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朝凪高校・恋路工作室 ── 恋愛操作団が愛と願いを叶えます ──  作者: Song1
朝凪高校・恋路工作室 ──最後の翻訳──
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第14話 壊れない壊れ方

 第14話 壊れない壊れ方


 金曜日。園田は来なかった。


 土日を挟んで、月曜日。園田は来なかった。


 火曜日。来なかった。


 来ないこと自体に意味がある。園田は「俺の辞書にない言葉を一つ持ってこい」と言われている。その一つが見つからないから来られないのか。来ることが依存だと分かっているから来ないのか。


 判断できない。待つしかない。心は操作しない。ルール①。


 しかし待っている間にも、亀裂は広がっている。


 七月の第二週。蝉が本格的に鳴いている。合唱になった。一匹の孤独な声から始まった蝉は、今や校舎を包囲している。朝から夕方まで切れ目なく鳴き続けている。窓を開けると音の壁が押し寄せてくる。


 工作室の日常は動いていた。新しい依頼が来ている。しかし俺の中に亀裂がある。翻訳者の仕事をしながら、翻訳者であること自体を疑っている。翻訳するたびに、この言葉が依頼者を縛るのではないかと考える。言語化するたびに、この言語化が依頼者の自律を奪うのではないかと怯える。


 翻訳の精度が落ちていた。


 自覚がある。依頼者の言葉を聞いても、以前のように自動で裏を読めない。読もうとすると、園田の顔が浮かぶ。翻訳者の辞書が園田を縛った。あの辞書で次の依頼者も縛るのか。


 怯えている。翻訳することに。


 水曜日。


 昼休み。工作室。定例ミーティング。


「先輩。率直に言います」


 凛花がノートを開いた。


「翻訳の精度が落ちています」


 直球だった。参謀は数字を持っている。工作室の活動記録を二冊目のノートで管理している凛花は、翻訳者のパフォーマンスを把握している。


「月曜の新規依頼。先輩の初回面談の所見が浅い。いつもなら三層目まで読むのに、一層目で止まっています」


「分かっている」


「原因も分かっています。園田先輩のことです」


「ああ」


「先輩は翻訳することを怖がっています。翻訳が依頼者を縛ると思って、翻訳の手が止まっている」


 凛花の観察が正確だった。参謀は翻訳者を観察している。翻訳者が依頼者を観察するように、参謀は翻訳者を観察する。


「提案があります」


「聞く」


「久我先生に相談してください。非公式の助言関係です。先週合意しました。使うべきときです」


 正しい。先週の水曜日に久我と合意した枠組み。外部チェック機能。方針に対するフィードバック。


 しかし久我に何を聞く。翻訳の副作用にどう対処すればいいか。プロなら答えを持っているのか。


「今日の放課後、行ってきます」


「陽太先輩と蒼くんには新規依頼の初期対応を頼みます。先輩は久我先生のところへ」


 凛花が仕切った。参謀が工作室を回している。俺がいなくても動く。前作でも、俺が壊れたとき凛花と陽太と玲奈が工作室を回した。今回もそうなりかけている。


 壊れてはいない。ひびだ。しかしひびのせいで精度が落ちている。精度が落ちた翻訳者は、依頼者の前に立つべきではない。


 放課後。本校舎二階。


 三度目のカウンセリングルーム。月曜の四人、水曜の一対一、そして今日。


 ノックした。二回。


「どうぞ」


 入った。久我が椅子に座っていた。先週と同じ斜めの配置。


「高瀬くん。早いですね」


「早い」


「非公式の助言関係を、もう使いに来た」


「はい」


「何がありましたか」


 座った。素手ではない。今日はノートを持っている。しかしノートには何も書いていない。白紙のノート。記録のためではなく、翻訳者の道具として持ってきた。道具を持っていないと不安だから。


「先週、先生が言っていた生徒。工作室の言葉が頭から離れないと言った生徒。あの子が来ました」


 久我の目が動いた。


「名前は出しません。しかし先生が心配していた子です」


「来たんですね。工作室に」


「はい。翻訳者の言葉が依頼者の辞書を上書きしていました。自分の言葉で感情を言語化できなくなっている。俺の翻訳が、その子の自律を奪っている」


 久我が黙って聞いていた。先週と同じ傾聴。しかし今日の久我の目は、先週とは違う光を含んでいた。心配ではなく関心。プロとしての関心。


「翻訳の副作用と、部内では呼んでいます」


「翻訳の副作用。いい名前ですね。心理学ではイネイブリングに近い概念です」


 イネイブリング。支援者が被支援者の自律を損なう行為。アルコール依存の家族が飲酒を手助けしてしまうように、支援者が善意で支援することが、被支援者の自立を妨げる。


「カウンセリングでも起きます。カウンセラーに依存するクライアント。解決を自分でせずにカウンセラーに頼る。カウンセラーが優秀であるほど、クライアントは自分で考えなくなる」


