第10話 翻訳者の転換点
第10話 翻訳者の転換点
白石が告白した。自分で。工作室の設計なしで。
結果は、振られた。
六月の最終週。梅雨の終わりが近づいている。雲の隙間から差す光が強くなった。蒸し暑い。空気が重い。夏の予兆が校舎の中にまで入り込んでいる。
放課後。工作室。白石が来た。報告に。
「振られました」
白石の声は意外なほど落ち着いていた。涙の跡がある。泣いたのだ。しかし泣いた後に、ここに来た。報告するために。
「お昼休みに。教室で。二人きりになったタイミングで。自分で選んだタイミングです。蒼先輩のデータじゃなくて、自分で。お昼休みなら、放課後の時間がまるまる残るから。泣いても、帰るまでに立ち直れるかなって」
白石は自分でタイミングを設計していた。工作室の設計ではなく。蒼のデータでもなく。白石自身の論理で。泣く時間を確保するためのタイミング選び。不完全だが、白石自身の設計だ。
「相手は何て言った」
「ごめん、って。そういう気持ちはないって。でも嫌いじゃないって。友達としてはこれからも仲良くしたいって」
典型的な断り方だ。しかし典型であることが悪いわけではない。相手も正直に答えている。嘘はない。
「白石。お前はどう感じている」
「痛いです。胸が。でも、言えてよかった。声に出せてよかった。声に出さないまま卒業するより、ずっといい」
白石が笑った。涙の跡が残ったまま。しかし笑顔。本物の笑顔。告白して振られた後の、清々しい笑顔。前作の森本が無害化のプロセスを経た後に見せた笑顔に似ている。痛みを持ったまま笑える顔。
「よくやった」
俺は言った。翻訳者としてではなく。
「工作室は完全救済を約束しない。告白が成功するとは言わなかった。しかしお前は自分の足で歩いた。自分でタイミングを選んで、自分の言葉で告白した。結果は振られた。しかし結果は問題じゃない。お前が自分で選んだことが問題だ。お前は選んだ。それで十分だ」
白石の目にまた涙が浮かんだ。しかし今度の涙は痛みの涙ではない。認められたことへの涙。自分の選択を肯定されたことへの涙。
「忘れなくていい。告白したことを。振られたことを。痛みを。全部忘れなくていい。痛みは、お前の恋が本物だった証拠だ」
前作のテーマ。本作にも流れている水脈。忘れなくていい。
白石が帰った。目が赤いまま。しかし背筋がまっすぐだった。来たときよりまっすぐ。告白する前の白石は猫背だった。告白した後の白石は、背筋が伸びている。
白石が帰った後。
蒼がいなかった。
データ分析の一時停止中だ。白石の告白結果が出るまで、工作室に来ないことにしていた。自分の感情と向き合うために。しかし結果が出た。連絡すべきか。
スマホを取り出した。蒼にLINEを送った。
『白石の告白、結果が出た。振られた。工作室に来い。話がある』
十分後。蒼が来た。
走ってきたのだろう。息が荒い。制服が少しだけ乱れている。蒼にしては珍しい乱れだ。事務的な蒼は身だしなみに気を使う。乱れているということは、急いだということだ。
「白石さんは」
「帰った。大丈夫だ。泣いたが、笑って帰った」
蒼の肩から力が抜けた。安堵。「傷つくのを見たくない」と言った蒼の安堵。白石が壊れていないことへの安堵。
「振られたんですね」
「ああ。しかし白石は自分の力で告白した。工作室のデータなしで。自分でタイミングを選んで。それが重要だ」
「俺のデータがあれば、成功確率は」
「蒼。まだ言うか」
蒼が口を閉じた。しかし悔しさが目に出ていた。データがあれば防げた失敗。蒼の中では、まだその論理が生きている。
「白石さんの告白が失敗したのは、タイミングの問題ですか。それとも相手の気持ちの問題ですか」
「相手の気持ちの問題だ。相手は白石に恋愛感情を持っていなかった。タイミングがいつであっても、結果は同じだっただろう」
「なら俺のデータがあっても」
