第22話 蒼の最適化
第22話 蒼の最適化
蒼がSNSに投稿した「工作室の実績紹介」は、過去の依頼者の物語だった。
九月の第三週。 月曜日の朝。
教室に着く前に スマホが振動した。凛花からだった。朝の七時四十分。 凛花がこの時間にメッセージを送ることは稀だ。凛花は朝型だが 連絡は放課後に回す。緊急以外は。
『高瀬先輩。 至急確認してください。蒼くんが投稿しています。学校のSNS掲示板に。 承認前に』
承認前に。
三段階承認制。 蒼が案を作成。凛花がチェック。俺が最終判断。先週 この仕組みを作った。蒼は 「約束します。確認前には動きません」と言った。
約束を 破った。
スマホで学校の掲示板を開いた。 朝凪高校の生徒が使うSNS掲示板。匿名・実名どちらでも投稿できるプラットフォーム。
投稿があった。 星野蒼の実名で。時刻は 今朝の六時半。俺が起きる前に。凛花が気づく前に。
タイトル:「恋路工作室の活動紹介 実績と方針」
本文を読んだ。 心臓が止まりかけた。
前半は 活動方針の紹介。先週、承認に向けて準備していた内容。「恋の問題を、同じ目線で一緒に考える場所」。 ここまでは問題ない。
後半が 問題だった。
「実績紹介」。 過去の依頼を、匿名化した形で紹介していた。
「ケース1:推し活と恋愛の混同に悩む女子生徒。工作室がSNS分析と翻訳を組み合わせて 感情の区別を支援。結果:自力で感情に名前をつけることに成功」
河合だ。 名前は出していない。学年もクラスも書いていない。だが 「推し活と恋愛の混同」「SNS分析」 朝凪高校で推し活の相談を受けた場所は工作室しかない。河合の周囲の人間なら 誰のことか分かる。
「ケース2:親友の恋を応援できない苦悩。第三の選択肢 応援しないが妨害もしない を見つけることで自己受容に至る」
長谷だ。 「親友の恋を応援できない」。「第三の選択肢」。 長谷の親友なら。長谷のクラスメートなら。分かる。
「ケース3:SNS上の恋人とのリアルでの初対面。共通の場を設計し、安全な遭遇を実現。結果:リアルでの関係構築に移行」
小林だ。 「SNS上の恋人」「共通の場を設計」。 小林が波の音カフェに行ったことを知っている人間なら。一発だ。
三件。 三件分の依頼者の物語が。匿名化 の名のもとに。学校の掲示板に。今朝から。
凛花のメッセージが続いていた。
『先輩。 もう閲覧数が二十を超えています。朝の通学時間帯です。 コメントがつき始めています』
コメントを見た。
「ケース1って推し活の子でしょ? ○年の」
「ケース2 応援できない子って△△ちゃんかな」
「ケース3はSNSで付き合ってる子 一年にいるよね」
特定が 始まっていた。
スマホを握り締めた。 手が震えている。怒り ではない。恐怖だ。依頼者のプライバシーが 崩壊しかけている。工作室に来たことを知られたくない人間もいる。相談内容を知られたくない人間もいる。 全部が、掲示板の上で 裸にされかけている。
『凛花。 蒼に連絡しろ。今すぐ消させろ。 俺も学校に着いたら蒼を見つける』
『了解です。 連絡します。ただ先輩 蒼くん、まだ返信がありません。既読 もついていません』
既読がつかない。 寝ているのか。それとも 意図的に無視しているのか。
校門をくぐった。 教室には行かなかった。一年C組に 直行した。
一年C組の教室。朝のHR前。
蒼は いなかった。席が空いている。 鞄が置いてある。登校はしている。だが教室にいない。
廊下を 走った。旧部室棟に向かって。 蒼がいるとしたら。工作室だ。
旧部室棟。暗い廊下。 蛍光灯が三本に一本切れている。走る足音が反響する。
工作室のドア。 開いていた。鍵は 俺が持っている。鞄を置いたまま ドアを開けっ放しにして蒼は去ったのか。いや 工作室のスペアキーが凛花にある。凛花が朝来て開けた のか。
中を見た。 蒼がいた。
PCの前に座っていた。画面を見ていた。 掲示板の投稿。自分の投稿。 コメントが増え続けている画面を。
「蒼」
声が 低かった。翻訳者の声ではない。団長の声だ。
蒼が 振り返った。
表情が いつもと違った。無表情 ではなかった。目が 開いている。大きく。データ屋の冷静な目ではない。 何かを見てしまった目。自分がやったことの結果を リアルタイムで見てしまっている目。