「プロでも起きるんですか」


「もちろん。だからスーパーバイザーがいるんです。外部の目が必要なんです」


 久我の声が穏やかだった。しかし先週の正論の穏やかさとは違う。今日の穏やかさは、仲間に対する穏やかさに近い。同じ問題を扱う者同士の穏やかさ。


「高瀬くん。一つ確認します。その生徒に対して、あなたはどう対応しましたか」


「翻訳を拒否しました。俺の言葉を使わずに自分の感情を自分の言葉で言え、と」


「それは正しい対応です」


 即答だった。久我が即答した。先週は「しかし」を繰り返していた久我が、今日は即答で肯定した。


「翻訳を止める。依頼者自身の言語化を促す。それは臨床でも使う手法です。カウンセラーが解釈を与えすぎているとき、意図的に解釈を保留して、クライアント自身に語らせる。あなたはそれを直感でやった」


「直感というか。翻訳すれば依存が深まると分かったから、翻訳以外の方法を選んだだけです」


「それが直感です。訓練を受けていなくても、正しい方向に動ける。先週、あなたが言った『同じ場所に立つ力』。これがその具体例です」


 久我がメモを取っていた。プロが素人の対応をメモしている。


「しかし問題があります」


 来た。久我の「しかし」。しかし今日の「しかし」は攻撃ではない。共同で問題を検討する「しかし」だ。


「翻訳を拒否した。しかしその拒否自体が翻訳者の行為です。『自分の言葉で言え』という指示も、翻訳者からの指示です。依頼者はその指示にも依存する可能性がある」


「分かっています。本人もそれを指摘しました。ルール③を引用したら、それも先輩の辞書に登録されると」


「賢い子ですね。自分の依存構造を自覚している。自覚があるなら、回復の可能性は高い」


「回復の方法は」


「段階的な距離の調整です。一気に断つのではなく。依頼者との接触頻度を下げながら、依頼者自身の言語化の機会を増やす。翻訳者がいない場で、依頼者が自分の言葉を使う経験を積ませる」


 段階的な距離の調整。


 名前のない距離を見つけた園田に、今度は翻訳者との距離を調整する。前作では瀬尾との距離が問題だった。今作では翻訳者との距離が問題になっている。


「具体的には」


「面談の間隔を空ける。毎日来ていたなら週に一回に。週に一回なら月に一回に。そして面談の中で翻訳者の発言量を減らす。聞く比率を上げる。翻訳する代わりに、依頼者の言葉をオウム返しする。依頼者の言葉を翻訳者の言葉で言い換えず、依頼者の言葉のまま返す」


「オウム返し」


「はい。依頼者が『怖い』と言ったら、『怖いんだね』と返す。『怖いということは、つまりこういうことだ』と翻訳しない。依頼者の言葉をそのまま鏡にして返す」


 鏡。翻訳者ではなく鏡になる。依頼者の言葉を映すだけ。変換しない。解釈しない。翻訳しない。


「翻訳者が鏡になるのは、翻訳者のアイデンティティを手放すことです。高瀬くんにとってはつらい作業かもしれない」


「つらい」


 認めた。つらい。翻訳者として二年間やってきた。翻訳が俺の武器だ。道具だ。存在理由だ。その翻訳を封じて鏡になる。翻訳者が翻訳しない。それは翻訳者ではなくなることだ。


「もう一つ」


 久我の声が少し低くなった。


「高瀬くん自身の状態が心配です」


「俺の状態」


「翻訳の精度が落ちていませんか」


 凛花と同じことを言っている。外部から見ても分かるほど精度が落ちている。


「落ちています」


「原因は、自分の翻訳が依頼者を傷つけるかもしれないという恐怖ですね」


「はい」


「それは医者が手術を怖がるのと同じ構造です。メスで患者を救ったことがある医者が、メスで患者を傷つけたことに気づく。次の手術でメスを持つ手が震える」


 久我の比喩が正確だった。翻訳者のメスが震えている。


「震えている手で手術すべきではありません。しかし手術をやめるべきでもない。震えを止める方法を見つけるべきです」


「方法は」


「二つあります。一つは実践です。震えたまま手術を続けること。震えながらも手を動かし続けること。震えは経験の中で小さくなります」


「もう一つは」


「語ることです。震えていることを。怖がっていることを。信頼できる人間に。言語化すると恐怖は小さくなる。あなたは翻訳者です。他人の感情を言語化するのは得意なはずです。しかし自分の感情を言語化するのは」


