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朝凪高校・恋路工作室 ── 恋愛操作団が愛と願いを叶えます ──  作者: Song1
朝凪高校・恋路工作室 ──最後の翻訳──
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第24話 素人の覚悟

 第24話 素人の覚悟


 九月一日。始業式。


 夏が終わりかけていた。蝉はまだ鳴いている。しかし声が細い。八月の絶叫が嘘のように。朝の空気に微かな涼しさが混ざっている。夏の空気と秋の空気が境界線上で重なっている。


 校舎に生徒が戻ってきた。夏休みの間は蝉と部活動の声しかなかった旧部室棟に、足音と話し声が戻った。


 放課後。工作室。


 四人が揃った。新学期初日。ホワイトボードに六つのルール。依頼ボードに手書きの紙。窓から海風。全部が変わっていない。しかし工作室の中の配置が少しだけ変わっていた。


 凛花が、俺の隣ではなく、俺の前に座っていた。


 先月の約束。九月から凛花が前。俺が後ろ。引き継ぎの実践。


「今日から私が主導します。先輩はバックアップです」


 凛花が宣言した。ノートを開いている。二冊目。記録用。三冊目は鞄の中だ。


「了解」


「今日の議題は二つ。一、久我先生からの紹介案件の依頼者が来ます。放課後に。二、久我先生から面談の申し入れがあります。依頼者の面談の後に」


「久我先生が来るのか」


「先生から連絡がありました。工作室と相談室の棲み分けについて、正式に話し合いたいと。依頼者の面談を見学させてほしいとも」


「見学」


「はい。依頼者の同意が取れれば、久我先生が工作室の面談を見学する。工作室のやり方をプロの目で見てもらう」


 凛花の段取りが正確だった。参謀が主導権を握ると、工程の設計が緻密になる。翻訳者が主導していたときは直感で動いていた。凛花は記録と計画で動く。


 十五分後。依頼者が来た。


 ドアの前に女子が立っていた。二年生。髪が短い。目が大きい。表情が硬い。しかし硬さの中に決意がある。来ると決めて来た顔。


「恋路工作室ですか」


「ここだ。入れ」


 凛花が前に出た。


「柊凛花です。工作室の参謀兼記録係です。今日は私が主に対応します。こちらは高瀬恒一、団長です。天野陽太、実行班長。星野蒼、情報分析担当。そして」


 凛花が後ろを見た。工作室の隅に椅子が一つ追加されていた。


「久我朋子先生。対人関係相談室のスクールカウンセラーです。見学として同席していただいています。あなたの相談内容は久我先生にも聞かれますが、よろしいですか」


 依頼者が久我を見た。久我が穏やかに頷いた。


「久我先生には相談室で話を聞いてもらいました。工作室でも同席してもらって大丈夫です」


「ありがとうございます。では始めましょう。お名前を教えてください」


「小野寺咲良です。二年です」


 小野寺咲良。久我が紹介した片想いの依頼者。相手に恋人がいる。応援するか諦めるかの二択で止まっている子。


 凛花がノートを開いた。ペンを持った。


「小野寺さん。相談内容を聞かせてください。急がなくていいです」


 凛花の声が穏やかだった。参謀の声ではなく、聞く人の声。久我のカウンセリングの傾聴に似ているが、もっと近い距離。同じ高校生の声。


「好きな人がいます。同じ学校の三年生の男子です。でもその人には彼女がいます」


「彼女がいる人を好きになった」


「はい。分かっていて好きになりました。彼女がいることは最初から知っていました。知っていて、好きになるのを止められなかった」


 凛花がノートに書いた。聞きながら書いている。依頼者の言葉をそのまま書いている。翻訳していない。変換していない。依頼者の言葉のまま。


「相談室では、先生に聞いてもらいました。でも動けなかった」


「動けなかったのは、なぜですか」


「先生の前では、正しいことを言わなきゃいけない気がして。彼女がいる人を好きなのは間違いだと。だから応援するか諦めるか、どちらか正しいほうを選ばなきゃいけないと。でもどちらも選べなかった」


 久我が微かに動いた。椅子の上で。自分の手法の限界を、依頼者の口から聞いている。プロの前では正しいことしか言えない。安全な場所では安全な答えしか出ない。


「小野寺さん。ここは正しい答えを出す場所ではないです」


 凛花が言った。


「工作室は完全救済を約束しません。正しい答えも出しません。あなたが自分の気持ちを自分の言葉で言えるようにする場所です」


 凛花が工作室の哲学を語った。翻訳者の言葉ではない。凛花自身の言葉で。三冊目のノートに書いていた内容を、依頼者の前で実践している。


「正しくなくていいんですか」


「いいです。好きな人に彼女がいること。好きになるのを止められなかったこと。どちらも正しくないかもしれない。でもあなたの気持ちです。あなたの気持ちに正しいも間違いもない」