「高瀬先輩 」
「消せ」
「え 」
「今すぐ消せ。 投稿を。全部」
「でも 匿名化してあります。個人は特定できない はず 」
「特定されてる。 コメントを見ろ。もう始まってる」
蒼が 画面を見た。コメント欄。 「○年の」「△△ちゃんかな」 特定の試みが並んでいる。
蒼の目が 動いた。コメントを追っている。データを読む目 ではなかった。もっと 焦った目。想定外のデータ。予測していなかった結果。
「これは 匿名化 したのに 」
「匿名化してもダメだ。 お前がデータを見ているとき その先にいる人間を見ていない。データ上は匿名でも リアルでは文脈がある。学校の中で 推し活の相談をした女子。SNSの恋人と会った一年生。 分かる人には 三秒で分かる」
蒼の手が 震えていた。キーボードの上で。
「消します 」
「消せ。 今すぐ」
蒼が 投稿の削除ボタンを押した。確認ダイアログ。「削除しますか?」。 「はい」。
投稿が消えた。 画面から。だが スクリーンショットを撮った人間がいるかもしれない。コメントを読んだ人間の記憶は 消えない。デジタルの投稿は消せても 人間の記憶は消せない。
「消し ました」
蒼の声が 掠れていた。
凛花が 工作室に入ってきた。走ってきたのだろう。息が 上がっていた。制服のリボンが乱れている。ノートを 胸に抱えて。
「蒼くん !」
凛花の声が 高かった。怒り だ。凛花が声を荒げるのは 珍しい。参謀は冷静だ。記録者は客観的だ。 だが今、凛花は怒っている。
「この投稿 今すぐ消して 」
「消しました。 さっき」
凛花が 画面を見た。投稿がないことを確認した。 だがコメント欄のスクリーンショットが 凛花のスマホにある。
「消したからいい じゃないんです。蒼くん」
「柊先輩 」
「承認前に投稿した。 三段階承認制を無視した。高瀬先輩が『確認前に動くな』と言った。あなたは約束した。 約束を破った」
「活動方針だけなら 問題ないと思って 」
「活動方針 だけじゃなかった。実績紹介を入れた。 先輩が棄却した案を。先輩が『持っておくな。捨てろ』と言った案を」
蒼が 黙った。
凛花の目が 鋭かった。参謀の目。 だがそれ以上に 仲間の目。裏切られた仲間の目。
「あなたはデータを見ている。 でもその先にいる人を見ていない」
「見て います。匿名化 」
「匿名化なんて 意味がない。分かる人には分かるんです。 あなたがデータとして処理しているものの先に 生身の人間がいる。河合さんがいる。長谷さんがいる。小林くんがいる。 相談内容を知られたくない人間が」
蒼の口が 動かなくなった。反論が 出てこない。
「蒼くん。 あなたがやったことは 依頼者の情報を 本人の同意なく 利用したことです」
「同意 は 」
「取っていない ですよね。河合さんに聞きましたか。『あなたの相談をSNSで紹介していいですか』と。長谷さんに聞きましたか。小林くんに 」
「......聞いて いません」
「聞いていない。 本人の同意なく。情報を利用した。 方法が違うだけで」
凛花が 息を吸った。次の言葉を 言うために。
「忘却屋と 同じです」
工作室が 凍った。
忘却屋。 影山透。去年 この学校で。情報を武器にして 人を傷つけた男。工作室と対立した。善意から始まった。 だが方法を間違えて 暴走した。
六月に 凛花が蒼にこの名前を出した。蒼がサブアカウントを掘ろうとしたとき。あのときは 「似ている」と言った。「方法が違うが構造が同じ」と。
今回は 「同じ」と言い切った。
蒼の目が 変わった。
データ屋の目でも。冷静な目でも。焦った目でもない。 壊れかけた目。自分がやったことの重さを 理解した目。
「僕は 忘却屋と 」
「同じことをした。 情報を、本人の同意なく利用した。善意で。助けるために。工作室を守るために。 動機は違う。方法も違う。でも構造は 同じです」
俺は ホワイトボードの前に立っていた。
「蒼」
声を出した。 低い声。団長の声。
「去年 この学校で起きたことを。もう一度話す」
蒼が 俺を見た。
「影山という男がいた。 工作室の共同創設者だった。翻訳者 ではなく。情報を集めて分析する人間だった。お前に 似ていた」
