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朝凪高校・恋路工作室 ── 恋愛操作団が愛と願いを叶えます ──  作者: Song1
朝凪高校・恋路工作室 ──最後の翻訳──
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第13話 翻訳の副作用

 第13話 翻訳の副作用


 園田美咲が工作室のドアの前に立っていた。


 木曜日の放課後。昨日、凛花からのLINEで聞いていた。園田が来た。明日また来る。表情は暗い。


 明日が来た。園田が来た。


 ドアの前で立ち止まっている。ノックしていない。ドアに手を伸ばしかけて、止まっている。


 俺は工作室の中から見ていた。ドアは開いている。いつも開いている。工作室のドアは常時開放だ。来る人間を拒まない。ノックも要らない。入ればいい。


 しかし園田はノックしようとしている。一年半前に初めて来たときと同じだ。あのときもドアの前で止まっていた。迷っていた。


 一年半。


 園田美咲。前作の依頼者。三年生。瀬尾との関係を工作室に持ち込んだ人間。名前のない距離を見つけた人間。四月に一度帰ってきて、瀬尾との距離に名前をつけた。ルール⑥が初めて適用された相手。


 あれから三ヶ月。梅雨が過ぎ、夏が来た。園田は解決したはずだった。距離に名前をつけた。瀬尾との関係が「名前のある距離」に変わった。


 なのに、また来ている。


 表情が暗い。凛花が言った通りだ。


「園田」


 俺はドアのところまで歩いた。声をかけた。


 園田が顔を上げた。目が合った。


 違う。


 四月に来たときの園田とも、一年半前の園田とも違う。目が曇っている。曇っているが、泣いてはいない。涙の前段階でもない。もっと深いところにある曇り。表面ではなく底のほうが濁っている。


「高瀬先輩。来ました」


「入れ」


 園田が工作室に入った。


 陽太と凛花と蒼がいた。全員がいる放課後だ。園田が来ることは昨日のうちに共有してある。しかし園田の目は俺だけを見ていた。


「先輩に話したいことがあります。できれば、二人で」


 陽太が俺を見た。凛花が俺を見た。蒼が俺を見た。


 二人で。園田は俺と二人きりで話したいと言っている。工作室の対話は基本的に全員参加だ。しかし依頼者が二人を望むなら、応じる。ルールに「全員参加」は明文化されていない。


「分かった。三人は外で待ってくれ」


 陽太が頷いた。凛花がノートを持ちかけて、やめた。記録係が席を外す。異例だ。しかし園田の表情が異例だった。


 三人が出ていった。ドアは開けたまま。開けたままだが、廊下に人がいないことを確認した。旧部室棟の放課後は人が少ない。


 園田が椅子に座った。俺は向かいに座った。


 窓から七月の光が入っている。蝉の声。海風。埃っぽい空気。工作室の空気。園田にとっては一年半前の記憶がある空気だ。


「瀬尾とは、どうなった」


 最初に聞いた。四月に解決したはずの案件。名前のある距離。


「瀬尾くんとは順調です」


 園田の声は落ち着いていた。瀬尾の話をするときだけ、目の曇りが薄くなった。


「付き合っています。四月に距離に名前をつけてから。ちゃんと。ケンカもするけど、仲直りもできています」


「よかった」


「はい。瀬尾くんのことは、大丈夫です」


 大丈夫です、の後に沈黙が続いた。


 瀬尾のことは大丈夫。では何が大丈夫ではないのか。


「園田。今日来たのは、瀬尾のことじゃないんだな」


「はい」


「何があった」


 園田が膝の上で手を組んだ。指が白くなるくらい強く握っている。


「先輩。私、おかしくなってるかもしれません」


 声が小さかった。しかし震えてはいなかった。震えるよりも深い場所にある声だった。


「おかしい、とは」


「先輩の言葉が、頭から離れないんです」


 心臓が止まった。


 久我が言っていた。相談室に来た生徒。工作室で言われた言葉が頭から離れない。


 園田だ。


 久我の相談室に行ったのは園田だった。


「具体的に聞かせてくれ」


「名前のない距離。先輩が教えてくれた言葉です。瀬尾くんとの関係に名前をつけなくていい。距離があってもいい。距離に名前がなくてもいい。その言葉で私は救われました。一年半前に」