「苦手です」


「そうでしょうね」


 久我が笑った。穏やかに。


「翻訳者は他人の言葉を翻訳できるが、自分の言葉は翻訳できない。カウンセラーも同じです。自分のことは一番見えない」


「久我先生も」


「もちろん。だから私にもスーパーバイザーがいます。同じ構造です」


 同じ構造。プロも素人も、自分のことは見えない。外部の目が必要。久我にスーパーバイザーがいるように、俺にも外部の目が必要。


 久我がその外部の目になりつつある。非公式の助言関係。先週合意した枠組みが、もう機能し始めている。


「高瀬くん。震えていることを、誰かに話しましたか」


「仲間には」


「仲間以外に。工作室の外で」


 彩音の顔が浮かんだ。


 木曜の夜。LINEで。彩音に話した。園田のこと。亀裂のこと。彩音は「壊れないでください」と言った。「ひびから光が入る」と言った。


「一人だけ。工作室の外で」


「その人に、もっと話してください。震えていること。怖がっていること。翻訳者として機能しなくなりかけていること。全部」


「その人に話すことが、その人への依存になりませんか」


 園田と同じ構造を恐れた。俺が彩音に自分の弱さを語ることが、彩音への依存を生むのではないか。翻訳者が特定の人間に自分の翻訳を求めることが。


 久我が首を横に振った。


「依存と信頼は違います。依存は一方向です。信頼は双方向です。その人があなたに何かを返してくれるなら、それは依存ではない。信頼です」


 依存と信頼の違い。園田は俺に一方的に翻訳を求めた。一方向。依存。


 彩音は。


 彩音は俺に言葉をくれた。「素手で行け」。「揺らぐことは悪いことじゃない」。「ひびから光が入る」。俺が彩音に話し、彩音が俺に返す。双方向。


 信頼。


「分かりました。話します」


「いい。それと」


 久我が椅子から身を乗り出した。


「あの生徒のケアについて、一つだけ提案があります」


「はい」


「工作室の外で、あの子が自分の言葉を使う場を作ること。工作室の中ではあなたの辞書が強すぎる。工作室の外で、翻訳者のいない場所で、あの子自身の言葉を取り戻す練習をさせること」


