第14話 支援の副作用
第14話 支援の副作用
善意は薬だ。 でも薬には、副作用がある。
園田が帰ってきた翌日。金曜日。
雨だった。 六月の雨。梅雨の真っ只中。校庭に水たまりができている。海が 見えない。灰色の雨幕が 水平線を消している。
放課後。工作室。全員集合。
昨日の夜、凛花に「全員でやりましょう」と言われた。その通りにした。 四人で。園田の件を。
ホワイトボードの前に 俺が立った。だがマーカーは持っていなかった。今日は 設計図を描く日ではない。設計図が問題を起こしたのだから。
「園田の件を 整理する」
声が 自分でも平坦だと分かった。昨夜、ほとんど眠れなかった。去年のノートの 園田のページを何度も読み返して。「着地」と書いた自分の字を 何度も見つめて。
「去年 園田に、瀬尾との関係について設計図を渡した。『名前のない距離』。友達でも恋人でもない第三の関係。教室で頷き合うだけの距離。 園田はそれを受け入れた。機能した。着地した と思っていた」
凛花が ノートを開いていた。去年のノート。 二冊目。園田のページを開いている。
「一年後 園田が帰ってきた。設計図通りにしか動けなくなっていた。工作室が渡した距離が 正解の檻になっていた。園田は自分の判断で距離を変える力を 失っていた」
「依存 ですね」
凛花が言った。
「依存。 工作室の設計図への依存。設計図が正解だと信じて そこから出られない。自分で考えることをやめた。 薬に頼りすぎて、自然治癒力が衰えた状態」
蒼が PCを開いた。
「高瀬先輩。 園田さんのSNSを分析しました。昨日 園田さんに連絡して、許可をもらっています」
「許可 取ったのか。速いな」
「凛花先輩に 許可を取ってから動けと言われたので。昨夜のうちに」
凛花が 小さく頷いた。蒼が 手順を守っている。忘却屋の件で学んだことが 動いている。
「結果を 見せてくれ」
蒼がPCの画面を回した。 グラフが表示されている。一本の折れ線。横軸が時間。縦軸が 「瀬尾への反応パターン指数」。
「園田さんのSNS上で 瀬尾さんに関連する反応パターンを時系列で追いました。いいね、リプライ、投稿内容 全てを統合した指数です」
折れ線は 最初、波打っていた。上下に揺れている。去年の四月から六月。園田が工作室に来る前。 感情が揺れている。不安定。瀬尾との距離が定まらなくて 感情がぐらぐらしている時期。
「ここが 工作室の介入点です」
蒼が 折れ線の一点を指した。去年の六月末。 園田が工作室に来た日。
「介入点以降 波形が変わっています」
変わっていた。 劇的に。
波がなくなっていた。
介入点の前は 折れ線が激しく上下していた。介入点の後 折れ線が水平になった。真っ平ら。ほとんど 直線。
「パターンがフリーズしています」
蒼の声は 事務的だった。だが画面を見る目が いつもと違った。データが示しているものの意味を 分かっている目。
「介入点の前 園田さんの感情は不安定でした。でも生きていた。変動していた。介入点の後 変動が止まった。設計図の範囲内で 固定されています。自然な変化が 止まっている」
「止まっている 」
「はい。工作室の設計が 行動の上限になっています。設計図が定めた距離の外に 園田さんの反応が一度も出ていません。一年間。 一度も」
一度も。 一年間、設計図の外に出なかった。
数字が 証明していた。俺が感覚で感じていたことを 蒼のデータが数値で裏付けた。翻訳者の直感とデータ分析が 同じ結論を指している。
設計図が 園田を止めた。
陽太が メロンパンの袋を握りしめていた。食べていない。
「恒一 」
「分かってる。 俺のせいだ」
「お前だけのせいじゃないって、昨日 」
「昨日は 凛花にそう言ってもらった。全員の課題だと。 分かってる。でも設計図を描いたのは俺だ。ホワイトボードの前に立ったのは俺だ。 責任は、描いた人間にある」
蒼がPCの画面を閉じた。 静かに。
「高瀬先輩。 データは事実を示しただけです。善悪の判定はしていません」
蒼の声が いつもの事務口調だったが。最後に 小さく付け足した。
「でも 先輩が気にするのは。当然だと思います。 データにはバイアスがありませんが。人間には あります。園田さんを助けたかったというバイアスが。 それは悪いバイアスじゃないと。僕は 思います」
蒼が データの外の言葉を使った。「思います」。 推定精度何% ではなく。「僕は思います」。