「僕に 」
「ああ。 データが得意で。人の行動パターンを数字で予測できた。蒼と 構造が似ていた。だが影山は 情報を武器にした。忘却屋 という名前で。人の秘密を集めて 『忘れさせる』サービスを始めた。善意からだった。だが 秘密を握ることが力になった。力が暴走した」
蒼は 黙って聞いていた。
「影山は 善意で始めた。人を助けたかった。でも方法を間違えた。同意なく情報を使った。結果 人が傷ついた。工作室も壊れかけた」
「壊れ 」
「壊れた。 桐生先輩が降板した。俺が壊れた。 全部、善意の暴走が原因だった」
蒼の手が 膝の上で握り締められていた。指が白い。 園田の動作。彩音の動作。 感情を抑えるとき 人は手を握る。
「蒼。 お前がやったことは、影山と同じだ。方法が違うだけだ。お前はSNSに投稿した。影山は秘密を集めた。 だが本質は同じだ。本人の同意なく 情報を使った。善意で」
「善意 」
「善意だったのは分かってる。 工作室を守りたかった。認知度を上げたかった。依頼を増やしたかった。 全部分かってる。 だが」
声を 強くした。
「善意であることは 方法を正当化しない。善意で人を傷つけることが 一番止めにくい。悪意なら 見抜ける。防げる。だが善意は 見えにくい。本人も気づかない。 お前は気づいていなかった。自分がやっていることが 依頼者を傷つける可能性があることに」
蒼は 何も言わなかった。
「約束を 破った。三段階承認制を無視した。俺が棄却した案を実行した。 お前は今朝、三つのルールを破った」
「三つ 」
「承認前の投稿。棄却された案の実行。 そして、依頼者の同意なき情報利用。 三つだ。どれか一つでも 重い」
蒼の目が 潤んでいた。データ屋の目に 水が溜まっている。
「高瀬先輩。 僕は 」
「言い訳は 聞かない。お前が何を考えていたかは 分かってる。翻訳者だから。 工作室が潰れるかもしれないと思った。認知度を上げなければ と焦った。三段階承認制では間に合わないと思った。だから一人で動いた。 全部、読める」
「読める なら 」
「読めるから 怒ってる」
蒼が 俺を見た。
「お前の善意を 理解した上で。怒ってる。善意だったから 怒ってる。善意が 誰かを傷つけかけたから」
「傷つけ 」
「河合は 推し活の相談をしたことを知られたくなかったかもしれない。長谷は 親友の恋を応援できなかったことを知られたくなかったかもしれない。小林は SNSで付き合っていることを知られたくなかったかもしれない。 お前は、聞いたか? 聞いていない。 勝手に決めた。大丈夫だろう と」
蒼の涙が 落ちた。一滴。頬を伝って。 データ屋が データで処理できない感情を。流している。
投稿は 消した。被害は まだ確定していない。コメントで名前が出ていたが 確定はしていない。推測の段階だ。 だがスクリーンショットが残っていたら。拡散されていたら。
「凛花。 コメントの状況は」
「削除前のコメントは 十二件。うち依頼者の特定を試みるものが五件。ただし 名前が出ているのは推測レベルです。確定情報は出ていません。 早く消せたので。被害は 最小限に抑えられたと思います」
「最小限 か」
「ゼロではないです。 コメントを読んだ人間がいる。推測を記憶した人間がいる。 でも、投稿が消えた以上 確認しようがない。時間が経てば 忘れる」
忘れる。 忘却。忘却屋の名前の由来だ。情報は 時間が経てば忘れられる。だが 忘れられるまでの間に 傷つく人間がいるかもしれない。
「蒼」
俺は 声のトーンを 少しだけ落とした。叱責 から。対話 に。
「投稿は消した。被害は たぶん最小限で済んだ。 だが、お前がやったことの重さは 変わらない。消したから許される わけではない」
「......分かっています」
蒼の声が 小さかった。いつもの事務口調が 消えていた。声が 裸だった。
「分かっています けど。 僕は 工作室を 守りたかった だけなのに」
「守りたかった」
「はい。 依頼が減って。認知度が下がって。 工作室がなくなるかもしれないと思って。 なくなったら 僕の居場所が 」
蒼が 止まった。自分で言った言葉に 自分で気づいた。