「工作室の外」


「相談室でもいい。私が対応します。翻訳者の辞書を使わない言語化の練習。臨床心理士の手法で」


 久我が園田のケアを引き受けようとしている。工作室では治せない副作用を、相談室で治す。制度と草の根の共存。先週合意した棲み分けの、最初の実践。


「ただし」


「はい」


「あの子が望む場合に限ります。強制はしない」


「当然です。心は操作しない」


「あなたのルール①ですね」


「はい」


 久我が微笑んだ。工作室のルールを引用する久我。制度の人間が草の根の言葉を使う。壁の窓が少しずつ大きくなっている。


 カウンセリングルームを出た。


 渡り廊下。本校舎から旧部室棟へ。光が変わる。空気が変わる。


 工作室に戻った。陽太と蒼が新規依頼の初期対応をしていた。凛花が記録を取っていた。三人で回っている。翻訳者不在でも動いている。


 しかし翻訳者がいたほうが精度は高い。三人でカバーできる部分と、翻訳者がいなければ届かない部分がある。


「久我先生と話してきた」


 三人に報告した。段階的な距離の調整。オウム返し。鏡になること。園田のケアを相談室が引き受ける可能性。


 凛花がノートに全部記録した。


「先輩。震えを止める方法、見つかりましたか」


「途中だ。実践するしかない。震えたまま翻訳する」


「なら、新規依頼の二回目の面談。先輩がやってください。震えたまま」


「ああ」


「記録は私が取ります。翻訳の精度が落ちていたら、フィードバックします。久我先生の代わりに。内部のチェック機能として」


 凛花が内部チェックを買って出た。久我が外部チェックなら、凛花が内部チェック。工作室に足りなかった検証システムが、二つ同時に立ち上がりつつある。


「頼む」


「先輩」


 凛花の声が少しだけ柔らかくなった。参謀の声ではなく、後輩の声。


「壊れないでください。前にも言ったことがあります。先輩が壊れると、工作室が止まる。止まると依頼者が困る」


「彩音にも言われた」


「瀬川さんに」


「壊れたら二人分の痛みになると」


「同じことを、二人に言われているなら大丈夫です。二人が見ているなら倒れません」


 凛花がノートを閉じた。


 放課後が終わりに近づいている。窓の外が夕暮れ色に変わった。七月の夕暮れ。長い日。蝉が少しだけ弱まる時間。


 工作室を出た。


 廊下に彩音がいた。


 四日ぶりだ。金曜、土日、月曜、火曜と廊下にいなかった。今日、水曜日に戻ってきた。窓際。いつもの場所。海を見ている。


「瀬川」


「高瀬さん。お久しぶりです」


「四日ぶりだ」


「数えてたんですか」


「数えてない。感覚だ」


「感覚で四日が分かるなら、数えなくてもいいですね」


 彩音の声にいつもの毒が戻っていた。木曜の夜のLINEの声とは違う。「ひびから光が入る」と言った壁の薄い声ではなく、いつもの丁寧な毒舌の声。壁が戻っている。


 しかし壁の厚さが以前とは違った。薄くなった壁は、厚く戻しても痕跡が残る。


「四日間、廊下にいなかった理由を聞いていいか」


「いいですよ。大した理由ではないです」


「大した理由じゃないなら言え」


「考えていました」


「何を」


「高瀬さんとの距離を」


 心臓が止まった。


 距離。園田に渡した言葉。名前のない距離。名前のある距離。翻訳者の辞書にある言葉。


 しかし彩音が使う「距離」は、俺の辞書とは違う文脈だ。彩音は俺の辞書を知っているが、借りているわけではない。彩音自身の言葉として「距離」を使っている。


「園田さんの件を聞いて、怖くなりました」


 彩音の声が低くなった。毒舌の温度が消えた。


「私は高瀬さんの近くにいます。協力者として。しかし近くにいることが、園田さんと同じ構造を生むかもしれない。高瀬さんの言葉に依存する構造を。私の中に」


 彩音は園田と自分を重ねている。翻訳者の近くにいることが依存を生む可能性を、自覚的に恐れている。


「だから四日間、離れていました。離れて、自分の中を確認していました。高瀬さんの言葉がなくても、自分の言葉で考えられるかどうか」


「結果は」


「考えられました。四日間、高瀬さんの辞書を使わずに過ごせました。距離、翻訳、設計、名前。そういう言葉を意識的に避けて、自分の言葉だけで四日間を生きました」


 彩音が自分にリトマス試験をかけていた。園田と同じ依存に陥っていないかを、四日間の断絶で検証した。


「検証の結果、大丈夫でした。私は高瀬さんの辞書に依存していません。私の辞書は私のものです。高瀬さんの言葉を借りることはありますが、上書きされてはいません」


「よかった」


「よかった、ではないです」


 彩音の声が鋭くなった。毒舌が一瞬戻った。


「よかった、で済ませないでください。園田さんが依存していて、私が依存していない。その差はどこにあるか。考えましたか」


「考えていない」


「考えてください。園田さんと私の差が分かれば、翻訳の副作用を防ぐ方法が見つかるかもしれません」


 正しい。園田は依存した。彩音は依存しなかった。同じ翻訳者の近くにいて、結果が分かれた。その差は何か。


「一つだけヒントを出します」


 彩音が窓枠に手を置いた。夕日が彩音の手を照らしている。


「私には、高瀬さんの言葉に反論する力があります。『分析じゃなくて逃避ですよね』。初日にあなたに言ったあの言葉。あれは高瀬さんの辞書にない言葉でした。私の言葉でした。私は最初から、高瀬さんと対等に議論できた。高瀬さんの翻訳を受け取りつつ、自分の言葉で返せた」


