第13話 あの依頼者が帰ってきた
第13話 あの依頼者が帰ってきた
園田真琴が帰ってきた。 去年、工作室が救ったはずの依頼者が。
六月の第三週。木曜日。放課後。
梅雨が本格化していた。毎日のように雨が降る。海が見えない日が増えた。工作室の窓から見える景色が 灰色の空と、灰色の海。湿気が六畳の部室に 重く溜まっている。
恋愛相談室が開設されてから二週間。工作室への依頼件数は じわじわと減っていた。ゼロではない。だが「公式のほうがいいんじゃない?」という空気が 校内に漂い始めている。凛花のノートに 数字が並んでいる。減少傾向。
だが今日は 件数の問題ではなかった。
四時十分。ドアがノックされた。 控えめな、小さなノック。
「どうぞ」
ドアが開いた。
女子だった。三年生。 制服のリボンが少し乱れている。髪が 去年より長くなっていた。肩を超えて、背中の半ばまで。目が 下を向いている。入ってきたのに 俺を見ない。
翻訳者の記憶が 動いた。
この顔を知っている。
「 園田」
声が 出た。驚きが声に乗った。
園田真琴。 三年A組。去年 二年生のとき、工作室に来た依頼者。依頼内容は 「友達のフリの再定義」。瀬尾という男子との関係。友達でもなく、恋人でもない。どちらの名前もつけられない距離にいた。
俺が 「第三の距離」を設計した。友達でも恋人でもない 名前のない関係。教室で小さく頷き合うだけの関係。それで十分だ と。園田はそれを受け入れた。着地した。 去年のことだ。
園田は パイプ椅子に座った。去年と同じ椅子。 いや、パイプ椅子はどれも同じだ。だが園田にとっては 一年前に座った、あの椅子だ。
「高瀬先輩 お久しぶりです」
声が 小さかった。去年の園田は もう少し声が大きかった。目も もう少し前を向いていた。
「久しぶりだ。 園田。どうした」
「あの 去年。工作室に 助けてもらったんですけど」
「ああ。 瀬尾との件」
「はい。 あれから 」
園田の手が 膝の上で握り締められた。指が白い。
「あれから もっと悪くなりました」
工作室が 静まった。
凛花がペンを止めた。蒼がPCの画面から顔を上げた。陽太がメロンパンを置いた。 全員が園田を見ている。
もっと悪くなった。
去年 俺が設計した距離が。着地したはずの関係が。 悪化した。
「......詳しく聞かせてくれ」
声を 低く保った。翻訳者モード。 だが心臓が速くなっていた。去年の依頼が 失敗していた可能性。俺の設計が 間違っていた可能性。
園田は ゆっくりと話し始めた。
「瀬尾くんとの距離 工作室で設計してもらいましたよね」
「ああ。 『名前のない距離』と呼んでいた。友達でも恋人でもない 第三の関係。教室で頷き合うだけの」
「はい。 あれから一年。その距離の通りに 生活してきました」
園田の声は 平坦だった。感情を押し殺しているのではなく 感情が平坦になっている。去年は もっと揺れていた。悩んでいた。今年は 揺れすらない。
「設計通りに ?」
「はい。毎日 教室で瀬尾くんとすれ違ったら、小さく頷く。目が合えば 微笑む。でも話しかけない。一緒に帰らない。放課後に会わない。 高瀬先輩が設計してくれた距離の、そのままに」
「そのまま 」
「一年間 一度も変えませんでした。変えちゃいけないと思っていたから」
変えちゃ いけない。
「変えちゃいけない ? 誰がそう言った」
「誰も言ってません。 でも。あの距離は工作室が設計してくれたものだから。正しい距離だと思っていたから。 変えたら、壊れるんじゃないかって」
翻訳者の脳が フル稼働した。園田の言葉を 処理する。
「正しい距離」。 俺が設計した距離を、園田は「正解」として受け取った。正解 だから変えてはいけない。変えたら間違いになる。正解から外れたら 関係が壊れる。
工作室の設計図が 「正解」になってしまった。
正解の檻。
園田は 設計図の中でしか動けなくなっていた。設計図が定めた距離 以上には近づかない。以下には離れない。一年間 ミリ単位で同じ距離を保ち続けた。
「園田。 その距離の中にいて お前は」