「ああ」


「四月にまた来て、今度は距離に名前をつけた。瀬尾くんと付き合うことにした。名前のない距離から、名前のある距離に変わった。それも先輩の翻訳でした」


「ああ」


「でも」


 園田の手が震えた。指が白い。


「名前のない距離。名前のある距離。翻訳。設計。距離。先輩の言葉が、私の中の辞書になっているんです」


 辞書。


 翻訳者の辞書が、依頼者の中にコピーされている。


「瀬尾くんとの関係だけじゃなくなりました。友達との関係も。家族との関係も。全部、先輩の言葉で考えてしまう。あの子との距離は名前がある距離か、ない距離か。この感情は翻訳できる感情か、できない感情か。設計図がある関係か、ない関係か」


 血が引いた。


 園田は工作室の語彙で世界を見ている。翻訳者の辞書が園田の中で稼働している。俺が渡した言葉が、園田の思考のOSになっている。


「自分の言葉で考えられないんです。先輩の言葉でしか考えられない。先輩がいないと、自分の感情が分からない。先輩の翻訳なしでは、自分の本音が見えない」


 翻訳の副作用。


 昨日、久我から聞いたばかりの言葉。翻訳の精度が高いほど、依頼者はその言葉を絶対視する。俺の翻訳が園田の中で権威を持ってしまった。園田は自分の感情を自分で言語化する力を失っている。俺の翻訳がその力を奪った。


「いつからだ」


「分かりません。気がついたら、そうなっていました。瀬尾くんとケンカしたとき、最初に思ったのは『この距離は設計の範囲内か』でした。友達と気まずくなったとき、最初に思ったのは『この関係の名前は何か』でした。全部、先輩の言葉が先に出てくる。自分の言葉が出てこない」


 園田の目が赤くなっていた。泣いてはいない。しかし涙の手前にいる。


「四月に来たとき、瀬尾くんとの距離に名前をつけた。あれで解決したと思いました。先輩もそう思ったはずです」


「ああ。思った」


「でも解決していなかった。表面は解決した。瀬尾くんとの関係は良くなった。しかし私の中で、先輩の言葉がもっと深く根を張っていた。四月に来たことで、むしろ依存が強くなった。距離に名前をつけることが成功体験になって、他の関係にも先輩の言葉を当てはめるようになった」


 成功体験。


 工作室の翻訳が園田を救った。その成功体験が依存を深めた。救ったことと依存させたことが同じ行為だった。善意の毒。


「相談室に行ったか」


 聞いた。直球で。


 園田が一瞬止まった。


「行きました。一回だけ」


「久我先生に話したか」


「話そうとしました。しかし途中でやめました。久我先生はプロです。正しいことを言ってくれるんだろうと思った。でも私が欲しかったのは正しいことじゃなかった。先輩の言葉だった。先輩に翻訳してほしかった。自分の中のぐちゃぐちゃを先輩に整理してほしかった」


 それが依存だ。


 園田自身が分かっている。先輩の翻訳を欲しがることが依存だと分かっている。分かっていて、止められない。翻訳者の言葉が園田の中の自律機能を奪っている。自分で感情を言語化する力を、翻訳者が代行してしまった。


「だから相談室はやめて、ここに来ました。先輩に会いに。先輩に翻訳してもらいに。でも来る途中で気づいたんです。先輩に翻訳してもらいに来ること自体が、問題なんだって」


 園田が俺を見た。目が赤い。涙は落ちていない。堪えている。


「先輩。助けてください。でも、先輩に助けてもらうこと自体が私の問題なんです。矛盾しています。分かっています。でも先輩以外に話せる人がいない」


 矛盾。


 翻訳者に助けを求めること自体が依存の症状。しかし翻訳者以外に話せない。翻訳者の言葉でしか自分を語れないから。


 翻訳者の作った辞書が、翻訳者への依存を固定している。


 俺の言葉が園田を縛っている。


 亀裂が広がった。昨日、久我との対話で入った亀裂。今、園田の言葉でさらに深くなった。翻訳者の自己認識にひびが走っている。


 俺は園田を救ったのか。壊したのか。


 禁止事項が頭をよぎった。前作の救済の全否定禁止。園田への依頼対応自体を「間違いだった」とは描かない。前作の設計は正しかった。名前のない距離は園田を救った。四月の再対応も正しかった。


