第21話 依頼が減っている
第21話 依頼が減っている
今月の依頼件数は、去年の三分の一だった。
九月。 夏休みが終わった。
気がつけば 季節は秋に変わりかけていた。まだ暑い。残暑だ。蝉が力なく鳴いている。だが朝晩の空気が わずかに涼しくなった。海の色が 夏の激しい青から、少し落ち着いた青に変わっている。
夏休みの一ヶ月間。 工作室は閉まっていた。旧部室棟は施錠されて、六畳の部室は誰もいない空間だった。ホワイトボードの文字だけが 一ヶ月間、埃を被って待っていた。
図書室では 彩音と三回会った。偶然。偶然のフリをした必然。お互い自習をしていて 隣の席に座って 何も話さなかった日もあった。話した日もあった。 サンドイッチの中身を報告し合った日もあった。
白いページには まだ何も書けていない。鉛筆すら持てていない。 だが白いページが存在することは 認めたままだ。夏の間 消えなかった。
二学期が始まった。始業式。 教室に戻って。制服を着て。 日常が再起動した。
工作室も再起動した。鍵を開けて。ドアを押して。蝶番が軋んで。 六畳。スチールデスク。パイプ椅子。ホワイトボード。窓から海。全部 一ヶ月前のまま。埃だけが 増えていた。
凛花が掃除した。蒼がPCを開いた。陽太がメロンパンを持ってきた。 日常に戻った。
だが 数字だけが、戻らなかった。
九月の第二週。水曜日。放課後。
月次報告。 凛花がノートを開いた。三冊目。
「九月の報告 します」
声が 固かった。いつもの凛花より テンションが低い。数字を読み上げるのが 気が重いのだ。
「九月第一週から第二週まで。新規依頼 二件。去年の同時期は 六件でした」
二件。 去年の三分の一。
「内訳。一件は軽微な相談 好きな人の連絡先の聞き方。陽太先輩が対応して完了。もう一件は 二年女子の片想い相談。恒一先輩が翻訳して 進行中です」
「進行中 の一件は?」
「来週、報告に来る予定です。 ただ、大きな設計は必要ない案件です。翻訳と場のアドバイスで 着地すると思います」
二件。 軽微と翻訳。去年は この時期に依頼が重なって、園田の件や日下部の件が並走していた。六畳の工作室がパンクしそうなくらい。 それが今は。二件。
「恋愛相談室のほうは」
蒼が PCを開いた。
「恋愛相談室の利用状況 学校の掲示板に月次報告が出ています。九月の相談件数は 十二件。開設以来最多です」
十二件。 工作室の六倍。
「認知度も上がっています。校内アンケートの結果 恋愛相談室の認知度は89%。工作室は 43%」
43%。 半分以下。
蒼がPCの画面を回した。グラフが表示されている。横軸が月。縦軸が依頼件数。 青い線が恋愛相談室。赤い線が工作室。
青い線は 右肩上がり。赤い線は 右肩下がり。
交差したのは 六月。恋愛相談室が開設された月。 そこから工作室の線が落ちて、相談室の線が上がって。九月には 完全に離されている。
「データを見てください」
蒼の声は事務的だった。 だがいつもの事務口調とは 少し違った。切迫している。
「マーケティングの問題です。認知度が低すぎる。工作室の存在を知らない生徒が 半分以上いる。知っていれば来る人がいるかもしれない。 SNSでの宣伝。ポスターの増設。認知度を上げるべきです」
凛花が ペンを止めた。蒼を見た。
「蒼くん」
「はい」
「数字で存在意義は 測れません」
蒼の目が 動いた。
「来る人が減ったのは 工作室を必要としていない人が増えたから かもしれません。恋愛相談室ができて そっちで足りる人が増えた。それは 悪いことじゃないかもしれない」
「悪いこと じゃない? 依頼が減ることが?」
「はい。 園田さんのことを思い出してください。園田さんは 最後に『ありがとうは最後にします』と言いました。工作室を必要としなくなった。 それが完了でした。 生徒が工作室を必要としなくなることは 成功 かもしれない」
蒼は 口を開きかけて 閉じた。凛花の論理を 処理している。