 小野寺の目が変わった。硬さが少しだけ緩んだ。


「好きなんです。どうしようもなく」


「どうしようもなく好き。それを言えましたね」


 凛花が小野寺の言葉をオウム返しした。翻訳ではない。久我に教えてもらった鏡の技法。依頼者の言葉を変換せずにそのまま返す。


「応援しなきゃいけないと思っていました。彼女がいるなら、諦めるか、二人の幸せを応援するか。それしかないと思っていた」


「応援するか諦めるかの二択」


「はい。でもどちらも嫌だった。応援したら自分が消える。諦めたら好きな気持ちが行き場を失う」


 俺は後ろに座っていた。翻訳者の席ではない。バックアップの席。凛花が主導している。凛花の方法で。記録と質問と鏡。翻訳なし。


 しかし翻訳者の耳は動いている。小野寺の言葉の裏を読んでいる。自動で。二択で止まっている理由。応援か諦めかの二択が間違っている。三つ目の選択肢がある。しかしそれを言うのは俺ではない。凛花が見つけるか、小野寺が自分で見つけるか。


「小野寺さん。一つだけ確認していいですか」


 凛花がペンを置いた。


「あなたは相手に告白したいですか」


「告白」


「好きだと伝えたいですか」


 小野寺が五秒ほど黙った。


「分かりません。告白しても意味がない。彼女がいるから。告白しても振られるだけ」


「振られるかもしれない。でも聞いたのはそこではなくて。伝えたいかどうか。結果ではなく、気持ちとして」


「気持ちとしては。伝えたい。でも」


「伝えたい。それはあなたの言葉です。結果は分からない。でも伝えたいという気持ちがある。それは応援でも諦めでもない。三つ目の選択肢です」


 凛花が三つ目を見つけた。翻訳者の翻訳なしで。記録者の観察と質問で。小野寺の言葉の中から、小野寺が気づいていない選択肢を引き出した。


 翻訳ではない。しかし翻訳と同じ効果がある。依頼者が自分の本音に気づく。凛花の方法で。


「でも告白したら、相手も彼女も傷つきます」


「傷つくかもしれない。それは事実です。しかし傷つけるかもしれないからといって、自分の気持ちを殺していいかどうかは、別の問題です」


「別の問題」


「今日のところはここまでにしましょう。宿題を一つ出します。ノートを一冊用意してください。そのノートに、今日から毎日一つ、自分の気持ちを書いてください。好きという気持ちを。正しくなくていい。正直に」


 長谷川のケースの応用。自己観察ノート。凛花が前の依頼から学んだ手法を、次の依頼に転用している。翻訳者の技術ではない。工作室の経験の蓄積。


「次は来週の木曜日に。ノートを持ってきてください」


「分かりました」


 小野寺が帰った。ドアを出ていく背中が、来たときよりも少しだけ軽かった。完全に軽くはなっていない。しかし二択の硬さが緩んでいる。三つ目の選択肢が見えたから。


 久我が立ち上がった。


「見事でした」


 久我が凛花に言った。プロが素人に。


「翻訳なしで、依頼者の本音を引き出した。記録と質問だけで。私のカウンセリングでは三週間動かなかった子が、一回の面談で動いた」


「動いたかどうかはまだ分かりません。来週のノート次第です」


「慎重ですね。いいことです」


 久我が俺を見た。


「高瀬くん。翻訳しませんでしたね」


「しなかった。凛花が主導した。俺はバックアップだった」


「引き継ぎの練習ですか」


「ああ。九月から凛花が前に立つ。翻訳者がいない工作室の予行演習だ」


「翻訳者がいなくても動く。それを見せてもらいました。記録者の力で。質問の力で。同じ高校生であることの力で」


 久我の声に感嘆があった。プロの感嘆。同業者への敬意。しかし凛花はプロではない。素人だ。素人が素人の方法で、プロにできなかったことをやった。


「高瀬くん。棲み分けの話をしましょう」


「ああ。ここで。今」


「ここで。工作室で。メンバーの前で」


 四人と久我。五人が工作室に集まった。夕暮れの光。蝉の声。海風。


 久我が椅子を引き寄せた。五人で円を作った。


「七月に私が着任してから二ヶ月。工作室と相談室が同じ学校にある状態が続いています。最初は対立でした。それが対話になった。非公式の助言関係を作った。園田さんのケースでは連携した。今日は依頼者を紹介した。段階的に関係が進んでいます」