居場所。 蒼にとって工作室は 居場所だった。データを使って人を助けられる場所。データ屋として 価値がある場所。 それがなくなるかもしれない。
彩音が俺に言った。「それは依存です」。 蒼も 同じだ。工作室に依存している。工作室がなくなったら 自分の価値がなくなると思っている。
園田が設計図に依存していたように。俺が工作室に依存しているように。 蒼もまた、工作室に依存している。
全員が 同じ構造を抱えている。
「蒼」
「はい 」
「居場所を守りたかった のは分かる。俺も 同じだ。工作室がなくなるのが怖い。 お前だけじゃない」
蒼が 顔を上げた。
「でも 居場所を守るために そこに来てくれた人間を傷つけたら。守った意味がない。 依頼者は工作室を信じて来た。相談内容は秘密だと信じて。 その信頼を お前が壊しかけた」
「信頼 を 」
「工作室の原則②。匿名依頼は受けない の裏にあるのは、依頼者の情報を守る ということだ。名前を聞く代わりに 情報を守る。それが原則の精神だ。 お前は原則の精神を 破った」
蒼の涙が また落ちた。二滴目。三滴目。 声は出さない。静かに泣いている。データ屋が データでは処理できないものに 打ちのめされている。
凛花が 蒼の隣に。立っていた。 怒りは消えていた。代わりに もっと複雑な表情。怒りと 心配と 理解が混ざった表情。
「蒼くん」
凛花の声が 静かだった。さっきの怒声とは 別人の声。
「あなたが工作室を守りたかったのは 知ってます。だから怒ったんです」
蒼が 凛花を見た。涙で 視界がぼやけている。
「守り方を 間違えた。 それだけです。守りたい気持ちは 間違っていない。方法が 間違っていた」
「方法 が 」
「データで全部を解決しようとした。認知度。宣伝。実績紹介。 全部データの発想です。でも工作室は データだけでは守れない。依頼者との信頼で 守るんです」
蒼は 黙って泣いていた。声を出さず。肩が 震えていた。
俺は それ以上は言わなかった。叱責は もう十分だ。これ以上言葉を重ねても 蒼の耳には入らない。泣いている人間に 正論を浴びせても意味がない。
翻訳者は 泣いている人間を急かさない。
三分。 蒼が泣き止んだ。 いや、泣き止んだのではない。涙を 止めた。意思で。データ屋の自己制御が 感情を押し込めた。
「......すみません でした」
声が 掠れていた。
「投稿は削除しました。 依頼者への被害を確認します。河合さん、長谷さん、小林くんに 連絡して 」
「連絡は 凛花がする。お前ではなく」
「僕じゃ 」
「お前が連絡したら 依頼者は怖がる。自分の情報を漏らした人間が 直接連絡してきたら。 凛花が 参謀として 連絡する。状況を説明する。謝罪する。 お前の名前は出さない」
蒼の目が 見開かれた。
「僕の名前 出さない ?」
「出さない。 凛花から工作室として謝罪する。『投稿があったが、すぐに削除した。依頼者の情報は守られている。ご心配をおかけして申し訳ない』 それだけだ」
「でも 僕がやったんです。僕が 」
「お前がやった。 だが依頼者に必要なのは犯人探しじゃない。安心だ。『情報は守られた』 その一言が必要だ」
蒼は しばらく黙っていた。
「......了解 です」
「蒼」
「はい」
「お前を 工作室から追い出すつもりはない」
蒼の目が また揺れた。
「追い出さ ない ?」
「追い出さない。 お前は間違えた。方法を。 だが、間違えた人間を追い出したら 工作室は成り立たない。去年 俺も間違えた。翻訳を捏造した。原則⑤に引っかかって離脱した。 だが追い出されなかった。桐生先輩が 待っていてくれた。復帰するまで」
「桐生先輩 が」
「ああ。 工作室は壊れたとき 追い出すのではなく。更新する。お前が間違えた方法を 正しい方法に更新する。 それが工作室のやり方だ」
蒼は 目を閉じた。五秒。 開いた。涙は乾いていた。
「高瀬先輩 。僕は 工作室を守りたかっただけです」
「知ってる」
「知って くれているなら 」
「知ってるから怒った。凛花も 知ってるから怒った。 知らない人間は怒らない。どうでもいい人間には怒らない。 お前が大事だから 怒った」