「でも 存在意義がなくなったら 工作室は 」
「なくなるかもしれない。 それも ありえる」
凛花が 自分で言った。工作室がなくなるかもしれない と。参謀が。記録者が。 三冊目のノートを持っている人間が。
工作室が 静まった。
陽太が メロンパンを持ったまま。黙っていた。中立。 蒼の主張も凛花の主張も、どちらも分かる という顔。
俺は 黙っていた。
「恒一。 お前はどう思う」
陽太が聞いた。
沈黙。 五秒。十秒。
「......分からない」
「分からない って」
「分からない。 蒼の言うことも分かる。認知度が低いなら上げるべきだ。凛花の言うことも分かる。必要とされなくなることが成功かもしれない。 どっちも正しい。どっちも 正しいから、分からない」
団長が 分からないと言った。方針を示せなかった。
蒼と凛花が 俺を見ていた。答えを待っている。 だが答えが出ない。
「......今日は 保留にする。蒼の提案も凛花の意見も 記録しておいてくれ。結論は 出せない。もう少し考える」
「保留 ですか」
「保留だ。 すまない」
凛花がノートに書いた。
「 月次報告。九月。依頼件数:二件(去年同時期比67%減)。恋愛相談室:十二件。認知度:工作室43%、相談室89%。 方針:保留。蒼くんの認知度向上策と凛花の存在意義議論を併記。団長判断 未決」
パタン。 重いパタンだった。
放課後の廊下。
工作室を出て 本校舎に向かう途中。
「高瀬くん」
声が 後ろから。
振り返った。 彩音だった。廊下の窓際に立っていた。 渡り廊下ではない。旧部室棟の廊下。工作室に 近い。物理的距離が また縮まっている。
「瀬川 」
「依頼が減っている そうですね」
直球だった。 彩音が工作室の状況を知っている。どこで 聞いたのか。
「どこで聞いた」
「学校中が知ってます。 恋愛相談室の月次報告に、相談件数が載っています。工作室の件数は 生徒会の予算資料に。非公認活動の実績として」
生徒会の予算資料。 非公認の工作室でも、旧部室棟の施設利用記録が残る。使用頻度が 減っている。数字は隠せない。
「学校中 か」
「はい。 『工作室いらなくね?』という声は 春より増えています」
痛い。 だが事実だ。彩音は事実を言う。いつも。
「高瀬くん。 一つ聞いていいですか」
「聞け」
「工作室が 必要とされなくなったら。あなたは どうしますか」
どうするか。 工作室がなくなったら。
「翻訳者 ではなくなる。団長 でもなくなる。 何者 」
声に出しかけて 止めた。だが彩音は 聞き逃さなかった。翻訳者の耳を持つ人間が、目の前にいる。
「何者 ですか」
「工作室がなくなったら 俺は何者だ。翻訳者じゃなくなる。団長じゃなくなる。 ただの高校三年生に戻る」
「ただの 高校三年生。それは 悪いことですか」
「悪い ことじゃない。だが 」
だが 怖い。工作室がなければ 俺は誰だ。去年 帰国子女として転入してきたとき。日本の高校で 何者でもなかった。桐生先輩に声をかけられて 翻訳者になった。工作室で 居場所を見つけた。
工作室が 俺のアイデンティティになっている。翻訳者であること。団長であること。 それがなくなったら。
「高瀬くん。 それは 依存です」
彩音の声が 静かだった。批判ではない。診断でもない。 共感に近い声。
「園田さんと 同じ構造です。園田さんは工作室の設計図に依存していた。 あなたは工作室そのものに依存している」
刺さった。 正確に。
園田が設計図に依存していたように。 俺が工作室に依存している。工作室がなければ 自分が何者か分からない。翻訳者でも団長でもない自分が 怖い。
「依存 か」
「はい。 善意の依存です。工作室を続けたい という気持ちは善意です。でも 工作室がないと自分が成り立たない のは依存です。 私も 同じでした」
「同じ ?」
「生徒カウンセラーだったとき。 カウンセラーであることが私のアイデンティティでした。人を助けることが 自分の存在証明だった。 助ける相手がいなくなったら。私は 何者でもなくなる。怖かった」
