第21話 三倍の壁
第21話 三倍の壁
数字が並んでいた。
火曜日。夏休み二週目。工作室のホワイトボードに、蒼がマーカーで書いた数字が並んでいた。
対人関係相談室 七月利用者数:四十七名
恋路工作室 七月依頼数 :十五件
三倍。正確には三・一三倍。蒼が小数点以下まで計算していた。
「四月は二十二件でした。五月は十九件。六月は十七件。七月は十五件。四ヶ月連続で減少しています」
蒼がホワイトボードの前に立っていた。データアナリストの顔。事務的な口調。しかし事務的な口調の裏に熱がある。データを示すとき、蒼の目は光る。
四人が椅子に座って聞いていた。恒一、陽太、凛花、蒼。夏休みの工作室は静かだ。蝉の声だけが窓から入ってくる。八月の光が強い。ホワイトボードの白が眩しい。
「相談室の開設が七月一日です。七月の工作室依頼数が六月から二件減っている。統計的に有意かどうかはサンプル数が少ないため確定できませんが、傾向としては明確です」
「つまり、相談室に食われている」
陽太が言った。直球で。
「食われている、という表現は不正確です。利用者の選択肢が増えたことで、工作室を選ぶ確率が下がった。シェアの分散です」
「シェアって。ビジネスみたいに言うなよ」
「事実を記述しているだけです。感情的な表現を避けて」
「感情的な表現を避けたら、工作室が消えそうだって事実も消えるのか」
陽太の声が荒かった。コミュ力お化けが感情的になっている。陽太にとって工作室は二年間の戦場だ。前作から一緒に作ってきた場所。その場所が数字で脅かされている。
「消えません。データは事実を示しているだけです。消えるかどうかは、対策次第です」
「対策って何だ」
「三つあります」
蒼がホワイトボードに書いた。
一、広報強化。工作室の存在を知らない生徒に周知する。
二、差別化。相談室にできないことを明確にし、工作室固有の価値を打ち出す。
三、データ活用。依頼者の行動データを分析し、潜在的な依頼者にアプローチする。
「一と二は分かる。三は何だ」
俺が聞いた。
「SNSや校内の掲示板のデータから、恋愛に悩んでいる可能性の高い生徒を特定します。その生徒に対して、工作室の存在を個別に周知する。ターゲティングです」
空気が変わった。
「蒼。それはデータで人を狙うということか」
「狙うという表現は不適切です。支援が必要な生徒を、データで見つけるということです」
「見つけてどうする。声をかけるのか。お前、恋に悩んでるだろ、工作室に来いと」
「そこまで直接的ではありません。しかし」
「しかし」
「匿名の掲示板の投稿パターンから、特定の生徒が恋愛で悩んでいることは推定できます。その生徒のロッカーに、工作室のチラシを入れる。偶然を装って」
凛花のペンが止まった。
「蒼くん」
凛花の声が低かった。参謀の声ではない。もっと深い場所から出ている声。
「それは忘却屋と同じです」
工作室が凍った。
忘却屋。前作の影山恒太が運営していた裏サービス。生徒の弱みをデータで把握し、記録を操作し、忘却を売っていた。影山のデータ技術は蒼と同じ系統だ。SNS分析。行動パターンの数値化。人の心をデータで読む力。
蒼の顔が変わった。凛花の言葉が刺さっている。目が動いた。口が開きかけて閉じた。
「違います」
「何が違いますか」
「忘却屋は人の弱みを利用した。俺は人を助けるためにデータを使おうとしている。目的が違います」
「目的が違っても、手段が同じです。データで人を特定して、本人の同意なくアプローチする。それは工作室のルール①に反します。心は操作しない」
「操作ではありません。情報提供です」
「情報提供を本人が望んでいないなら、それは操作です。本人が知らないうちに、本人のデータを使って、本人に接触する。影山がやったことの構造と同じです」
凛花の声が鋭かった。参謀のツッコミではない。もっと深い怒りが混ざっている。凛花は前作で影山の忘却屋と直接対峙した。影山のデータ操作がどれだけの人間を傷つけたか、凛花は記録している。二冊目のノートに。