「苦しいです」
短い。 だが重い。
「苦しい。 毎日、瀬尾くんを見るたびに。頷いて。微笑んで。 でも話しかけられない。近づけない。 だって、設計通りの距離から出たら 」
「壊れると思ってる」
「はい。 高瀬先輩が作ってくれた距離が 正解だから。正解を変えたら 間違いになる。間違ったら 瀬尾くんとの関係は 終わると思って」
園田の目から 涙が一滴落ちた。膝の上の手に。 音がしなかった。静かな涙だ。去年の園田は もっと大きく泣いた。感情が溢れて 制御できなくて。今年は 涙すら制御されている。設計通りに。
翻訳する。 園田の状態を。
依存だ。
園田は 工作室の設計図に依存している。設計図が「正解」だと信じて そこから一歩も出られない。自分の判断で距離を変えることが 怖い。自分の判断を信じられない。 なぜなら、去年自分の判断では解決できなかったから。工作室に来た。工作室が設計してくれた。設計が機能した。 だから設計が正しい。自分の判断より設計が正しい。
設計が 園田の自律性を奪った。
俺の設計が。 俺が作った「名前のない距離」が。
「......園田」
声が 掠れた。
「それは 俺のせいだ」
園田が 顔を上げた。
「先輩の ?」
「設計が 成功しすぎた。お前が『名前のない距離』を受け入れたとき 俺はそれを着地だと思った。問題が解決した と。だが解決じゃなかった。お前に設計図を渡して 設計図通りに生きろ、とは言わなかった。でも 設計図が精密すぎて お前はそこから出られなくなった」
園田は 黙っていた。
「人間関係は 生き物だ。設計図通りにいくはずがない。一年前の距離が 一年後も正解であるわけがない。人は変わる。感情は変わる。関係も 変わるべきだ。 なのに、俺の設計図が 変化を止めてしまった」
凛花が ペンを握り締めていた。書けないでいる。 記録者が記録を止めるのは、処理が追いついていないとき ではない。今回は 違う。凛花も この依頼に関わっていたからだ。去年。園田の依頼のとき 凛花は記録者として参加していた。設計図を 凛花も見ていた。「着地」と書いたのは 凛花だ。
「先輩 私のせいでもあります」
凛花が 声を出した。
「記録に 『着地』と書きました。園田さんの依頼を。 着地したと思っていたから。でも 着地じゃなかった。 途中だった」
「凛花 」
「着地 と書いた記録が。園田さんにとっての『正解の証明』になっていたのかもしれない。工作室が着地と言ったから 正しいんだ、って」
凛花の目が 潤んでいた。だが泣かなかった。参謀は 泣かない。記録者は 泣かない。少なくとも 今は。
蒼は 無言だった。PCは閉じている。 この状況にデータは効かないことを 蒼は分かっている。
陽太は 腕を組んでいた。目が 真剣だった。いつものメロンパンの手は動かない。
園田が 俺たちの会話を聞いていた。
「先輩たちの せい、ですか」
「せい というか」
「でも 助けてもらったのは事実です。去年 工作室に来なかったら。あの距離を教えてもらえなかったら。瀬尾くんとの関係は 完全に壊れていたかもしれない」
「それは 」
「助けてもらった。 それは嘘じゃないです。でも 助けてもらったあとの一年間で。私は 自分で考えることをやめてしまった。設計図があるから 自分で考えなくてよかった。正解が あったから」
園田の言葉は 正確だった。翻訳者より正確に 自分の状態を記述している。
「正解があるって 楽なんです。自分で考えなくていい。迷わなくていい。 でも楽なぶん 筋肉が落ちた。自分で距離を変える筋肉が」
筋肉。 園田が使った比喩。自分で考えて、自分で判断して、自分で行動する力。 それが、設計図に頼り続けることで 衰えた。
久我先生の言葉が 頭の中で鳴った。「善意と能力は別です」。そして もう一つ。言われていない言葉が。
善意は薬だ。 でも薬には 副作用がある。
工作室の設計図は 薬だった。園田の苦しみを和らげた。「名前のない距離」は 園田に安定をもたらした。だが 安定が長すぎた。薬に頼りすぎた。自然治癒力が 衰えた。
副作用。 支援の副作用。