凛花が ペンを止めて蒼を見た。目が 少しだけ柔らかくなっていた。
「星野くん。 成長しましたね」
「成長 は。データで計測できないので。分かりません」
「計測できないものの中に 大事なものがある。先輩が 屋上で彩音さんに言った言葉です」
「覚えて いるんですか」
「記録してあります」
凛花は 全部記録している。
昼休み。 雨が止まなかった。
教室で弁当を食べるのが 窮屈だった。考えることが多すぎて。 陽太がいると話しかけてくる。話しかけてくれるのはありがたいが 今日は一人で考えたかった。
屋上に 行った。雨だ。傘がいる。 傘を差して、屋上に出た。
風が 冷たかった。六月の風。 五月の風とは違う。湿気を含んだ、重い風。海が見えない。灰色の雨。
コンクリートの床が濡れている。 座れない。立ったまま。傘を差して。 一人で。
園田のことを考えていた。蒼のデータ。フリーズした折れ線。 一年間、動かなかったパターン。
設計図の副作用。 善意の薬の副作用。
久我先生が言った。「善意と能力は別です」。彩音が言った。「善意のアマチュアリズムは危険」。 二人とも正しかった。二人とも 副作用を指摘していた。俺が 気づかなかっただけだ。
「場を作るだけ」。 去年からの信条。場を作る。選ぶのは本人。 だが、場を作った後のことは考えていなかった。場が いつまでも残ること。場が 依頼者を縛ること。 その可能性を。
彩音に言われた。「場を作ることが操作でないという根拠は?」。 あのとき反論した。「壊れて更新する」と。だが 壊れたのは工作室ではなく、園田だった。工作室は無傷で 園田が壊れた。
俺たちの支援が 人を縛っていた。
「 重いな」
声に出して 呟いた。雨の中。傘の下で。
「重そうですね」
声が 後ろから聞こえた。
振り返った。
彩音が 立っていた。傘を差して。 屋上のドアの前に。
「......瀬川」
「雨の日に屋上にいる人間は 二種類です。雨が好きな人間と、一人になりたい人間。 高瀬くんはどちらですか」
「後者 だ」
「じゃあ帰りますね」
「待て」
彩音が 足を止めた。ドアに手をかけたまま。
「......待て って言ったのは。一人になりたいのに」
「一人になりたかった。 でも、お前なら 」
何だ。お前なら 何だ。
「お前なら 聞いてもらいたいことがある」
翻訳者のくせに 自分の言葉がまとまらない。彩音の前では いつもそうだ。辞書がうまく開けない。
彩音は 三秒ほど俺を見ていた。雨が傘を叩いている。パタパタという音。 判断している。来るか。行くか。
「......立ち話でいいですか。座る場所がないので」
来た。 彩音が。傘を差したまま。俺の隣に。二メートルの距離。いつもの 計算された距離。だが今日は いつもより少しだけ近い。一メートル半。
「何を 聞いてもらいたいんですか」
「園田 という依頼者が来た」
「園田さん。 去年の」
「知ってるのか」
「渡り廊下から見ました。昨日 工作室に女子が来て、高瀬くんが 頭を下げていた。依頼者に頭を下げる団長は 珍しいだろうと思って」
見ていた。 やはり。彩音はいつも見ている。
「園田は 去年、工作室に来た依頼者だ。友達でもなく恋人でもない 名前のない関係に苦しんでいた。俺が 第三の距離を設計した。設計は機能した。着地した と思っていた」
「思っていた ですか」
「一年後 園田が帰ってきた。設計図通りにしか動けなくなっていた。工作室が渡した距離が 正解の檻になっていた」
「依存 ですね」
彩音の声が 静かだった。診断するような声ではなく。 知っている声。経験者の声。
「依存だ。 俺の設計が 園田を縛った。場を作った。選ぶのは本人だと思っていた。でも 場が精密すぎて、園田は場の外に出られなくなった」
「支援の副作用」
彩音が 言った。短く。
「支援の副作用 ですか」
「はい。 私が工作室を批判した理由は まさに、それです」
彩音の声が 変わっていた。批判者の声でも分析者の声でもない。もっと 低い。もっと 近い。壁が 薄い。
「自分がやってしまったから です。同じことを」
「同じ 」
「カウンセリングで 相手を縛りました。善意で。知識があったから。正しいことをしていると思っていたから」
彩音が 傘の柄を握る手に力を入れた。指が白くなっている。 図書室のときと同じだ。感情を抑えるときの 彩音の癖。
「聞いていいのか。 聞くなと 」