 久我の声がプレゼンテーションの声になっていた。穏やかだが構造的。プロの声。


「しかし正式な棲み分けはまだ宣言していません。今日、ここで、正式に。相談室と工作室の関係を定義したい」


「定義する。具体的にどんな形ですか」


 凛花が聞いた。主導権は凛花にある。


「提案します。三つの原則」


 久我がホワイトボードの空きスペースにマーカーで書いた。久我の字。きれいな字。プロの字。


「一。相談室と工作室は、別々の機関として独立を維持する。統合しない。吸収しない。


 二。必要な場合、相互に依頼者を紹介する。相談室で動けない依頼者を工作室に。工作室で専門的対応が必要な依頼者を相談室に。


 三。定期的に非公式の情報交換を行う。依頼者の個人情報は共有しない。方針と手法のフィードバックのみ」


 三つの原則。制度と草の根の共存のルール。


「高瀬くん。これに対して、工作室側から追加や修正はありますか」


「一つだけ」


 俺が立ち上がった。


 ホワイトボードの前に立った。久我の三つの原則の下に。マーカーを持った。


「四。工作室は素人であり続ける」


 書いた。手書きの字。翻訳者の字。久我のきれいな字の下に、俺の字。


「素人であり続ける」


 久我が繰り返した。


「はい。工作室はプロにならない。プロの手法を取り入れることはある。久我先生から教わった傾聴やオウム返しのように。しかし工作室の本質は素人であることだ。訓練を受けていない。資格がない。検証システムがない。壊れることもある。間違えることもある。しかしそれが工作室の力だ」


 声が出ていた。翻訳者の声ではなかった。高瀬恒一の声。二年間の経験から出ている声。


「素人の力とは何か。久我先生に前に言いました。同じ場所に立っていること。プロには作れない距離。しかし今日、もう一つ見つけた」


 凛花を見た。凛花がペンを持ってノートを開いている。記録している。


「今日、凛花が主導した面談。翻訳者なしで、記録者が依頼者の本音を引き出した。久我先生が三週間かけても動かなかった依頼者が、凛花の前で一歩動いた。なぜか」


 久我が聞いていた。四人が聞いていた。


「凛花は怖がっていた。団長を引き継ぐことが。翻訳者がいない工作室を運営することが。怖いと言っていた。先週。俺の前で。参謀が弱音を吐いた」


 凛花の顔が赤くなった。恥ずかしいのだろう。弱音を吐いたことを全員の前で言われるのは。しかし俺は続けた。


「怖がっている人間が、依頼者の前に立った。怖がりながら。震えながら。完璧ではない。翻訳はできない。しかし怖がっているからこそ、依頼者の怖さが分かった。小野寺が正しい答えを出さなきゃいけないと怖がっていることが、凛花には分かった。なぜなら凛花自身も正しい答えを出さなきゃいけないと怖がっていたから」


 同じ場所に立っている。同じ怖さを抱えている。だから届く。


「素人の覚悟とは、怖がりながら前に立つことだ。プロは訓練で怖さを制御する。素人は怖いまま立つ。怖いまま立つから、依頼者の怖さに共鳴できる。共鳴できるから届く。プロの慎重さとは別の力。訓練ではなく経験と恐怖から生まれる力」


 久我が黙って聞いていた。メモを取っていた。プロが素人の言葉をメモしている。


「久我先生。素人の覚悟は、プロの慎重さの代わりにはならない。しかしプロの慎重さでは届かない場所に届く。だから工作室は素人であり続ける。プロにならない。制度にならない。ルールを六つ以上に増やさない。素人のまま、怖がりながら、揺れながら、壊れかけながら、立ち続ける」


 沈黙が落ちた。


 蝉の声。海風。夕暮れの光。


 久我がペンを置いた。


「素人の覚悟は、プロの慎重さより強いことがある」


 久我が言った。自分の台詞を。企画書に書いてある言葉ではなく、今この瞬間に生まれた言葉として。


「高瀬くん。あなたの四つ目の原則を受け入れます。工作室は素人であり続ける。それを相談室は尊重します」


「ありがとうございます」


「しかし一つだけ追加させてください」


「聞きます」


「素人であり続けることと、無責任であることは違います。素人であっても、安全装置は必要です。内部のチェック機能。凛花さんという安全装置。外部のチェック機能。相談室。その二つがある限り、素人であることを尊重します」