彩音が 工作室を批判した理由。「善意のアマチュアリズムは危険」。 具体的に何が危険なのか。これだ。副作用を予測できない。副作用が出たとき 対処できない。
彩音は 知っていた。自分自身が 同じ副作用を起こした経験があるから。「同じことをしていた人間として」。
「園田」
俺は 立ち上がった。ホワイトボードの前に。
だが マーカーを持てなかった。
去年 同じ場所に立って。園田のために設計図を描いた。「第三の距離」。ホワイトボードに 図を描いて。「友達でもなく、恋人でもない。ここに立て」と。
その図が 園田を縛った。
ホワイトボードの前に立つ ということが。設計図を描く ということが。もしかしたら それ自体が暴力だったのではないか。
彩音が言った。「場を作ることが心に影響を与えることを、あなたは知っているはずです」。
知っていた。 知っていたのに。知っていても 止められなかった。去年の俺には 設計図を渡さないという選択肢が見えていなかった。
「園田。 正直に言う」
「はい」
「俺は お前に設計図を渡した。去年。それが正しいと思ってた。今も あの時点では正しかったと思ってる。あの距離がなかったら お前と瀬尾の関係はもっと早く壊れていたかもしれない」
「はい」
「だが 設計図を渡した後のことを考えていなかった。設計図が いつまでも有効であるかのように。一度作れば 永遠に機能するかのように。 人間関係は変わるのに。設計図だけが 変わらないまま」
「先輩 」
「渡したものの 責任がある。俺が作った場が お前を縛った。場を作ったのは俺だ。場が長すぎたのも 俺の設計ミスだ。 すまない」
頭を 下げた。ホワイトボードの前で。依頼者に 頭を下げた。
工作室の団長が。 依頼者に謝罪している。去年の支援が 副作用を生んだことを。
陽太が 息を吐いた。小さく。
凛花が ペンを握ったまま 何も書けずにいる。
蒼は 黙っている。
園田は 俺を見ていた。頭を下げている俺を。 涙は止まっていた。代わりに 目が 少しだけ開いていた。驚き ではない。もっと 静かな感情。
「先輩。 頭を上げてください」
「......」
「設計図は 正しかったです。あのときの私には 必要でした。設計図がなかったら 私は瀬尾くんとの関係をどうしていいか分からなかった。 ゼロだった。設計図で ゼロから少しに進めた」
ゼロから少し。 志帆の言葉だ。「ゼロから少しは大きい」。 園田の口から 同じ構造の言葉が出た。
「でも 少しのまま、一年間止まっていた。設計図の『少し』から 先に進めなかった。 それは先輩のせいじゃないです。私が 自分で進まなかったから」
「自分で 進まなかった?」
「設計図があるのに わざわざ壊す必要ないって思ってた。動いてるんだから いいじゃないかって。でも 動いてたんじゃない。止まってた。設計図の中で」
園田は 自分の状態を、自分で翻訳していた。翻訳者より 正確に。
「だから 来ました。工作室に。また。 でも今回は 設計図をもらいに来たんじゃないです」
「じゃあ 何を」
「設計図を 捨てに来ました」
捨てる。
「去年もらった設計図を もう使わないと。自分で決めたくて。 工作室の前で。先輩の前で。 だって、ここでもらったものだから」
園田の目が 真っ直ぐ俺を見ていた。涙は乾いていた。 去年の園田より 強い目だ。一年間止まっていた だが、止まっていた間にも 何かが育っていたのだ。
「先輩。 設計図、返します」
「返す って。物理的なものは渡してないぞ」
「言葉として 返します。 『名前のない距離』。あれは工作室のものです。私のものじゃなかった。借りていただけ。 返します」
園田が 立ち上がった。
「明日から 自分で距離を決めます。瀬尾くんと。 近づくかもしれない。離れるかもしれない。壊れるかもしれない。 でも、自分で決める。設計図なしで」
「園田 」
「怖い です。自分で決めるのは。去年、工作室に来たときと同じくらい怖い。 でも。今度は 自分で決めます」
選ぶのは本人。 工作室の原則。それを 園田が、自分の言葉で言い直している。