「だから 逃げた?」
「逃げた のではなく。壊れたから 逃げるしかなかった。 でも壊れた理由の一つに。『カウンセラーでなければ自分ではない』という依存が ありました」
彩音が 俺と同じ構造を抱えていた。役割への依存。 「翻訳者でなければ自分ではない」「カウンセラーでなければ自分ではない」。同じだ。
「高瀬くん。 工作室がなくなっても。あなたは あなたです」
「あなたは あなた」
「翻訳者じゃなくても。団長じゃなくても。 高瀬恒一は高瀬恒一です。工作室が あなたを定義しているわけじゃない」
翻訳者でなくても 高瀬恒一。
言葉としては分かる。だが 腹に落ちない。去年一年間 翻訳者として生きてきた。今年 団長として。工作室が 俺の全てだった。
「簡単には 受け入れられない」
「分かっています。 簡単じゃないです。私も まだ受け入れきれていません。カウンセラーじゃない自分を」
彩音が 微かに笑った。自嘲。 だが温かい自嘲。
「でも 考えてみてください。工作室がなくなっても あなたが翻訳者であることは変わらない。場所がなくても。肩書きがなくても。 感情を読んで言葉にする力は あなたの中にあります。工作室が作った力じゃない。あなた自身の力です」
翻訳力は 俺自身のもの。工作室が与えたのではなく 俺が持っているもの。
「工作室は 場を作る場所です。でも翻訳者は 場がなくても翻訳できる。廊下でも。屋上でも。 堤防の上でも」
堤防の上。 帰り道。一人で歩く道。
「工作室がなくなっても 翻訳者は消えません。方法が変わるだけです」
彩音の言葉が しみた。批判者だった人間が 今、俺を支えている。壁の向こうから 手を伸ばしている。壁がなくなったわけではない。 壁の隙間から。
「瀬川 」
「はい」
「ありがとう」
「事実の確認です。 感謝されることは言っていません」
「事実の確認 じゃなくて。本当にありがとう」
彩音の目が 一瞬だけ揺れた。「本当にありがとう」に 反応した。壁の内側が 動いた。
「......では。考えてみてください。工作室が必要かどうか ではなく。あなたが工作室をやりたいかどうか」
やりたいかどうか。 必要かどうかではなく。
彩音が 歩いていった。廊下の向こうに。 今日の足音は 自然だった。音を消していない。
夜。自室。
ベッドに座って スマホを開いた。
桐生先輩に ではなく。もう一人の先輩に。
桐生玲奈。 卒業生。工作室の創設者。大学一年生。 直接会う機会はない。だがメールでは 時々やり取りしている。
メールを打った。
『桐生先輩。 工作室の依頼が減っています。恋愛相談室ができてから。今月は去年の三分の一。存在意義が 分からなくなってきました。 工作室は、必要なんでしょうか』
送信。 深夜。返信は 明日だろう。
だが 三十分後。返信が来た。
『恒一。 遅くまで起きてるな。 依頼が減ってるのは聞いてる。凛花が夏休みに連絡をくれた。v.3の原則を考え中だとも』
凛花が 桐生先輩に連絡していたのか。参謀の情報網は 卒業生にまで及んでいる。
『必要かどうか か。厳しい問いだな。 私の答えはシンプルだ。必要とされなくなることは、成功かもしれない』
凛花と同じことを言っている。 桐生先輩と凛花の思考回路は 似ている。創設者と参謀。
『恋愛相談室ができて 生徒の悩みが制度で吸収されるようになった。工作室に来る必要がなくなった人が増えた。 それは、「恋愛に関する支援が学校に根付いた」ということだ。工作室が種を蒔いた とまでは言わないが。少なくとも 土壌ができた証拠だ』
土壌ができた。 工作室が活動してきたこの学校で。恋愛の悩みを相談することが 当たり前になった。制度として。 工作室は その先駆けだった。非公認の。素人の。
『でも お前がやりたいかどうかは、別の話だ』
やりたいかどうか。 彩音と同じ問い。桐生先輩と彩音が 同じ問いを投げている。