「受け入れます」


 合意が成立した。


 四つの原則。独立の維持。相互紹介。非公式の情報交換。そして素人であり続けること。


 凛花がノートに書いた。全文。四つの原則を。日付を入れた。九月一日。署名はない。しかし五人がこの部屋にいたことが記録されている。


「久我先生。一つだけ確認します」


 蒼が口を開いた。今日のミーティングで初めて発言した。


「相談室の利用者数と工作室の依頼数に三倍の差があります。この差が広がった場合、学校側から工作室の存続について問い合わせがある可能性があります。そのとき久我先生は」


「工作室の存在を支持します」


 久我が即答した。


「今日見たものが証拠です。翻訳者なしで、記録者の力だけで、依頼者が動いた。相談室では三週間かけても動かなかった子が。数字では測れない価値がここにある。学校に聞かれたら、そう答えます」


 蒼の表情が変わった。安堵。データアナリストが数字以外の証拠を受け入れている。


「ありがとうございます」


 蒼が頭を下げた。深く。先週、境界を越えかけた人間が、プロに助けられた。数字で工作室を守ろうとして暴走した人間が、プロの言葉で工作室を守ってもらえた。


 久我が帰っていった。本校舎の方向へ。渡り廊下を越えて。


 ドアの前で振り返った。


「高瀬くん。一つだけ」


「はい」


「素人の覚悟。いい言葉です。しかし素人の覚悟で壊れたとき、プロの手が必要になる。そのときは遠慮なく来てください」


「行きます」


「では。九月から、よろしくお願いします」


「よろしくお願いします」


 久我が去った。


 四人が残った。


「先輩」


 凛花が俺を見た。目が赤い。泣いてはいない。しかし赤い。


「先輩が後ろにいてくれたから、前に立てました」


「俺は何もしていない。翻訳しなかった」


「翻訳しなかったことが大きかったんです。先輩が翻訳したら、私の前に立つ意味がなかった。先輩が黙っていてくれたから、私の声が届いた」


「お前の力だ」


「先輩のバックアップがあったからです。一人だったら震えて声が出なかった」


「震えていたのか」


「震えていました。手が。ノートを持つ手が。ペンの字が少しだけ乱れています。見ますか」


「見ない。お前の記録はお前のものだ」


 凛花が笑った。泣きそうな顔で。前作では見なかった顔。凛花が泣きそうになりながら笑う顔。


「恒一」


 陽太が腕を組んでいた。


「素人の覚悟。いいスピーチだったな」


「スピーチじゃない。本音だ」


「本音だから良かったんだ。翻訳者の言葉じゃなかった。恒一の言葉だった」


「ああ。翻訳じゃなかった」


「本文だったな」


 陽太が笑った。前作の凛花の言葉。設計図ではなく本文を書け。今日の俺のスピーチは本文だった。設計していない。準備していない。素手で出した言葉。


 帰り支度。


 四人で工作室を出た。廊下。


 彩音がいた。


 廊下ではなく、工作室のドアの外。立っていた。ドアが開いているから、中の話は全部聞こえていた。


「聞いてたのか」


「聞いていました」


「いつから」


「小野寺さんの面談から。全部」


 彩音が俺を見た。壁がなかった。いつもの壁が。丁寧語の壁。毒舌の壁。防御の壁。全部消えていた。


 壁がない彩音を見たのは初めてだった。


「高瀬さん。素人の覚悟。あれは本文でした」


「ああ」


「十五回目の中で、一番良かった。いえ。十五回の個人的な言葉ではなくて。もっと大きい。工作室全体に向けた本文でした」


「カウントは」


「カウント外です。個人に向けた言葉ではなかったので。工作室に向けた言葉。久我先生に向けた言葉。全員に向けた言葉。カウント外ですが、記録します。私のノートに」


 彩音のノート。俺の言葉が全部記録されている。カウント内もカウント外も。


「瀬川。一つ聞いていいか」


「はい」


「壁がない」


「え」


「いつもの壁がない。毒舌の壁。丁寧語の壁。今日は全部消えている。なぜだ」


 彩音の顔が赤くなった。耳ではない。頬。頬が赤い。前髪の隙間から見える耳も赤い。


「素人の覚悟を聞いたからです。怖がりながら前に立つ。壊れかけながら立ち続ける。あれを聞いて、壁を持っているのが馬鹿馬鹿しくなりました」


「馬鹿馬鹿しい」


「先輩が素手で立っているのに、私が壁の後ろに隠れている。不公平です」


 先輩。


 三度目ではない。もう数えていない。しかし今日の「先輩」は修正されなかった。「高瀬さん」に言い直さなかった。そのまま放置された。


「先輩」


 もう一度。修正しない。


「先輩。壁を外します。今日から」


「壁を外す」


「全部ではない。少しだけ。先輩が素手になれるなら、私も壁を薄くできる。対等に」


「対等」


「はい。批判者でも観察者でも協力者でもなく。対等な人間として。壁なしで」


 翻訳不能。


 彩音の言葉を翻訳する脳が動かなかった。動こうとしなかった。翻訳の精度がゼロなのではない。翻訳する必要がなかった。彩音の言葉がそのまま届いた。加工不要。変換不要。壁がないから。