蒼の口が 動いた。何かを言おうとして 言葉が出なかった。データに ない言葉が必要な瞬間だった。
凛花が 蒼の肩に 手を置いた。軽く。 蒼が肩を跳ねらせた。人に触れられることに 慣れていない。
「蒼くん。 おかえりなさい とは、まだ言えません。謝罪が先です。依頼者への。 でも」
「でも ?」
「工作室の席は 空けてあります。あなたの分」
蒼が また泣きそうになった。泣かなかった。自己制御で 堪えた。
「......僕は しばらく 考えたい です」
「考える 時間が必要か」
「はい。 何を間違えたのか。なぜ間違えたのか。 データでは出ない答えを。 自分で考えたい」
「分かった。 考えろ。いくらでも。戻ってきたいときに 戻ってこい」
蒼が PCを閉じた。鞄を持って。 立ち上がった。
ドアに向かった。 ドアの前で。立ち止まった。振り返った。
「高瀬先輩。 柊先輩。 すみません でした」
頭を下げた。 深く。
「工作室 を。好きです。 好きだから。守りたかった」
好き と。蒼が。工作室を好きだ と。言葉にした。データ屋が 感情を言語化した。翻訳者の力ではなく 自分の口で。
蒼が 出ていった。足音が 廊下に消えていく。
ドアが閉まった。
三人が残った。 俺と凛花と陽太。
陽太は ずっと黙っていた。メロンパンに手をつけていない。 陽太が黙っている場面は重い。陽太が喋らないのは 場が重すぎて言葉が入り込む隙間がないとき。
「恒一」
陽太が ようやく口を開いた。
「追い出さなかった な。蒼を」
「追い出す理由がない。 間違えたから追い出す なら。俺も去年追い出されてる」
「去年は 桐生先輩が待ってた。今回は 恒一が待ってる。 同じだな。構造が」
「同じだ。 工作室は壊れて更新する。何度でも。 蒼が壊れた。更新する。蒼の中で」
凛花が ノートを開いた。ペンを持った。 手が震えていた。怒りの余韻 ではない。疲労だ。朝から 全力で対応していた。投稿の発見。蒼への連絡。恒一への報告。 参謀の仕事を全うしていた。
「記録 します」
凛花の声が 掠れていた。
「 蒼の暴走。九月第三週月曜日。承認前にSNS掲示板に工作室の実績を投稿。依頼者の匿名化が不十分で特定の試みが発生。閲覧数 二十以上。特定コメント 五件。投稿は削除済み。依頼者への直接的被害 未確認(凛花が確認中)」
ペンが止まった。 次の行。
「 所見:蒼くんの動機は善意。工作室の認知度向上と存続のため。だが方法が 原則②の精神に反する。三段階承認制を無視。棄却案を実行。 蒼くん自身の依存構造が背景にある。工作室への居場所依存。 対応:蒼くんは自主離脱(一時的)。復帰は本人の意思に委ねる」
パタン。
「凛花。 依頼者への連絡、頼む」
「はい。 今日中に。河合さん、長谷さん、小林くんに 」
「内容は さっき言った通り。投稿があった。すぐに削除した。情報は守られている。ご心配をおかけして申し訳ない。 蒼の名前は出すな」
「出しません。 工作室として謝罪します」
凛花が ノートを鞄に入れた。立ち上がった。 教室に戻る。HRが始まる。
「先輩。 一つだけ」
「何だ」
「蒼くんは 戻ってきますか」
「来る。 六月のときも三日で戻った。今回は もう少しかかるかもしれない。だが戻る」
「根拠は ?」
「蒼が 『好きだ』と言ったから。工作室が好きだと。 好きなものを捨てられる人間は いない」
凛花は 少しだけ、口角を上げた。
「先輩。 それ 翻訳者の分析 ですか。それとも 」
「友達の 直感だ」
「友達 」
「蒼は もうメンバーだ。一年生の新入部員じゃない。 友達だ。壊れても 戻ってくる友達」
凛花が 頷いた。
「待ちましょう。 彼が自分で戻ってくるのを」
凛花が出ていった。
俺と陽太が残った。
「恒一 メロンパン食うか」
「......食う」
陽太がメロンパンを投げてきた。 受け取った。齧った。甘い。 いつもの味。安心する味。
「恒一。 桐生先輩に報告するか」
「する。 夜にメールする」
「何て書く」
「蒼が暴走した。止めた。更新中 と」
「シンプルだな」
「シンプルでいい。 桐生先輩は細かい報告を嫌う。結論だけでいい」
陽太が メロンパンを齧った。 二人で。工作室で。朝のHR前の 静かな時間。蒼がいない。凛花もいない。 二人だけ。