「園田。 一つだけ」
「はい」
「壊れたら また来い。工作室に。設計図は渡さない。だが 隣には立つ」
園田が 微笑んだ。去年の 作り物の笑顔ではなかった。もっと 歪で、もっと 本物の笑顔。
「はい。 壊れたら 来ます」
園田が帰っていった。
ドアが閉まった。 足音が廊下に消える。蛍光灯の切れた暗い廊下を。
工作室に 四人が残った。
沈黙。 長い沈黙。
「恒一」
陽太が 最初に口を開いた。声が 低かった。
「......お前、大丈夫か」
大丈夫か。 大丈夫ではなかった。
「大丈夫 じゃない」
「だろうな。 顔が白い」
「白い か」
「白いよ。 普段は白くないのに」
俺は ホワイトボードの前に立ったまま。マーカーを持てないまま。
設計が 副作用を生んだ。園田を縛った。俺の設計が。 去年、ホワイトボードに描いた「名前のない距離」が。
場を作ること の責任。
去年 桐生先輩に言われた。「場を作り続けろ」。場を作った。 だが、作った場が 人を閉じ込めた。
場を作ることの裏側に 場に閉じ込めるリスクがある。翻訳者は 辞書を見せているだけだ と思っていた。だが辞書のページを選ぶこと自体が 相手の行動を規定する。彩音が指摘した通りだった。
久我先生の正論も 蘇る。「善意と能力は別です」。「心理支援には訓練が必要です」。 訓練を受けていない人間が設計図を渡す。設計図が精密であればあるほど 副作用も大きい。
「高瀬先輩」
凛花の声が 静かだった。
「園田さんは 自分で決めると言いました。設計図を返す と。 先輩のせいだけじゃないです」
「でも 俺の設計が」
「設計が 園田さんに必要だった時期はありました。去年は。 副作用が出たのは、設計が間違っていたからじゃなく 設計に期限がなかったから。薬に 服用期間が設定されていなかった」
凛花の分析は 鋭かった。
薬の服用期間。 設計図には 使用期限が必要だった。「この距離は一年間有効。一年後に見直す」。 そう書いておくべきだった。書かなかった。設計図を渡して 終わりにした。フォローアップがなかった。
「アフターケア が、なかったんだ」
「はい」
「設計図を渡した後の フォロー。期限の設定。依頼者のその後の確認。 全部、なかった」
凛花がノートに書いた。 ようやく。ペンが動いた。
「 課題:設計図の期限。依頼者へのアフターケア。 ver.2の五原則に不足している要素」
パタン。
蒼が 口を開いた。
「高瀬先輩。 僕のデータで、園田さんの一年間を 遡れます。SNSの反応パターンから 設計図がいつから副作用を出し始めたか 特定できると思います」
「......頼む」
「了解です。 園田さんの許可が必要ですが」
「もちろんだ。 同意なしにはやらない」
「はい。 覚えてます」
蒼が 忘却屋の件で学んだことを 実践している。許可なしにはデータを使わない。
夜。自室。
ベッドに座って ノートを開いた。去年のノート。ver.2のルールを書いたノート。
園田のページを 開いた。
「依頼④:園田真琴。友達のフリの再定義。設計:第三の距離。名前のない関係。 着地」
着地。 と書いてある。俺の字で。
着地 ではなかった。途中だった。
園田は一年間 「着地」の中に閉じ込められていた。着地点から 動けなくなっていた。設計図が 鉄格子になっていた。
ノートの余白に 書き加えた。
「 副作用。設計図が依頼者の自律性を奪った。フォローアップの不在。アフターケアの欠如。 ver.2の原則に、不足がある」
ver.2の原則に 不足がある。
五原則は 「場を作る」ことまでしかカバーしていない。場を作った後 場がどうなるかは。場が依頼者にどんな影響を与え続けるかは 原則の外だ。
場を作ることの責任は 場が存在する限り続く。
桐生先輩のルールは 「場を作り続けろ」だった。作り続ける ことは書いてあった。だが「作った場をどう手放すか」は 書いていなかった。桐生先輩にも 見えていなかった穴。
場を作る。 そして、場を手放す。
場を 手放す方法。