「蒼くん。あなたのデータ分析の技術は工作室にとって財産です。長谷川さんのケースではデータが役に立った。しかしデータの使い方を間違えたら、影山と同じになる。技術が同じだから、間違いの形も同じになる」
蒼が黙った。五秒。十秒。ホワイトボードの前に立ったまま。マーカーを握ったまま。
「柊先輩。俺は影山とは違います」
「何が違いますか。具体的に」
「影山は人を傷つけることを知りながらデータを使った。俺は助けるために使おうとしている」
「白石さんのとき、あなたは助けるつもりでデータを暴走させました。白石さんの行動パターンを勝手に分析した。本人の同意なく。結果、白石さんの恋が工作室の設計なしで動いた。あのときも目的は善意でした。善意で暴走した」
「あれは反省しました」
「反省した人間が、同じ構造の提案をしています。三番目の対策。潜在的依頼者のデータ特定。白石さんのケースの拡大版です」
蒼の手が震えていた。マーカーを握る指が白くなっている。
「凛花。蒼を責めすぎるな」
俺が入った。
「責めていません。事実を指摘しています」
「事実の指摘と詰問の区別がつかなくなっている。一歩引け」
凛花が止まった。ペンを置いた。深呼吸した。
「すみません。感情的になりました」
「いい。しかし凛花の指摘は正しい。蒼の三番目の提案はルール①に抵触する可能性がある。本人の同意なきデータ利用は、工作室の倫理に反する」
蒼がホワイトボードの三番目を消した。マーカーで線を引いて消した。
「取り下げます。三番目は」
「取り下げろ。しかし一番と二番は有効だ。広報強化と差別化。この二つを具体化する」
蒼が椅子に座った。ホワイトボードの前から離れた。マーカーを机に置いた。手がまだ震えていた。
凛花も座っていた。ノートは開いていない。閉じたまま。参謀が記録を止めている。感情的になった自分を制御している。
空気が重かった。工作室の中に亀裂が走っている。蒼と凛花の間に。
「恒一」
陽太が口を開いた。
「一番の広報。具体的にどうする」
「チラシを作る。校内に貼る。夏休み明けに。相談室がポスターを貼っているように、工作室もポスターを貼る」
「二番の差別化は」
「工作室にあって相談室にないもの。同じ場所に立っていること。久我先生に言ったことだ。プロには作れない距離。同じ高校生であること。それを言語化してポスターに入れる」
「言語化するのはお前の仕事だな」
「ああ。翻訳者の仕事だ」
蒼が窓際に移動していた。海を見ている。背中が硬い。凛花に「忘却屋と同じだ」と言われたダメージが残っている。
「蒼」
声をかけた。
「はい」
「お前の分析は正しかった。数字を可視化して問題を明確にした。それがなければ対策は立てられなかった。三番目の提案は却下したが、一番と二番はお前のデータが基盤だ」
「はい」
「データアナリストとして、一番と二番を支えてくれ。広報用のデータ。差別化のための相談室との比較分析。お前の技術が要る。正しい使い方で」
「正しい使い方」
「依頼者の同意がある範囲で。公開情報の範囲で。個人を特定しない範囲で。境界を守れ」
「了解です」
蒼の声が事務的に戻った。しかし事務的な声の中に揺れが残っていた。
凛花が立ち上がった。
「蒼くん」
「はい」
「さっきは言いすぎました。忘却屋と同じ、は強すぎた。構造が似ている、と言うべきでした」
「いえ。柊先輩の指摘は正しかったです。構造が似ている。それは事実です。俺の提案は影山の手法と構造的に同じだった。目的が違っても手段が同じなら、結果も同じになる可能性がある」
蒼が凛花を見た。凛花が蒼を見た。二人の間にあった亀裂が、完全には塞がっていないが、少しだけ浅くなった。
「蒼くん。あなたのデータは工作室に必要です。しかし使い方を間違えたら工作室を壊す。境界を一緒に守りましょう」
「一緒に」
「はい。私のノートとあなたのデータで。私が倫理を見て、あなたが技術を使う」