 しかし正しいことが副作用を生んでいる。正しいことと害を与えることが両立している。


 久我の正論と同じ構造だ。正しさが人を傷つけることがある。


「園田」


 声を出した。低い声だった。


「翻訳しない」


「え」


「お前の今の感情を、俺は翻訳しない。言語化しない。名前もつけない。距離も測らない」


 園田の顔が変わった。困惑。翻訳者が翻訳を拒否した。依頼者が翻訳を求めて来たのに。


「先輩」


「お前が今感じていることを、お前自身の言葉で言ってみろ。俺の言葉じゃなくて。距離とか翻訳とか設計とか名前とか、そういう言葉を使わずに」


 園田が黙った。


 五秒。十秒。三十秒。


 蝉の声が部屋を満たしていた。海風が窓から入ってきた。七月の光が園田の横顔を照らしていた。


「分からない」


 園田の声が小さかった。


「先輩の言葉を使わないと、何も出てこない。自分の言葉がない。昔はあったはずなのに。一年半前に先輩に会う前は、自分の言葉で考えていたはずなのに。今は先輩の辞書しかない」


 自分の言葉がない。


 翻訳者が渡した辞書が、園田の元の辞書を上書きした。翻訳が便利だったから。精度が高かったから。自分で言語化するより翻訳者の言葉のほうが正確だったから。正確な翻訳に頼り続けた結果、自分で翻訳する筋肉が衰えた。


 プロの言葉で言えば、学習性無力感に近い。自分で考えなくても翻訳者が考えてくれる。だから自分で考える力が退化する。


「すまなかった」


 言った。素手で。翻訳者としてではなく。


 園田が顔を上げた。


「俺の翻訳がお前を縛っている。俺の言葉がお前の言葉を消している。それは俺の責任だ」


「先輩のせいじゃないです」


「俺のせいだ。俺が翻訳した。俺が言葉を渡した。渡した言葉がお前の中で育って、お前自身の言葉を覆い尽くした。善意で渡した言葉が、結果として害になった」


 園田の目から涙が落ちた。一滴。堪えていたものが一つだけ溢れた。


「先輩。間違いだったんですか。一年半前のこと。名前のない距離。あれは間違いだったんですか」


「間違いじゃない」


 即答した。


「あのときのお前には、あの言葉が必要だった。名前のない距離がお前を救った。あれは正しかった。四月に距離に名前をつけたことも正しかった」


「でも結果として」


「結果として副作用が出た。薬と同じだ。効く薬には副作用がある。効かない薬には副作用がない。名前のない距離は効いた。効いたから副作用が出た。効いたこと自体は否定しない」


 園田が泣いていた。静かに。声を出さずに。涙が頬を伝っている。


「しかし副作用を放置することはしない。ルール⑥だ。依頼者のその後にも責任を持つ。お前が四月に来たとき、このルールを使った。今日も同じだ。お前が来た。だから対応する」


「対応って、何をするんですか」


「分からない」


 正直に答えた。素手で。


「お前の問題は新しい。設計の副作用は経験した。翻訳の副作用は初めてだ。前例がない。解決方法も分からない」


「分からないのに対応するんですか」


「ルール③。完璧を待たない。走りながら更新する」


 園田が泣き笑いのような顔をした。涙が落ちているのに、口元が微かに笑っている。


「先輩。また先輩の言葉で返してる。ルール③。走りながら更新。私、これも先輩の辞書に登録してしまう」


 気づいた。


 俺は今、園田に向かってまた翻訳者の言葉を使っている。ルール③。完璧を待たない。走りながら更新する。全部、工作室の語彙だ。園田に使えば、園田の辞書にさらに語彙が追加される。依存が深まる。


 翻訳者の言葉で依存をケアしようとすれば、ケアそのものが依存を強化する。


 矛盾だ。園田が言った矛盾と同じだ。


 助けを求めることが問題であるように、翻訳者の言葉でケアすることがケアの妨げになる。


「園田。今日のところはここまでにしよう」


「解決しないまま」


「解決しない。しかし今日、お前は自分の問題を自分で言った。先輩の言葉が頭から離れない。自分の言葉がない。それはお前自身の言葉だ。俺の翻訳じゃない」


 園田が止まった。


「お前が今日話したことの中に、俺の辞書にない言葉がいくつかあった。『おかしくなってるかもしれません』。『ぐちゃぐちゃ』。『自分の言葉がない』。それは俺が教えた言葉じゃない。お前の言葉だ。お前の辞書はまだ生きている。上書きされたように見えるが、消えてはいない」


