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朝凪高校・恋路工作室 ── 恋愛操作団が愛と願いを叶えます ──  作者: Song1
朝凪高校・恋路工作室 ──最後の翻訳──
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第20話 場を手放す

 第20話 場を手放す


 夏休みの木曜日。八月に入っていた。


 蝉が最高潮に達していた。七月の蝉は合唱だった。八月の蝉は絶叫だ。校舎に近づくと蝉の声で耳が詰まる。空気が熱い。アスファルトが揺らめいている。朝凪の海だけが涼しげに光っている。


 夏休みの校舎は静かだ。蝉以外は。部活の声が遠くから聞こえるだけ。廊下に人がいない。蛍光灯が点いていない。節電。旧部室棟はさらに暗い。窓から入る光だけが頼り。


 工作室のドアを開けた。一人で来た。今日は四人ではない。俺だけ。園田との約束。二人きりで。最後の話。


 窓を開けた。海風が入ってきた。八月の海風は熱い。しかし工作室の中の空気よりは涼しい。蝉の声が窓から流れ込んだ。


 椅子を二つ、向かい合わせに置いた。翻訳者と依頼者の椅子ではない。二人の人間の椅子。


 待った。十分ほど。


 足音が聞こえた。旧部室棟の廊下。軽い足音。一人分。


 園田美咲がドアの前に立った。


 違う人間がいた。


 三週間前に工作室に来た園田とは、全てが違っていた。目が澄んでいる。三週間前は曇りの底が濁っていた。今は晴れている。完全な快晴ではない。薄い雲が残っている。しかし光が通っている。


 髪が整っている。服が違う。夏休みだから制服ではない。白いTシャツにデニム。シンプルだ。しかしシンプルさが意図的に見える。自分で選んでいる。


 一番違ったのは、立ち方だった。


 三週間前の園田は、ドアの前で止まっていた。ノックしようとして止まっていた。入れずにいた。


 今日の園田は、止まらなかった。ドアの前に立って、二秒で中に入った。迷わなかった。


「先輩。来ました」


「入れ。座れ」


 園田が座った。向かいの椅子に。距離は一メートル。


 蝉の声。海風。八月の光。


「瀬川さんとの対話、昨日が最後でした」


「聞いた。凛花から」


「五回話しました。屋上で。毎回三十分。最初は十分しか話せなかった。最後は三十分ずっと自分の言葉で話せました」


「よかった」


「はい。よかったです」


 園田の声が明るかった。凛花が電話で聞いた通り。三週間前とは別人の声。


「先輩。今日は最後の話に来ました」


「ああ。聞いてる」


「二つあります。報告と、お礼」


「報告から」


「先輩の辞書から離れました。完全ではないです。たまにまだ先輩の言葉が先に出てきます。でも出てきたときに自分で気づける。先輩の言葉だと分かる。分かった上で、自分の言葉に置き換えられる」


「置き換えられる」


「はい。例えば瀬尾くんとの関係。前は『名前のない距離が名前のある距離に変わった』と考えていた。先輩の言葉で。今は『瀬尾くんと前より仲良くなった』と考えられる」


 仲良くなった。


 翻訳者の辞書にない言葉だ。俺なら「距離が縮まった」と言う。しかし園田は「仲良くなった」と言った。日常の言葉。分析の対象にならない言葉。しかしそれが園田の言葉だ。


「先輩の辞書は便利でした。精度が高くて的確で。でも便利すぎた。筋トレをサボったら筋肉が落ちるように、自分の言葉を使わなかったら言葉が弱った」


 園田が自分の比喩で語っている。筋トレ。俺の比喩ではない。園田自身の比喩。


「瀬川さんに助けてもらいました。翻訳しない人です。翻訳する代わりに隣にいてくれた。先輩の辞書の外で話す練習を、瀬川さんの隣でやりました」


「彩音は良い相手だったか」


「はい。瀬川さんは前の学校で私と同じ構造を作った側の人です。だから私の痛みが分かる。適切な距離を保ってくれた」


 園田が「距離」と言った。一瞬止まった。


「あ。先輩の言葉です。でも自覚して使っています。借りている言葉だと分かった上で。借りていることを知っているなら依存にはならない」


 借用。上書きではなく借用。自分が基本で、翻訳者は補助。逆転した。三週間前は翻訳者が基本で自分が消えていた。


「お礼を言います」


 園田が背筋を伸ばした。


「ありがとうございました。一年半。翻訳してくれたことも、翻訳を止めてくれたことも。全部」


 涙が一滴落ちた。園田は拭わなかった。


「先輩。一つ聞いていいですか」


「聞け」


「翻訳を止めたとき、怖くなかったですか」


「怖かった」


「何が」


「お前が離れていくかもしれない。工作室を必要としなくなるかもしれない。場を手放すことが怖かった」


 素手の声だった。翻訳者の声ではない。


「先輩。場を手放すことは場を壊すことではないです」


 園田が言った。自分の言葉で。


「先輩が作った場は消えません。私の中に残っています。先輩の辞書から借りている言葉として。先輩が手を離しても場が私の中で生き続けている。先輩の場所ではなく私の場所になっている」