『必要とされるからやるのか。やりたいからやるのか。 必要とされなくなったとき、それでもやりたいなら やればいい。やりたくないなら やめればいい。 どっちも正しい』
やりたいかどうか。
『恒一。 答えは急ぐな。考える時間は、お前が思っているより ある』
答えは急ぐな。 桐生先輩の口癖。久我先生の件でも 同じことを言ってくれた。
『ただし 一つだけ。お前が答えを出す前に 蒼くんが暴走しないように。凛花から聞いてる。蒼くんが認知度を上げたがってるって。 気持ちは分かる。でも方法を間違えると 去年の私の失敗と同じことが起きる。 見ておけ』
桐生先輩が 蒼の動向を知っている。凛花経由で。 そして警告している。「方法を間違えると」。
去年 桐生先輩は。影山の忘却屋を止められなかった。泳がせすぎた。結果 利用者に被害が出た。蒼が同じ構造の過ちを犯さないように と。
『了解です。 蒼は見ておきます。答えは 急ぎません。考えます。先輩 ありがとうございます』
『敬語やめろって言っただろ。 対等だ。お前はもう団長だ』
『ありがとう 桐生』
返信は 来なかった。桐生先輩は 言うべきことを言ったら黙る。合理的だ。いつも通り。
スマホを閉じた。
天井を見た。 九月の夜。窓の外から 虫の声。蝉ではない。鈴虫 だろうか。秋の虫。
必要とされるからやるのか。やりたいからやるのか。
やりたい、のか。俺は。工作室を。
翻訳が好きだ。 それは確かだ。他人の感情を読んで言葉にする。名前のないものに名前をつける。 好きだ。
場を作るのが好きだ。 依頼者が自分で選ぶための場。撤退線。第三の選択肢。 設計するのが好きだ。
仲間がいるのが好きだ。 陽太のメロンパン。凛花のペンの音。蒼のデータ。 四人で回る工作室が好きだ。
好き だ。工作室が。
だが 「好き」と「必要」は違う。好きだから続ける のは、陽太が真白を好きだから会いたいと言ったのと 構造が同じだ。シンプル。 だが工作室は個人の好き嫌いで続けていいものか。
工作室は 依頼者のためにある。俺の「好き」のためにあるのではない。 依頼者が来なくなったら。工作室の存在意義は 俺の「好き」だけになる。
それで いいのか。
分からない。 まだ。
答えは 急がない。桐生先輩が言った。彩音が言った。 考える時間がある。
だが 蒼の件は急ぐかもしれない。桐生先輩が警告した。「方法を間違えると」。 蒼が認知度を上げようとしている。その方法が 間違っていたら。
明日 工作室で。蒼と話す必要がある。
眠れるか 分からない。目を閉じた。虫の声が 鳴り続けている。
翌日。木曜日。放課後。工作室。
四人が揃った。 昨日の月次報告の続きだ。
俺は ホワイトボードの前に立っていた。マーカーを持って。 何を書くか、まだ決まっていない。
「昨日の 保留の件。もう少し話したい」
「高瀬先輩。 結論は出ましたか」
凛花が聞いた。
「結論は 出ていない。だが 方向性は見えてきた」
「方向性 ?」
「工作室が必要とされなくなったら なくなってもいい。凛花が言った通りだ。 だが、必要としている人が一人でもいるなら 続ける。俺がやりたいから ではなく。来る人がいるから」
凛花が 頷いた。
「依頼が減っているのは事実だ。恋愛相談室に流れている人がいるのも事実だ。 だが、ゼロではない。今月 二件来た。その二件の人間は 恋愛相談室ではなく工作室を選んだ。選んだ理由がある。 その理由がある限り、工作室は存在する意味がある」
「ゼロでない限り ですか」
「ゼロでない限り だ」
蒼が 口を開いた。
「高瀬先輩。 それでも認知度は上げるべきだと思います。必要としている人がいるのに 存在を知らなかったら。来られない。 認知度を上げることは、来るべき人に工作室の存在を届けることです。マーケティングではなく 情報提供です」
蒼の言い方が 変わっていた。「マーケティング」から「情報提供」に。 凛花の「競争じゃない」が効いている。