「恒一」
「何だ」
「お前 怒ったな。久しぶりに」
「怒った。 蒼に」
「前に怒ったのは いつだ」
「......去年。影山のとき」
「影山のとき か。あのときも 善意の暴走だった。今回も。 お前、善意に怒れるんだな」
「善意に 怒るのが一番辛い。悪意なら シンプルに怒れる。善意は 理解できるから。共感できるから。 共感しながら怒るのは 体力がいる」
「体力 か。メロンパン、もう一個食え」
もう一個 投げてきた。二個目。朝からメロンパン二個。 健康に悪い。だが 今日は必要だ。糖分が。
「陽太」
「何だ」
「蒼は 大丈夫だと思うか」
「大丈夫だろ。 泣いたから」
「泣いたから ?」
「泣ける人間は 大丈夫だ。泣けない人間のほうが危ない。 去年の影山は泣かなかった。だから壊れた。蒼は泣いた。 泣けるなら 回復できる」
泣けるなら 回復できる。陽太の言葉は いつもシンプルで、正確だ。
「恒一。 お前は 泣いたか?」
「泣いてない」
「泣いてないな。 いつも。去年も泣かなかった。 大丈夫か」
「大丈夫 だ。たぶん」
「たぶん か。お前が泣くのは いつだろうな」
「泣かない。 翻訳者は」
「翻訳者だから泣かない ってルールは。五原則にはないぞ」
「......うるさい」
メロンパンを齧った。甘い。 目は乾いている。泣いていない。
だが 心臓は。少しだけ 痛かった。蒼が泣いたのを見て。蒼が「好きだ」と言ったのを聞いて。 翻訳者は泣かない。だが 痛みは感じる。
工作室が また壊れた。蒼が暴走した。依頼者のプライバシーが危うくなった。 六月の小さなヒビが。今日 割れた。
だが 修復できる。投稿は消した。依頼者に連絡する。蒼は考える時間を取る。 工作室は更新する。何度でも。
壊れた数だけ 強くなる。
......本当に そうか?
分からない。 壊れるたびに。本当に強くなっているのか。ただ 慣れているだけではないのか。壊れることに。
「恒一。 考えすぎるな。今日は メロンパン食って。凛花の連絡結果を待って。蒼が考える時間を 待つ。 それだけだ」
「それだけ か」
「それだけだ。 シンプルに」
シンプル。 陽太のシンプルさに。何度救われただろう。
「行くか。 HRが始まる」
「ああ」
工作室を出た。鍵をかけた。 ドアが閉まった。
暗い廊下。蛍光灯が三本に一本切れている。 いつもと同じ。壊れているのに 修理されない蛍光灯。だが 残りの二本で。廊下は歩ける。
暗くても。 足元は見える。
蒼が 戻ってくるまで。工作室は 三人で回す。俺と陽太と凛花で。 去年 陽太が離脱したとき、俺と凛花で回したように。
蒼がいない間 工作室は止まらない。
止まらない。
何があっても。
夜。自室。
桐生先輩にメールを打った。
『桐生。 蒼が暴走した。SNSに依頼者の実績を投稿した。匿名化が不十分で特定されかけた。 すぐに消した。依頼者への被害は最小限。蒼は自主離脱中。 更新中だ』
三十分後。返信。
『 読んだ。更新中なら大丈夫だ。 一つ聞く。お前は 蒼を追うのか、待つのか』
『待つ。 蒼が自分で戻ってくるのを』
『 それでいい。追うな。待て。桐生語録より:答えは急ぐな。 あと、凛花を褒めろ。朝一番に気づいたんだろう。参謀が機能した証拠だ。凛花は 私より優秀だ。伝えておけ』
『伝える。 ありがとう、桐生』
返信は 来なかった。いつも通り。
スマホを閉じた。 天井を見た。九月の夜。
蒼が 泣いた。「工作室が好きだ」と言った。 善意で暴走した。善意で 人を傷つけかけた。
善意の暴走。 工作室の 永遠のテーマ。去年も。今年も。 来年も。
凛花が ver.3を書くとき。六番目の原則に 何を入れるのか。アフターケアだけではなく。 善意の暴走を止める仕組みも 必要かもしれない。
だがそれは 凛花が決めることだ。俺が 先回りして決めることじゃない。
場を作る。場を手放す。 蒼にも。同じだ。蒼が考える場を 用意した。「戻ってきたいときに戻ってこい」。 あとは 蒼が自分で。
翻訳者は 待つ。
目を閉じた。 疲れていた。朝から ずっと。善意に怒るのは 体力がいる。
蒼が 戻ってくるまで。
何日かかっても。 待つ。