 場を手放す。翻訳者が作った場を依頼者に渡す。翻訳者の管理下から出る。しかし消えない。依頼者の中に移る。


「手放したほうが場は強くなります。先輩が管理している場は先輩の場です。手放した場は依頼者の場になる」


 園田の言葉が胸に刺さった。翻訳者ではない場所に。


「工作室を卒業します。もう来ません」


「ああ」


「でも先輩の場は持っていきます。先輩の辞書から借りた言葉も、自分の辞書に翻訳し直して。名前のない距離は、私の言葉では『まだ決まってない関係』です。ダサいけど」


「ダサくない。お前の言葉だ」


 園田が笑った。涙と笑みが同居する顔。一年半前に初めて見た顔。しかし今日の笑みは自由だった。翻訳者の辞書に縛られていない。自分の辞書で笑っている。


「ありがとうございました。先輩」


 園田の涙がもう一滴落ちた。声は震えていなかった。涙は流れているのに声は安定している。泣くことと崩れることが別だと、園田は知っている。前作のときは涙と一緒に崩れた。今は泣きながら立っている。


「先輩。最後に一つだけ」


「聞く」


「先輩は怖いと言いました。場を手放すのが怖いと。依頼者がいなくなるのが怖いと。でもそれは翻訳者としての怖さですよね」


「ああ」


「翻訳者じゃなくて、高瀬恒一としての怖さは別にありますか」


 唐突な問いだった。しかし園田の目は真剣だった。


「ある」


「何ですか」


「自分が必要とされなくなることだ。翻訳者として必要とされることが、俺の存在理由だった。お前に翻訳が要らなくなったとき、俺の中の何かが空になる。翻訳者として、ではなく、高瀬恒一として」


 園田が黙った。三秒。


「先輩。それは長谷川さんと同じです」


「何が」


「存在確認です。先輩が依頼者に翻訳を渡すのは、翻訳者としての仕事です。しかしその仕事を通じて、先輩は自分の存在を確認している。誰かに必要とされている。自分の言葉が誰かを動かしている。それが先輩の存在の証明になっている」


 翻訳された。


 園田に翻訳された。依頼者が翻訳者を翻訳している。しかも長谷川のケースの語彙を使って。存在確認。俺が長谷川に渡した言葉を、園田が俺に向けて使っている。


「俺が渡した言葉で、俺が翻訳されている」


「借用です。先輩の辞書から借りました。自覚して使っています」


「借用か。うまくなったな」


「先輩に教わりました。間接的に」


 園田が笑った。涙の跡が光っている。夕日が窓から差し込んで、頬の涙を照らしている。


「先輩。依頼者がいなくなっても、先輩の存在は消えません。翻訳者の仕事がなくても、高瀬恒一はいます。先輩が私に教えてくれたことと同じです。翻訳者の辞書がなくても園田美咲はいる」


「同じ構造か」


「同じです。先輩は翻訳者に依存している。自分の存在を翻訳者という役割で確認している。それも一種の依存です。私が先輩の辞書に依存していたのと同じ構造。先輩も、翻訳者という役割に依存している」