「蒼。 お前の言っていることは分かる。認知度が43%というのは 低い。知らない人に届けるべきだ。 だが方法を選べ。どうやって認知度を上げるかが 問題だ」
「はい。 SNSでの宣伝を提案します。工作室の活動内容を 匿名化した形で紹介して 」
「蒼」
凛花が 声を出した。
「匿名化 で思い出すことがあります。六月に 相談者のサブアカウントを掘ろうとした件。匿名化しても 分かる人には分かる。 宣伝のつもりが、依頼者のプライバシーを脅かす可能性がある」
「今回は 実績紹介ではなく。活動内容の一般的な紹介を 」
「一般的な紹介 でも。具体的すぎれば特定される。抽象的すぎれば意味がない。 バランスが難しい」
蒼と凛花の議論が 白熱しかけている。路線対立。蒼は行動派。凛花は慎重派。 どちらも正しい。
「二人とも 落ち着け」
俺が 割って入った。
「蒼。 宣伝の案を具体的に作ってくれ。ただし 投稿する前に全員で確認する。凛花がチェックする。依頼者のプライバシーに触れないか。特定される情報がないか。 凛花のOKが出てから投稿しろ」
「凛花先輩のOKが 必要ですか」
「必要だ。 参謀の監査だ。桐生先輩がやっていたルール監査と同じだ。蒼の宣伝案を 凛花がチェックする。 いいな」
蒼は 三秒考えて。頷いた。
「了解です。 案を作ります。明日までに」
「凛花。 チェック頼む」
「了解です。 厳しくやります」
「厳しく な。お前らしく」
凛花が 微かに笑った。
陽太が メロンパンを齧った。
「恒一。 いい落としどころだな。蒼に行動させて、凛花にチェックさせる。 お前はジャッジしない。二人の間に立つだけ」
「立つだけ じゃなくて。判断は 最終的に俺がする。凛花がOK出しても 俺が止める場合もある。逆もある」
「三段階か。 蒼が提案。凛花がチェック。恒一が最終判断。 いい仕組みだ」
「仕組み というほどのものじゃない。当たり前のことだ」
「当たり前を仕組みにするのが お前の強みだよ。ver.2の五原則も 当たり前のことを文章にしただけだ。 当たり前を守るのが、一番難しい」
当たり前を守る。 陽太の言葉は、いつもシンプルで正確だ。
凛花がノートに書いた。
「 方針更新。認知度向上施策を検討。蒼くんが案を作成、凛花がプライバシーチェック、高瀬先輩が最終判断。三段階承認制を導入」
パタン。
「蒼。 明日、案を持ってこい。全員で見る」
「了解です」
蒼がPCを開いた。 即座に作業を始めている。行動が速い。 速いことは強みだ。だが速すぎると チェックが追いつかない。凛花が隣で 蒼の画面を覗き込んでいる。監視 ではなく。監査。参謀として。
「恒一。 俺は何すればいい」
陽太が聞いた。
「お前は いつも通り。メロンパンを持ってこい」
「メロンパンが仕事 か」
「メロンパンは工作室の不変定数だ。 依頼が減っても。認知度が下がっても。メロンパンだけは変わらない。 それが大事だ」
「メロンパン教の教義 か」
「教義だ。 不変のものがあるから。変化に耐えられる」
陽太が にやっと笑った。
「恒一。 お前、詩人だな」
「詩人 じゃない。翻訳者だ」
「翻訳者は 詩人に近い。言葉で世界を記述するから」
「......うるさい」
帰り道。堤防沿い。
九月の夕暮れ。 日が短くなっている。六時前なのに 空がオレンジに染まっている。夏より 早く暗くなる。秋の気配。
今日 方向性は示した。「ゼロでない限り続ける」。 だが、答えではない。応急処置だ。
本当の問い は。
「必要とされるからやるのか。やりたいからやるのか」。
桐生先輩が言った。彩音が言った。 二人とも同じ問いを投げてきた。
やりたい のか。俺は。
やりたい。 好きだ。工作室が。
だが 「好き」だけで続けていいのか。依頼者のためではなく 自分の「好き」のために。それは 依存だと彩音に言われた。
依存 なのか。
分からない。 まだ。
だが 一つだけ分かることがある。
