。


「先輩。 あと一つだけ」


「何だ」


「『素人の覚悟』 ver.3に入れていいですか。工作室の理念として」


「凛花が書くver.3だ。 凛花が決めろ」


「入れます。 前文に。五原則の前に。工作室が何のために存在するか の宣言として」


前文。 五原則の前に置く宣言。法律でいえば 前文。憲法の前文のような。工作室の精神を 一文で示す場所。


「いいな それ」


「桐生先輩のver.1にもver.2にも 前文はなかった。原則だけだった。 ver.3は 前文から始めます。『恋路工作室は 素人の覚悟で、距離ゼロの隣に立つ』」


凛花が 即興で書いた前文。 まだ草案だ。磨く必要がある。だが 方向は正しい。


蒼が PCを開いた。


「前文 を入れるなら。データ的な裏付けも 添えたいです。工作室と相談室の棲み分けマトリクス。対応領域の可視化。 凛花先輩の前文を支える データの背骨として」


「蒼くん。 いい提案です。一緒に作りましょう」


凛花と蒼が 向かい合った。ノートとPC。記録者とデータ屋が ver.3の設計を始めている。


俺は それを見ていた。ホワイトボードの前で。マーカーを持っていない。 持つ必要がない。今日から ホワイトボードに書くのは俺ではなく。凛花と蒼の仕事だ。


翻訳者は 翻訳する。依頼者の感情を。工作室の言葉を。 だが設計は、次の世代に渡す。


場を作る。場を手放す。 少しずつ。半年かけて。



帰り支度。


工作室を出た。四人で 旧部室棟の廊下を歩いた。


正門に向かう途中 廊下で。


「高瀬くん」


声が 横から聞こえた。


彩音が 立っていた。本校舎と旧部室棟を繋ぐ渡り廊下。 渡り廊下ではなく、渡り廊下の手前。本校舎側の廊下。 工作室に また近い場所。


「瀬川」


「久我先生と 話したんですって?」


「どこで 」


「久我先生から 聞きました。面談室の前を通りかかったら 久我先生が。『高瀬くんが来てくれた。いい話だった』って」


久我先生が 彩音に話した。久我先生と彩音は 面識があるのか。カウンセラーと元カウンセラー。 接点があっても不思議ではない。


「ああ。 話してきた。素人の覚悟 って言葉で。工作室の存在意義を」


「素人の覚悟 」


彩音が 言葉を噛みしめるように繰り返した。


「距離ゼロで隣に立つ。プロの正しい距離では届かない言葉を 素人の危険な距離で届ける。 そういう内容だ」


「......」


彩音は しばらく黙っていた。表情が 動いていた。壁の下で。丁寧語の鎧の内側で。 何かが、動いている。


「あなた 成長しましたね」


声が 柔らかかった。今まで聞いた中で 一番柔らかい声。


「成長 ?」


「四月に工作室に来たとき あなたは『場を作るだけだ』と言った。それが全てだった。 今は『素人の覚悟』と言える。場を作るだけじゃない。覚悟を持って その場に立つ。自分の弱さを認めて それでも立つ。 それは 成長です」


「三年にもなれば な」


軽く言った。 照れくさかったから。


彩音が 一瞬。目を逸らした。 いつもの「計算された逸らし」ではなかった。もっと 自然な逸らし。制御されていない逸らし。


頬が 赤かった。


微かに。 翻訳者の目でなければ見落とすくらい微かに。だが確かに。 頬の上に 薄いピンクが。差している。


金木犀の匂いが 風に乗って流れてきた。秋の空気。十月の夕暮れ。


「瀬川 」


「では。 私は帰ります」


「あ 」


彩音が 歩き始めた。早足で。 いつもの計算された歩き方ではなく。少しだけ 速い。逃げる ほどではない。だが 立ち止まっていられなかった という速さ。


背中が 小さくなっていく。廊下の向こうに。 金木犀の匂いの中に。


俺は 立ち止まったまま。廊下の真ん中で。


彩音の頬が 赤かった。


赤かった。


翻訳者の目が 記録している。頬の色。逸らした目。早足。 全部のデータが入ってくる。


翻訳 しようとした。プロセッサが 起動した。


止まった。


いつものフリーズ ではなかった。今回は 違う。翻訳者が意識的に 止めた。


翻訳 しない。


彩音の頬の赤みを 翻訳者として分析しない。名前をつけない。カテゴリに入れない。


ただ 見た。


彩音の頬が 赤かった。それだけ。


それだけのことが 心臓を。また。揺らしている。


「......まずい」


声に出して 呟いた。廊下で。


陽太が 後ろで。にやにやしていた。


「恒一。 顔、赤いぞ。彩音だけじゃなく お前も」


「うるさい」


「赤い同士だな。 お揃いだ」


「黙れ」


凛花が ペンを持ったまま。俺を見ていた。


「先輩。 記録 」


「するな」


「工作室の案件じゃないのは分かってます。 でも。いい景色 でした。先輩と彩音さん」


「景色 って。何も起きてないだろ」


「何も起きてません。 でも。金木犀の匂いの中で 二人とも頬が赤くて。秋の光が きれいでした」


凛花は 詩人か。記録者のくせに。


蒼が PCを閉じたまま。言った。


「高瀬先輩。 データ的に言えば。頬の紅潮は 外気温の影響か、感情的反応か 判別する必要が」


「蒼。 データは不要だ」


「了解です。 データ不要リストに追加します。『先輩の頬の色の原因分析 禁止』」


「追加するな」


「しました」


工作室の四人が 廊下で笑った。金木犀の匂いの中で。


今日 工作室の存在意義を言葉にした。久我先生と共存の合意をした。 大きな前進。半年間の集大成。


だが 一番心に残っているのは。


彩音の頬の 赤み。


翻訳 できない。しない。 ただ見た。


白いページの上に 薄い鉛筆の線が。少しだけ 濃くなった。


まだ 読めない。


でも 書かれている。確かに。


金木犀が 香っている。秋の 夕暮れ。


工作室は 素人の覚悟で。距離ゼロの隣に。立ち続ける。


ここに。

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