「今日は 聞いてほしくて来ました」
彩音が 俺を見た。
目が 違った。壁がない。鎧がない。丁寧語の盾がない。 むき出しの目。痛みの記憶が 表面に浮いている目。
「転入する前の学校で 私は生徒カウンセラーをやっていました。正式な資格はないですが 心理学の勉強をしていて。先生の推薦で。生徒同士のカウンセリング ピアサポートに近いものを」
「ピアサポート 」
「はい。 高瀬くんの工作室と、やっていることは似ていました。生徒の恋愛や人間関係の悩みを聞いて。分析して。アドバイスして。 私の場合は心理学の知識があったぶん もっと 体系的にやっていました」
翻訳者の耳が 拾う。「体系的にやっていた」。 プロではないが素人でもない。中間の存在。工作室よりは知識がある。プロのカウンセラーよりは経験がない。
「ある生徒が 来ました。友達関係で悩んでいて。グループの中で孤立していて。 私が介入しました。グループのダイナミクスを分析して。その生徒が どう行動すれば孤立を解消できるか。行動計画を 作りました」
行動計画。 設計図。名前は違うが 構造は同じだ。
「計画は 機能しました。最初は。その生徒は グループに戻れた。孤立が解消された。 成功だ、と思いました」
「でも 」
「でも 計画通りにしか行動できなくなった。私が作った計画が その生徒の行動の全てを支配していた。計画の外のことが 怖くてできなくなっていた。 高瀬くんの園田さんと、同じです」
同じ。 構造が同じ。設計図が正解の檻になる。支援者が作った行動指針に 依頼者が依存する。
「気づいたのは 三ヶ月後でした。その生徒が 計画に書かれていないことを聞いてきたんです。『放課後にグループで遊びに行っていいですか? 計画に書いてないから いいのか分からなくて』」
俺の胸が 締まった。
計画に書いてないから 行動していいか分からない。自分の判断で 遊びに行っていいか分からない。
園田と まったく同じだ。設計図に書かれていないことが 怖い。設計図の外に出られない。
「私は そのとき初めて気づきました。自分がやったことの意味に。 善意で 知識を使って 体系的に 人の行動を設計した。その結果 その生徒の自律性を奪った」
彩音の声が 震えていた。微かに。雨の音に紛れるくらい微かに。 だが翻訳者の耳は 拾った。
「怖くなりました。 自分がやったことが。善意だったのに。正しいと思っていたのに。 結果が 」
「結果は 」
「その生徒は 私に依存するようになりました。何をするにも私に聞いてから。友達と話すのも。教室で席を移動するのも。 全部、私の許可を求めるようになった」
許可を求める。 園田が工作室の設計図を「正解」として守り続けたのと 同じ構造。だが彩音の場合は もっと深刻だ。設計図に依存するのではなく 設計者に依存している。人間に。
「私はカウンセラーではなく 支配者になっていました。善意の 支配者」
善意の支配者。 言葉が重かった。雨の中で その言葉だけが、乾いていた。
「やめました。 全部。生徒カウンセラーも。ピアサポートも。 逃げました。あの学校から。朝凪高校に 転入してきた」
逃げた。 彩音が工作室を批判した理由。「善意のアマチュアリズムは危険」。 あの批判は 教科書から学んだ知識ではなく。自分の経験から 血を流しながら得た結論だった。
「だから 工作室を見たとき。あなたたちが善意で 生徒の感情に介入しているのを見たとき。 止めなきゃいけないと思った。私と同じことが起きる前に」
彩音が 俺を見た。雨で少し 髪が濡れている。傘からはみ出た部分が。 頬にかかっている。
「でも 止められなかった。あなたたちを見ていたら 私とは違った。あなたの工作室は 私がやったことと似ているけど 違う部分がある」
「違う 部分」
「あなたは 自分の設計に疑いを持っている。設計図を描きながら 本当にこれでいいのかと考えている。私は 疑わなかった。心理学の知識があるから正しい と思い込んでいた。 あなたは素人だから 自分が正しいかどうか分からない。分からないから 慎重になる」
「素人であることが 強み ?」
「皮肉ですけど はい。素人は 自分の限界を知っている。プロは 知識がある分、限界を見落としやすい。私がそうだった」
翻訳する いや。翻訳ではない。聞いている。ただ 聞いている。彩音の声を。彩音の痛みを。 翻訳者としてではなく。
「高瀬くん」
「何だ」