凛花と蒼。次世代の工作室の核。今日の衝突が二人の関係に傷をつけたが、傷を経て一段深くなった。
「先輩。報告があります」
凛花がノートを開いた。参謀モードに戻った。
「久我先生から紹介された依頼者が、昨日連絡をくれました。夏休み明けに工作室を訪問したいと」
「来るのか」
「九月一日。始業式の放課後に」
久我から紹介された片想いの依頼者。三週間待った。来る。
「陽太。面談はお前と俺の二人体制だ。まだ参加するか」
「する」
陽太の声に力があった。片想いの苦しさ。陽太は自分の経験から分かる。しかし陽太のケースと依頼者のケースは違う。陽太の真白には恋人がいなかった。依頼者の相手には恋人がいる。
ミーティングが終わった。
蒼が先に帰った。挨拶が短かった。凛花も帰った。ドアの前で振り返った。
「先輩。蒼くんとの件。私が厳しすぎましたか」
「厳しかった。しかし正しかった」
「正しくても言い方を間違えたら伝わりません。翻訳量の制限と同じです」
凛花が園田のケースから学んでいる。
「次は気をつけます」
「頼む。蒼との関係を壊すな」
「分かっています。だから厳しく言ったんです。蒼くんが影山にならないように」
凛花が去った。
陽太と二人で残った。
「恒一。蒼、大丈夫か」
「大丈夫だ。凛花が止めたから。影山は一人だった。蒼には凛花がいる」
「数字の件は」
「広報と差別化。数字で制度に勝とうとするのは無理だ。来た一人に全力を尽くす。数の勝負ではなく質の勝負だ」
「質の勝負は数字で測れないぞ」
「測れない。しかし久我先生が認めた。制度の人間が草の根を認めた。それは数字以上の証拠だ」
陽太が腕を組んだ。
「恒一。それは内向きの論理だ。外に対して。学校に対して。数字を出さなければ場所も維持できなくなるかもしれない」
「外向きの証明が要る」
「ああ。蒼のデータが要る。正しい使い方で。卒業者リスト。質的な成果の数値化。蒼と凛花が協力すればできる」
「今日ぶつかったばかりだ」
「ぶつかったから次は組み合わさる。前作の俺とお前と同じだ」
「楽観的だな」
「二年間見てきたから分かる。ぶつかった後に強くなるのが工作室だ」
陽太が去った。
一人で残った。ホワイトボードの数字。四十七と十五。三倍の差。蒼が消した三番目の跡。薄く残っている。
蒼は影山にはならない。凛花がいるから。しかし数字の圧力が続けば、蒼は再びデータで解決しようとする。そのとき凛花が止められるか。
帰り道。八月の夕暮れ。蝉。潮の匂い。
スマホが光った。彩音。
『蒼くんと凛花さんがぶつかったと聞きました』
『ぶつかった。蒼がデータで潜在依頼者を特定する提案をした。凛花が止めた。忘却屋と同じだと』
『正しい判断です。蒼くんは大丈夫です。凛花さんが止めたから。一人で暴走するのと止めてくれる人がいるのでは全く違います。前の学校で私を止めてくれる人はいませんでした』
俺が陽太に言ったことと同じ結論。蒼には凛花がいる。
『数字の件。三倍の差。どうしますか』
『翻訳する。工作室の価値を。制度に伝わる言語で』
『それは翻訳者の仕事ですね。工作室の言語と制度の言語の間を渡る。異なる辞書の間を翻訳する』
『ああ。翻訳者の仕事だ』
『期待しています。素人にしては、いい覚悟です』
八月の夜。蝉。星。潮の匂い。
三倍の壁。しかし壁に窓は開いている。久我がいる。彩音がいる。凛花と蒼がぶつかりながら育っている。陽太が紅茶を飲んでいる。
九月一日。新学期。片想いの依頼者が来る。
そしてその前に。蒼の中に残った影山の影を、見守る必要がある。凛花が止めた。しかし止まったことと、解決したことは別だ。蒼の中のデータへの執着は消えていない。数字の圧力が続く限り、蒼は再び境界を踏み越えようとするかもしれない。
翻訳者は見ている。読んでいる。止める役割ではなく、読む役割。読んで、必要なときに言葉を一つだけ渡す。
三倍の壁の前で、工作室は揺れている。しかし倒れていない。