工作室がなくなっても 翻訳者は消えない。彩音が言った。場所がなくても。肩書きがなくても。 翻訳する力は、俺の中にある。
工作室に依存しているのか。それとも工作室を愛しているのか。 依存と愛着の区別が まだつかない。
園田が設計図に依存していたのと。俺が工作室に依存しているのと。 構造は同じだ。
だが 園田は設計図を手放した。自分で歩くと決めた。 俺は、工作室を手放せるのか。来年の三月に。卒業するとき。
手放せる。 手放さなければならない。卒業するのだから。
だが 手放すことと。不要になることは 違う。園田は設計図が不要になったから手放した。俺は 卒業するから手放す。不要だから ではなく。時間が来たから。
時間が来る前に 答えを出す。必要とされるからやるのか。やりたいからやるのか。
答えは 急がない。
だが 蒼の件は急ぐ。
明日 蒼が宣伝案を持ってくる。凛花がチェックする。俺が判断する。 三段階承認制。仕組みは作った。
だが 蒼が仕組みを通さずに動いたら。凛花のチェックを待たずに 投稿したら。
桐生先輩の警告が 頭にある。「方法を間違えると 去年の私の失敗と同じことが起きる」。
影山の忘却屋。 善意の暴走。情報を武器にした。結果 人が傷ついた。
蒼は 善意で動いている。工作室を守りたい。認知度を上げたい。依頼を増やしたい。 全部、善意だ。
だが善意の暴走は 悪意より止めにくい。
「見ておけ」 と桐生先輩は言った。
見ておく。 明日。
スマホが振動した。蒼からだった。
『高瀬先輩。 宣伝案の骨子ができました。明日の承認待ちですが 先に共有します。「工作室の活動紹介:恋の問題を、同じ目線で一緒に考える場所」。過去の依頼には触れず、活動方針だけを紹介する形です。凛花先輩にも送りました』
活動方針だけ。 依頼者の情報には触れない。 案としては問題なさそうだ。
『了解。 明日、全員で確認する。投稿は確認後にしろ。 確認前に動くな。約束できるか』
三秒後。返信。
『約束します。 確認前には動きません』
約束 した。蒼が。
守るか?
六月に 「泳がせろ」と言ったとき。蒼は約束の範囲内で動いた。だが範囲の端 ギリギリを攻めた。今回も 約束の端を攻めるかもしれない。
見ておく。
蒼から もう一通。
『高瀬先輩。 もう一つ。別の案も考えています。工作室の実績を 匿名化して紹介する案です。こちらは 凛花先輩のチェックが厳しくなると思いますが。選択肢として持っておきたい』
実績紹介。 匿名化。依頼者の物語。
桐生先輩の警告が 鳴っている。
『蒼。 実績紹介は危険だ。匿名化しても 分かる人には分かる。依頼者のプライバシーに関わる。 その案は 棄却する。持っておくな。捨てろ』
五秒後。
『......了解です。棄却します』
了解 した。だが。「......」が気になる。三点リーダ。 蒼が三点リーダを使うのは珍しい。データ屋は曖昧な記号を嫌う。三点リーダは 迷いの記号だ。
納得していない。 棄却を受け入れたが。納得はしていない。
見ておく。 明日以降。凛花と一緒に。
スマホを閉じた。
堤防の上。九月の夜。 日が短い。もう暗い。星が出ている。秋の星座。 虫の声。
工作室の存在意義。蒼の宣伝案。凛花のチェック。久我先生との共存。彩音の問い。桐生先輩の警告。 全部が、同時に動いている。
翻訳者は 全部を受け止めなければならない。
だが 一人じゃない。四人いる。凛花がいる。陽太がいる。蒼がいる。 そして工作室の外に。彩音がいる。久我先生がいる。桐生先輩がいる。
一人じゃない。
明日 工作室が開く。蒼の宣伝案を見る。凛花がチェックする。俺が判断する。 仕組みが動く。
工作室は まだ終わっていない。依頼が減っても。認知度が下がっても。 来る人がいる限り。
ゼロでない限り。
歩き始めた。家に向かって。 九月の夜道。暗いが 星が出ている。
星明かりでも 道は見える。暗くても。
恋路工作室は 続く。
暗い道でも。