「対等に議論する力」


「園田さんには、それがなかった。園田さんは高瀬さんの翻訳を受け取るだけだった。返す言葉を持っていなかった。一方通行だった。だから依存になった」


 久我が言っていた。依存は一方向。信頼は双方向。


 園田は受け取るだけだった。一方向。だから依存になった。彩音は受け取って返した。双方向。だから依存にならなかった。


「翻訳者が翻訳を渡すとき、相手に返す力があるかどうか。それが依存と信頼の分岐点です」


「返す力がない相手に翻訳を渡すと」


「依存を生む。返す力がある相手に渡せば、対話になる。翻訳の副作用は、返す力のない相手に一方的に翻訳を渡し続けた結果です」


 彩音の分析が鋭かった。前の学校で同じ構造を経験した人間の分析。善意の介入で生徒に依存を生んだ彩音は、依存の構造を内側から知っている。


「先輩の翻訳が悪かったんじゃないです。翻訳の渡し方が一方的だったんです。相手の返す力を確認せずに渡した。薬の量を患者に合わせなかった。効きすぎた」


 効きすぎた。名前のない距離は園田に効いた。効きすぎた。量の問題。処方の問題。薬自体の問題ではなく。


「高瀬さん。自分を責めるのをやめてください」


「責めてない」


「嘘です。顔に出ています。翻訳者は表情を読むのが得意ですが、自分の表情は読めない。今、先輩の顔は自分を責めている顔です」


 先輩。


 また呼んだ。すぐに気づいて。


「高瀬さん」


 修正した。しかし遅い。二度目の「先輩」。耳が赤くなっていなかった。今回は。赤くなる前に修正した。


「園田さんのケアは、久我先生と連携すればいい。高瀬さんがやるべきことは、翻訳の精度を戻すことです。震えた手でメスを持ち直すこと」


「久我先生と同じことを言う」


「当然です。正しいことは誰が言っても同じになります」


 彩音が笑った。いつもの毒舌の笑み。しかし笑みの奥に、毒ではないものが混ざっていた。心配。


「梅雨明けの理由。まだ言えていません」


「ああ」


「もう少し待ってください。高瀬さんの精度が戻ってから。揺れが止まってから」


「揺れは止まらないかもしれない」


「止まらなくてもいいです。揺れながら立てるようになったら」


 揺れながら立つ。固まった正しさではなく、揺れる正しさ。


「分かった。揺れながら立つ。それならもうできている」


「本当ですか」


「本当だ。揺れている。しかし立っている。倒れていない」


 彩音が俺を見た。三秒。目が何かを確認していた。翻訳者の目ではなく、彩音自身の目で。


「確認しました。立っていますね。揺れていますが」


「確認方法は」


「直感です。十二回分のデータと、四日間の不在と、今の顔。全部合わせて。直感で」


「データと直感を混ぜるな」


「混ぜます。蒼くんのデータ分析と違って、私のデータは数字ではなく言葉です。言葉のデータは直感で処理するほうが精度が高い」


 翻訳不能。


 彩音の論理を翻訳しようとして、やめた。翻訳しない。受け取るだけにする。


「また明日。工作室に来ます。今度は廊下じゃなくて中に」


「入るのか」


「入ります。園田さんのケア、手伝いたい。前の学校で同じ失敗をした人間として。翻訳者ではない立場で、園田さんと話す機会をもらえませんか」


 彩音が園田のケアに関わろうとしている。翻訳者ではない人間として。翻訳者の辞書を使わない人間として。園田が自分の言葉を取り戻す手助けを、翻訳者ではない彩音がする。


 久我が言った「工作室の外で自分の言葉を使う場」。相談室だけではない。彩音という選択肢がある。翻訳者でもカウンセラーでもない、同じ失敗を経験した元生徒カウンセラー。園田と対等に話せる人間。


「凛花と相談する。園田の意思も確認する。しかし方向としては、ありだ」


「ありがとうございます」


 彩音が去っていった。廊下の奥に。


 一人で廊下に残った。夕日が旧部室棟の窓から差し込んでいる。蝉の声が夕方の余韻に変わっている。


 揺れている。まだ。しかし立っている。


 壊れない壊れ方。ひびが入っているが砕けない。揺れているが倒れない。精度は落ちているが翻訳者を辞めない。


 震えた手でメスを持ち直す。明日から。新規依頼の二回目の面談。凛花がチェックしてくれる。久我が外から見てくれる。彩音が園田のケアを手伝ってくれる。


 一人で抱えなくていい。前作では壊れた。一人で抱えて壊れた。今回は壊れない。一人ではないから。


 久我がいる。凛花がいる。陽太がいる。蒼がいる。彩音がいる。


 翻訳者は一人で翻訳するが、一人で立つ必要はない。


 帰り道。海沿い。蝉。夕暮れ。


 スマホが光った。凛花。


『先輩。新規依頼の件ですが、SNS経由の恋愛相談です。蒼くんが分析したがっています。詳しくは明日のミーティングで』


 SNS経由の恋愛相談。蒼の得意分野だ。データ分析が活きる領域。


 園田のケアと並行して、新しい依頼が動き出す。工作室は止まらない。翻訳者が揺れていても。


 七月の夜。蝉。星。潮の匂い。


 亀裂はまだある。しかし亀裂の中に光が入り始めている。彩音が言った通り。ひびから光が入る。


 壊れない壊れ方を覚えた。揺れながら立つ方法を。


 明日、翻訳者は震えた手でメスを持つ。

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