 園田が泣いた。今度は声を出して。


 短い嗚咽だった。すぐに止めた。手で口を押さえて。


「すみません」


「謝るな。泣くことは翻訳者の辞書にない。お前自身の反応だ」


 園田が笑った。泣きながら。涙と笑みが同居する顔。一年半前にも見た顔だ。しかし一年半前よりも複雑な顔だった。


「また来ていいですか」


「来い。しかし一つだけ条件がある」


「何ですか」


「来るたびに、俺の言葉を使わずに自分の感情を一つだけ言え。距離でも翻訳でも設計でもない、お前自身の言葉で。一つだけでいい」


「一つだけ」


「一つだけ。自分の辞書を一語ずつ取り戻せ。俺が翻訳した言葉を捨てる必要はない。しかし自分の言葉を一つずつ足していけ。両方の辞書を持て。俺の辞書だけに頼るな」


 園田が目を拭いた。袖で。


「じゃあ今日の一つ」


「言ってみろ」


「怖い」


「何が怖い」


「先輩がいなくなること。卒業すること。先輩がいなくなったら、翻訳してくれる人がいなくなる。そのとき私はどうなるんだろう。怖い」


 怖い。


 園田自身の言葉だ。距離でも翻訳でもない。怖い。単純で、生々しくて、翻訳者の辞書にはない言葉。


「いい言葉だ。怖い。覚えておけ。それはお前の言葉だ」


 園田が帰った。目が赤い。しかし来たときよりも背筋が少しだけ伸びていた。


 三人が戻ってきた。


「先輩。どうでしたか」


 凛花が聞いた。ノートを開いている。


「翻訳の副作用だ」


 三人に説明した。園田の症状。翻訳者の言葉が依頼者の辞書を上書きしている。自分の言葉で感情を言語化できなくなっている。


 凛花のペンが止まった。


「それは、工作室の存在自体のリスクですね」


「ああ」


「翻訳者が精度の高い翻訳をすればするほど、依頼者が自分で翻訳する力を失う。工作室が優秀であるほど、依頼者の自律を奪う。矛盾です」


「矛盾だ」


「久我先生が言っていた構造的リスクの具体例が、ここにあります」


 凛花の分析は冷静だった。しかし声に揺れがあった。参謀も揺れている。工作室の存在意義に関わる問題だ。


 陽太が窓際に立っていた。黙っている。コミュ力お化けが黙っている。言葉が見つからないのだろう。人と人の間を取り持つのが陽太の力だ。しかし翻訳者の言葉そのものが害になっているという問題に、コミュニケーション力では太刀打ちできない。


「星野くんの分析は」


 凛花が蒼に振った。


「データとして見るなら」


 蒼が口を開いた。事務的な声。しかし事務的な声の中に何かが混ざっていた。


「依存構造の形成は、接触回数と信頼度に比例します。園田先輩は工作室との接触が三回。一年半前、四月、そして今日。接触回数は少ない。しかし各接触の密度が高い。翻訳者の言葉が人生の転機に紐づいている。転機に紐づいた言葉は記憶に強く定着する。データ以前の話です」