「善意で人を縛ることの怖さは やった人間にしか分かりません」
「......ああ」
「あなたは 今、分かったんですね。園田さんのことで」
「分かった。 遅すぎたけど」
「遅くないです。 気づけたなら。私は 三ヶ月かかった。あなたは一年で気づいた。園田さんが帰ってきてくれたから」
帰ってきてくれた。 彩音は 園田が帰ってきたことを。「帰ってきてくれた」と表現した。被害 ではなく。贈り物 として。
「園田さんは 設計図を返しに来たんですよね」
「どこまで見てたんだ」
「声は 聞こえませんでした。でも園田さんが帰るとき 表情が変わっていた。来たときより 強い顔でした。 設計図を手放すのは、怖いことです。でも 手放すと決めた人間の顔は 強いです」
「瀬川 」
「はい」
「お前の その生徒は。計画を 手放せたのか」
彩音の表情が 凍った。一瞬。 そしてすぐに 溶けた。凍る時間が 短くなっている。壁が 薄くなっている。
「......分かりません。 私が逃げたから。あの生徒がその後どうなったか 確認していません」
「確認 していない」
「怖くて できなかった。自分がやったことの結果を 見るのが」
声が 小さくなった。雨の音に ほとんど消される。
「それが 私の一番の罪です。計画を渡して 依存させて そして逃げた。フォローもしなかった。あの生徒が 今どうしているか 」
「瀬川」
俺は 一歩近づいた。計算された距離を 少し縮めた。一メートル半が 一メートルになった。
「お前が逃げたことは 責めない」
「責めて くれたほうが楽です」
「楽にはさせない。 お前が自分で決めることだから。確認するかしないか。あの生徒に 連絡するかしないか。 俺が決めることじゃない」
選ぶのは本人。 工作室の原則を。彩音に対しても。
「俺にできるのは 隣に立つことだけだ。翻訳者として じゃなく。ただの 」
「ただの?」
「ただの高瀬恒一として」
彩音は 雨の中で しばらく黙っていた。傘の下。 二人の傘が 一メートルの距離で並んでいる。雨が 二つの傘を叩いている。
「......変な人ですね」
「前にも言われた」
「変で 面白くて 矛盾していて」
「褒めてるのか」
「事実の確認です」
彩音の口角が 上がった。笑み だ。涙と笑みが混ざった 歪な表情。壁が 今日一番薄い。
「高瀬くん。 園田さんの件。どうするんですか」
「設計図は もう渡さない。今度は 設計図なしで園田が歩けるようにする。自分で距離を変えられるように。 設計図を手放す支援 とでも呼ぶべきか」
「設計図を手放す支援 」
「場を作るだけじゃ足りなかった。場を作った後 場を手放す方法も必要だった。それが 去年の俺に足りなかったことだ」
彩音は 考えていた。心理学のフレームワークで 俺の言葉を処理している。
「自律性の回復 ですね。臨床心理学では クライアントが自分で意思決定できる状態に戻すことが、支援の最終目標です。あなたは それを直感で辿り着いている」
「直感 じゃなくて。園田に教えてもらった。園田が 『設計図を返します』と言ったときに」
「依頼者に 教えてもらう」
「ああ。 翻訳者は依頼者から学ぶ。依頼者の言葉を翻訳しているうちに 翻訳者自身が翻訳される。 変な話だけど」
「変じゃないです。 それは 相互性と呼びます。支援者と被支援者が お互いに影響し合う。 教科書的には、相互性は リスクでもあり、強みでもある」
「工作室は どっちだ」
「両方です。 いつも」
彩音が 傘を少し傾けた。風が変わったから。 雨の角度が変わって、彩音の傘に水滴が流れた。
「高瀬くん。 一つだけ」
「何だ」
「園田さんに 設計図の代わりに何を渡しますか」
「何も渡さない。 それが方針だ」
「何も ?」
「設計図は渡さない。答えも渡さない。 園田が自分で距離を決める。俺ができるのは 園田が考える場を作ることだけ。考える材料は渡す。でも答えは 渡さない」
「辞書だけ見せる ですか」
「ああ。 辞書だけ見せる。どのページを開くかも 今度は園田に選ばせる」
彩音は 頷いた。小さく。
「それなら 副作用は 最小限になると思います。 素人にしては まともな方針です」
「また素人にしては か」
「褒めてます。 今回は。純粋に」
純粋に。 「事実の確認です」ではなく。「純粋に褒めてます」。
壁が もう一枚、剥がれた。
「じゃあ 私は行きます。雨が 強くなってきた」
「ああ。 ありがとう。 聞いてもらえて」