「瀬川。いや」


「はい」


「彩音」


 名前を呼んだ。初めて。


 彩音の目が大きくなった。一瞬。すぐに戻った。しかし頬の赤さは消えなかった。


「彩音。壁なしで。受け取る」


「受け取ってください」


 二人で黙った。廊下。夕暮れの光。蝉の声が細い。九月の蝉。夏の名残。


 陽太と凛花と蒼は先に帰っていた。いつの間にか。空気を読んで去ったのだろう。コミュ力お化けが仕切って、参謀が同意して、データアナリストが従った。


 廊下に二人きりだった。


「彩音。梅雨明けの理由は聞いた。本文の人の近くにいたかったと。安心したと。それはカウントの十四回目だった」


「はい」


「あの後、お前は言った。もう少し待ってくれと。揺れながら歩けるようになってからと」


「はい」


「歩けるようになったか。俺は」


「歩けています。今日の小野寺さんの面談を後ろで見ていた先輩は、歩けていました。凛花さんに任せて、自分は黙って。それは揺れながらでも歩いている人の姿でした」


「では」


「はい」


「お前の答えを聞いていいか。近くにいていいと確認した後、どうするつもりかと聞いた。もう少し待ってくれと言った。今は」


 彩音が五秒黙った。窓の外を見た。九月の海。夏の青が少しだけ秋の青に変わりかけている。


「今日は言いません」


「まだか」


「まだです。しかし近い。とても近い。先輩が本文を書いたとき」


「本文」


「凛花さんに約束したんですよね。卒業までに本文を書くと。その本文が書けたとき、私も答えます。先輩の本文を読んでから」


「俺の本文を読んでから答える」


「はい。先輩が素手で、翻訳でも設計でもない言葉を書いたとき。それを読んでから。答えます」


 本文を書く。凛花との約束。彩音もそれを知っている。廊下から全部聞いている。


「分かった。書く。本文を」


「期待しています」


「素人にしては、か」


「いいえ。今日は毒舌なしです。壁を外したので」


 彩音が笑った。壁のない笑み。毒のない笑み。四月に出会ってから五ヶ月。初めて見る笑み。


 ただの笑みだった。きれいだった。


 翻訳不能。しかし翻訳しなくていい。受け取るだけでいい。


「では。明日。工作室で」


「中に」


「中に。廊下ではなく」


 彩音が去っていった。旧部室棟の廊下。夕暮れの光。セミロングの黒髪。


 一人で廊下に残った。


 九月一日が終わろうとしている。新学期の初日。夏の終わりと秋の始まりの境界。


 今日起きたこと。


 凛花が前に立った。翻訳なしで依頼者を動かした。久我が工作室を見学した。四つの原則で共存を合意した。素人の覚悟。怖がりながら立つ力。


 彩音が壁を外した。名前を呼んだ。彩音と。


 本文を書く約束が二人分になった。凛花と彩音。凛花は引き継ぎのピースとして。彩音は答えの条件として。


 翻訳者の本文。高瀬恒一の本文。翻訳でも設計でもない言葉。


 まだ書けていない。しかし書くものが見え始めている。朧げに。


 彩音に向けて。名前のない感情を。名前をつけないまま。本文として。


 帰り道。海沿い。九月の夕暮れ。蝉が細く鳴いている。空が高い。秋が近い。


 前半が終わった。


 四月に始まった工作室の二年目。蒼が入部し、彩音が現れ、園田が帰還し、久我が来た。翻訳の副作用。制度と草の根。数字の圧力。蒼の暴走。凛花の重圧。陽太の恋。そして翻訳者の、名前のない感情。


 全部が前半に詰まっていた。


 後半が始まる。九月から。


 本文を書く。卒業までに。それが後半の翻訳者の仕事だ。翻訳ではない仕事。しかし翻訳者にしかできない仕事。


 自分を翻訳する。自分の言葉で。自分の感情を。


 翻訳者が最後に翻訳するのは、自分自身だ。


 九月の夜。蝉。星。潮の匂い。秋の風。


 後半が始まる。

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