 蒼が「データ以前の話」と言った。データアナリストが数字の外に出ている。白石の件で感情を知った蒼は、数字だけでは捉えられない領域があることを理解し始めている。


「解決策は」


 陽太が聞いた。


「ない。今は」


「ないまま動くのか」


「動く。ルール③だ」


「園田に使ったルール③が園田の依存を深める矛盾は」


「分かってる」


 分かっている。翻訳者の言葉で依存をケアすれば、ケアが依存を強化する。翻訳者の道具では翻訳の副作用を治せない。


 別の方法が要る。翻訳者ではない方法。


 しかしまだ見つかっていない。


「先輩。一つだけ確認していいですか」


 凛花の声が静かだった。


「園田先輩は、久我先生の相談室にも行っていたんですか」


「行っていた。一回だけ。久我先生が言っていた『引っかかっている生徒』は園田だ。たぶん」


「久我先生に相談すべきですか。非公式の助言関係として」


 正しい提案だ。昨日合意したばかりの枠組み。工作室の方針を久我にフィードバックしてもらう。しかし。


「まだ早い。園田の問題を整理してからだ。久我先生に相談するにしても、俺が何を聞きたいのかが明確でなければ意味がない」


 凛花が頷いた。ノートに書いた。


 帰り支度。四人で工作室を出た。


 廊下で彩音に会わなかった。今日は廊下にいなかった。水曜と木曜。二日連続で来ていたが、今日はいない。


 気にした。気にしたことに気づいた。彩音が廊下にいないことを気にしている。翻訳者の脳が理由を分析しようとした。止めた。


 帰り道。海沿い。蝉の声。七月の夕暮れ。


 亀裂がさらに深くなった。


 昨日は久我の正論で亀裂が入った。今日は園田の涙で亀裂が広がった。


 翻訳者としての自分。他人の感情を言語化する人間。その言語化が他人を縛る。助けた手が鎖になる。善意が毒になる。


 彩音が言った。揺らぐことは悪いことじゃない。固まった正しさは脆い。揺れる正しさは柔らかい。


 揺れている。確実に。


 しかし揺れの中に一つだけ動かないものがある。園田に言った言葉。「お前の辞書はまだ生きている」。


 翻訳者の言葉が園田を縛った。しかし園田自身の言葉は消えていなかった。上書きされたように見えて、下の層に残っていた。「怖い」という言葉が園田の口から出た。翻訳者の辞書にない言葉が。


 翻訳の副作用を治すのは、翻訳者ではないかもしれない。園田自身の辞書かもしれない。翻訳者にできることは、園田自身の辞書が残っていることを指し示すことだけ。


 しかしそれすらも翻訳者の介入だ。指し示すこと自体が翻訳者の行為だ。


 矛盾は解けない。今は。


 帰宅。自室。窓を開けた。七月の夜。蝉。潮の匂い。


 スマホが光った。彩音。


『今日は廊下にいませんでした。理由があります。でも今日じゃないです』


 短いメッセージだった。いつもの彩音のLINEより短い。


『分かった』


『園田さんが来たと聞きました。凛花さんから。大変でしたね』


『大変だった』


『翻訳者の言葉が依頼者を縛る。それは、私が前の学校でやったことと同じです』


 心臓が動いた。


 彩音の前の学校での失敗。善意で生徒の感情を操作してしまった。依存を生んだ。傷つけた。


 園田のケースと同じ構造だ。


『高瀬さん。一つだけ。これは助言ではなく、経験者としてのお願いです』


『聞く』


『自分を責めすぎないでください。責めすぎると壊れます。壊れたら依頼者が困る。自分を責めるのは一人分の痛みですが、壊れたら二人分の痛みになる。翻訳者と依頼者の二人分』


 彩音の声が文字越しに聞こえた。経験者の声。同じ道を先に歩いた人間の声。


『分かった。壊れない。ひびは入っているが壊れない』


『ひびは入っていいです。ひびから光が入るので』


 返信が来なかった。それが最後のメッセージだった。


 ひびから光が入る。


 詩的な言葉だ。彩音らしくない。いつもの丁寧な毒舌ではない。壁の一番薄い場所から漏れた声だ。


 数えなかった。何回目かを。彩音がいたら数えていただろう。しかし俺は数えない。翻訳者は数えない。受け取るだけだ。


 七月の夜。三日目の夜。月曜に久我と会い、水曜に一対一で話し、木曜に園田が帰ってきた。一週間で世界が三回揺れた。


 翻訳の副作用。園田の辞書。工作室の存在意義。


 答えは出ていない。しかし問いは明確になった。翻訳者の言葉が人を救い、同時に縛るとき、翻訳者は何をすべきか。


 何も持っていない。答えも方法も。


 しかしドアは開いている。園田がまた来る。明日か、来週か。そのとき園田は自分の言葉を一つ持ってくる。俺の辞書にない言葉を。


 その言葉を待つ。翻訳者として待つのではない。高瀬恒一として待つ。素手で。

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