「聞いただけです。 翻訳はしていません」
「聞くだけで 十分だった」
彩音が 屋上のドアに向かった。ドアの前で 立ち止まった。振り返らなかった。
「高瀬くん」
「何だ」
「私が あの生徒に連絡すべきかどうか。 考えてみます」
「うん」
「考えるだけ です。まだ 」
「まだ でいい。急がなくていい。桐生 卒業した先輩が言ってた。『答えは急ぐな』って」
彩音は 三秒ほど黙って。それから ドアを開けて出ていった。
一人になった。屋上。雨。傘。 海が見えない。灰色の世界。
だが 灰色の中に。今日は 少しだけ温かいものがあった。
彩音が 自分の過去を語った。初めて。壁を 自分で開けた。
翻訳者は 聞いただけだ。翻訳しなかった。名前をつけなかった。 彩音の痛みに。
聞くだけ。 それが、今日は 正解だった。
放課後。自室。
ノートを開いた。 新しいページ。
園田の依頼を 再設計する。だが「再設計」という言葉自体が 矛盾している。設計図を渡さないことが方針なのだから。
書いた。
「園田真琴。二度目の来室。課題:設計図への依存からの脱却」
「方針:設計図を渡さない。答えを渡さない。園田が自分で距離を決めるための 場を作る」
場を作る。 だが、去年とは違う場を。
去年の場は 「名前のない距離」という正解が組み込まれた場だった。園田は 場に入った時点で、正解に向かって誘導されていた。
今度は 正解がない場を作る。
園田が 自分で考えて、自分で試して、自分で失敗して、自分で修正する。 その全てのプロセスを 場として用意する。
「具体的には」。
凛花ならノートにそう書く。 具体策がなければ方針は絵に描いた餅だ。
考えた。
園田に必要なのは 「設計図がなくても歩ける」という体験だ。一年間 設計図の中に閉じ込められていた。設計図の外は怖い。 怖さを減らすには 小さな一歩を踏み出す経験が要る。
小さな一歩。 設計図の外の行動。
瀬尾に 設計図にない言葉をかける。例えば。「今日の放課後 一緒に帰らない?」。設計図には書かれていない行動。 頷き合うだけの距離を越える、小さな一歩。
だが それを俺が指示したら。「一緒に帰れ」と言ったら。 それは新しい設計図になってしまう。
指示しない。 園田自身に考えさせる。「瀬尾との距離を 自分で変えてみろ。何をするかはお前が決めろ」。
何をするか は園田が決める。俺は 「変えていい」と許可を出すだけ。許可 ですらない。「変えてもいいんだ」と気づかせるだけ。
辞書を見せる。 「設計図の外にも 道がある」と。そのページを開くだけ。歩くのは 園田。
スマホを取った。園田に メッセージを送る。
『園田。 明日、工作室に来てくれ。設計図は渡さない。でも お前が自分で歩くための、場を作る』
送信。
三分後。園田から。
『はい。 行きます。設計図なしで 怖いですけど。でも自分で決めたので』
自分で決めた。 園田が 自分の言葉で。
「自分で決めた」。 去年の園田は言わなかった。去年は 「工作室が決めてくれたから」と。今年は 「自分で決めた」。
一年間の依存の後に 園田は自分の足で立ち始めている。設計図を返した あの瞬間から。
俺が 何かをしたわけではない。園田が自分で 動き始めた。
工作室は きっかけだけだった。去年もそうだ。場を作っただけ。 ただ、去年は場を作りっぱなしにした。今度は 場を手放す。
場を手放す支援。 言葉が、少しずつ形になっている。
ノートに書き加えた。
「 場を作る。場を手放す。 その両方が工作室の仕事だ」
まだ完成していない。五原則に 何を追加すべきか。アフターケアの条項。設計図の期限。依頼者のその後。 全部、今のver.2には入っていない。
ver.2の 穴が見えた。園田が帰ってきたおかげで。
穴を埋める。 それが、今年の俺の仕事だ。
窓の外。 雨がまだ降っている。六月の雨。灰色。
だが 灰色の雨の中で。今日 二つのものが動いた。
園田が 自分で歩くと決めた。
彩音が 壁を開けた。
両方とも 俺が動かしたのではない。二人が 自分で動いた。
工作室は きっかけだけ。隣に立つだけ。
それで いいのか。
それで いいんだ。たぶん。
雨音を聞きながら ノートを閉じた。明日 園田が来る。設計図なしで。
翻訳者は 辞書だけ持って。マーカーは 持たない。
ホワイトボードには 何も描かない。
園田が 自分で描く。自分の距離を。自分の言葉で。
それを、見守る。隣で。