 心臓が動いた。


 翻訳者が翻訳者に依存している。自分の役割に。翻訳者であることに。依頼者の前に立つことで存在を確認している。依頼者がいなくなると空になる。存在確認の装置を失う。


 園田が俺の構造を見抜いている。翻訳者の辞書なしで。自分の目で。


「先輩。場を手放すということは、翻訳者を少し手放すということです。全部じゃなくていい。少しだけ。翻訳者じゃない高瀬恒一の時間を作ってください」


「翻訳者じゃない時間」


「はい。私が先輩の辞書から離れる練習をしたように。先輩も翻訳者から離れる練習をしてください。翻訳しない時間。分析しない時間。誰かの感情を読まない時間」


 園田が俺にリハビリを処方している。依頼者が翻訳者にリハビリを。逆転だ。完全な逆転。


「分かった」


「約束ですよ」


「約束する」


 園田が手を差し出した。握手した。温かい手だった。三週間前は冷たくて白かった。今は温かい。血が通っている。


「元気でな」


「先輩も。翻訳者じゃない時間を」


「分かった」


 園田がドアに向かった。振り返った。工作室を見回した。


「いい場所でした。不完全で」


「また来たくなったら来い」


「来ません。それが卒業です。先輩がいなくても立てることが。でも廊下は通るかもしれません。窓から海を見るために」


「行ってこい」


「行ってきます」


 園田が去った。足音が廊下を遠ざかっていく。迷いのない足音。


 一人で残った。


 工作室が広く感じた。二人分の空気が一人分になった。空の椅子。園田がいた椅子。


 場を手放した後の空洞。成功の裏側にある空虚。


 園田が言った。翻訳者は翻訳者に依存している。自分の役割に。依頼者がいることで存在を確認している。存在確認。長谷川に渡した言葉が、翻訳者自身に返ってきた。


 翻訳者じゃない時間を作れ。園田の処方。


 翻訳者じゃない高瀬恒一。それは何だ。翻訳者を引いたら何が残る。


 陽太が先週言った。紅茶を開けろ。お前の紅茶は瀬川だ。


 彩音が言った。名前のないまま受け取ります。


 翻訳者ではない時間に、俺は何をする。分析しない。翻訳しない。読まない。ただの高校生として。


 彩音の前で。


 彩音の前で翻訳者でない俺は何者か。素手の俺。道具を持たない俺。依頼者も翻訳もない、ただの高瀬恒一。


 そのただの高瀬恒一が、彩音に何を感じているか。


 翻訳不能。


 名前がつかない。しかし園田が言ったことが響いている。翻訳者の仕事がなくても高瀬恒一はいる。翻訳者に依存しない高瀬恒一がいる。


 その高瀬恒一が、彩音に向き合う。いつか。


 いつか、ではなく。もうすぐ。


 目が赤い。自分では見えない。しかし園田に指摘された。翻訳者は自分の顔が見えない。


 窓の外。八月の海。真夏の青。蝉の絶叫。光が強い。


 場を手放した。


 園田の場を。翻訳者が作り、翻訳者が壊しかけ、翻訳者が手放した場を。園田は自分の場を持って去った。


 成功だ。成功なのに胸に穴が空いている。前作でも何度か経験した。依頼者が去った後の穴。毎回空く。毎回埋まる。しかし今回の穴は大きい。翻訳の副作用という自分の失敗の清算だったから。


 スマホを取り出した。凛花に打った。


『園田の件、完了。卒業。報告は後日口頭で』


 即座に返信。


『了解です。お疲れさまでした』


 彩音に打った。


『園田と話した。卒業した。お前のおかげだ』


 十秒。


『おめでとうございます。しかしそれはお礼であってカウント外です』


『厳密だな』


『慎重なので。園田さんの卒業、よかったです。工作室の卒業者リストが増えましたね』


『卒業者リストなんてない』


『作ったほうがいい。何人の人が自分の足で歩き出したか。それが工作室の存在証明になる。数字として』


 数字として。存在を証明する数字。


 しかし数字だけでは制度に対抗できない。


 園田の笑顔が浮かんだ。涙と笑みの顔。あの顔が証明にならないか。数字ではなく。


 しかし顔は記録できない。主観だ。翻訳者の記憶にしか残らない。


 帰り道。海沿い。八月の夕暮れ。蝉が弱まっている。


 スマホが光った。蒼。


『先輩。報告があります。相談室の利用者数と工作室の依頼数を比較しました。詳細は次のミーティングで報告しますが一つだけ。相談室の七月利用者数は工作室の三倍です』


 三倍。


『出所は』


『相談室のデータは公開情報です。月次報告が学校サイトに載っています。工作室は凛花先輩のノートから集計しました』


『次のミーティングで全員に共有しろ』


『了解です。もう一つ。データから見ると、工作室の依頼数は四月から減少傾向です。相談室の開設と逆相関。統計的に有意です』


 減少傾向。相談室が開いてから工作室の依頼が減っている。


 数字が来た。園田が卒業した日に。場を手放した日に。もう一つの場が数字で脅かされようとしている。


 久我は工作室を認めた。しかし制度は工作室の領域を侵食している。認めることと残ることは別だ。


 明日考える。今夜は園田のことだけ考える。


 八月の夜。蝉。星。海の音。


 場を手放す。終わりではない。始まりだ。依頼者が自分の足で歩き始める始まり。翻訳者が次の場を作り始める始まり。


 しかし次の場を作る前に、工作室という場自体を守る必要がある。三倍の数字。減少傾向。制度の圧。


 園田の笑顔を覚えておく。翻訳者の記憶に。主観的で、検証不能で、しかし翻訳者だけが持っている証明として。


 数字では測れないものがある。しかし数字で問われたとき、数字以外のもので答える方法を、まだ見つけていない。


 明日。工作室で。四人で。数字と向き合う。

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