まだ 言葉にできない。園田の依頼は まだ終わっていない。園田が自分で距離を決めると言った。 その選択を 見守る。支える。だが 新しい設計図は渡さない。
設計図なしで 歩けるように。
園田に必要なのは 新しい正解ではない。正解がなくても歩ける足だ。
久我先生の正論が 蘇る。「善意と能力は別です」。 その通りだった。善意で設計図を渡した。能力の限界を知らなかった。副作用を予測できなかった。 素人だったから。
だが 素人だったから悪い のか。
素人でなければ この副作用は防げたのか。久我先生のようなプロなら 防げたのか。
分からない。 プロにも副作用はあるだろう。彩音が それを証明している。彩音は素人ではなかった。心理学の知識があった。カウンセリングの訓練を受けていた。 それでも「壊した」。
素人もプロも 副作用から逃れられない。
なら 違いは何だ。
プロは 副作用を予測できる。予測して 対処できる。素人は 予測できない。対処も 遅れる。
だが 素人にしかない強みがある。同じ目線で隣に立つ。依頼者と同じ場所にいる。 同じ年齢で、同じ学校で、同じ制服を着て。
園田に頭を下げられた のは、俺が同じ場所にいたからだ。プロのカウンセラーが頭を下げても 園田には届かない。同じ場所にいる人間が 自分の失敗を認めて、頭を下げて、「すまない」と言った。 それが園田に届いた。
同じ目線の 強みと弱み。
弱み:副作用を予測できない。対処が遅れる。
強み:失敗したとき 隣に立って、一緒に痛む。
「一緒に痛む か」
声に出して 呟いた。自室で。一人で。
それが 工作室の存在意義なのか。まだ 分からない。言葉として まだ完成していない。
だが 欠片は見え始めている。
スマホが振動した。 凛花からだった。
『高瀬先輩。 今日の件。記録しました。 明日、全員でどうするか話しましょう。先輩一人で抱えないでください。全員でやりましょう』
『......ああ。 ありがとう、凛花』
『先輩。 一つだけ。園田さんが「設計図を返します」と言ったとき。先輩 泣きそうでした。翻訳者が 泣きそうになってた。 それは先輩が本気だったからです。園田さんにも 伝わったと思います』
泣きそう だったか。分からなかった。自分では。 翻訳者は自分の感情が見えにくい。
『泣いてない』
『泣いてません。でも 泣きそうでした。記録してあります。「高瀬先輩、目が赤かった。時刻 16時38分」』
時刻まで 記録している。凛花は 容赦がない。だが その容赦のなさが、今は 温かかった。
『凛花。 この依頼は、俺の過去の後始末だ。俺が 責任を取る』
『先輩一人じゃ無理です。 全員でやりましょう。蒼くんのデータも使います。陽太先輩の場づくりも。私の記録も。 四人で。工作室として』
『......了解。 四人で』
『おやすみなさい。 先輩。明日 園田さんに連絡しますか?』
『する。 「設計図は渡さない。でも隣には立つ」。それだけ伝える』
『了解です。 記録しておきます』
パタン。 スマホの画面が暗くなった。
ノートを閉じた。 去年のノート。園田のページに 「副作用」と書き加えた。
窓の外。 雨が降っている。六月の雨。梅雨の雨。 海が見えない。灰色の雨と灰色の空。
去年 同じ窓から。桜が見えた。海が見えた。工作室が始まったばかりの 春の景色。
あれから 一年。設計図を渡した依頼者が 副作用を抱えて帰ってきた。
場を作ることの責任。 場が続く限り、終わらない。
「場を作るだけ」では 足りなかった。場を作った後 場を手放す方法も。
「場を手放す」。
新しい概念。 まだ形になっていない。だが 必要だ。園田のために。これから来る依頼者のために。 そして、工作室自身のために。
来年 俺は卒業する。工作室を凛花に渡す。 それも「場を手放す」ことだ。
場を 作って、手放す。
その両方ができたとき 工作室は完成する。
まだ 完成していない。
でも 近づいている。
雨音を聞きながら 目を閉じた。明日 四人で考える。園田の後始末を。 俺一人の罪ではなく。四人の課題として。
翻訳者の仕事は まだ、終わっていない。