「結果は変わらなかった。お前の九十二パーセントの精度で最適なタイミングを選んでも、相手の気持ちが変わるわけではない。データは状況を最適化できるが、感情を変えることはできない。相手が白石を好きでないという事実は、データでは変えられない」
蒼が座った。椅子に。力が抜けたように。
「そうですね。データは感情を変えられない」
蒼が認めた。自分の技術の限界を。データで恋愛を八十三パーセント予測できる。しかし予測と結果は別だ。予測できることと変えられることは別だ。天気予報ができても天気は変えられない。
「蒼。一週間データから離れていた間、何を考えた」
蒼が黙った。五秒。十秒。考えをまとめている。
「白石さんのことを考えました。白石さんが告白するところを想像しました。成功する場面と失敗する場面と。どちらを想像しても、胸が苦しかった。成功しても苦しい。失敗しても苦しい。どちらでも苦しいのは、データでは説明できません」
「説明できるかもしれない」
「どうやって」
「お前が白石を好きだからだ。成功したら白石が別の人間のものになる。失敗したら白石が傷つく。どちらも苦しい。それは恋だ。蒼」
蒼の顔が変わった。今まで見たことのない表情。データアナリストの殻が完全に割れている。生の感情が表面に出ている。
「恋。俺が。白石さんに」
「翻訳する。お前の感情を。お前が白石を好きだという事実を。データの外にあった十七パーセント。その正体は、白石への恋だ」
翻訳。翻訳者の仕事。他人の感情を言語化する。蒼の感情を、蒼の代わりに言葉にする。
蒼の目が赤くなった。泣いてはいない。しかし涙の手前。データアナリストが感情に圧倒されている。
「恋をしたことがないから、分からなかった。リファレンスがなかった。しかし一週間データから離れて、自分の中にあるものを見つめ続けたら、白石さんの顔ばかり浮かんだ。データではなく。白石さんの笑った顔。困った顔。緊張した顔。俺が翻訳しなくても、白石さんの顔は読めた」
データなしで。分析なしで。蒼が白石の顔を読んでいた。翻訳者とは違う方法で。しかし同じ精度で。恋する人間は、好きな人間の表情を読むことに長けている。技術ではなく感情で。
「蒼。ルール⑤に基づいて正式に申告しろ」
蒼が背筋を伸ばした。
「星野蒼。白石依頼に対する当事者性を申告します。白石さんに恋愛感情があります。依頼者に対する個人的感情です」
正式な申告。ルール⑤の発動。前作で恒一が志帆の件で申告したように。蒼が白石の件で申告した。
「申告を受理する。白石の依頼は完了している。今後のフォローアップは凛花が担当する。蒼は白石のケースから外れろ」
「了解です」
「ただし」
「ただし」
「白石に好きだと言うかどうかは、お前が決めろ。工作室の依頼としてではなく。お前個人の問題として。工作室は関与しない。場も設計しない。翻訳もしない。お前が自分で歩け」
蒼の目が俺を見ていた。まっすぐに。データアナリストの目ではなく、恋をしている高校生の目で。
「自分で歩く、ですか」
「ああ。白石が自分で告白したように。お前も自分で。データなしで。分析なしで。八十三パーセントの精度を捨てて、十七パーセントの領域で」
「非合理です」
「恋は非合理だ。非合理だから面白い。お前自身が言ったことだろう」
蒼は言っていない。しかし蒼のデータが証明している。恋愛パターンは八十三パーセント予測可能。残り十七パーセントは誤差。その誤差こそが恋の本質だ。予測不能な領域。非合理な領域。
蒼が帰った。白石への恋を自覚したまま。宿題を持ったまま。告白するかしないか。いつ。どこで。どうやって。全部を自分で決めなければならない。
工作室に凛花と陽太と恒一が残った。
「蒼が恋をした」
陽太が呟いた。
「データアナリストが恋をした。データで予測できない恋を。皮肉だな」
「皮肉じゃない。必然だ。恋の分析を続けていれば、いつか自分も恋をする。他人の恋に触れ続けることは、自分の中の恋のスイッチを押すことだ。翻訳者が志帆を好きだったのと同じ構造だ」
凛花がノートに書いた。「星野蒼。ルール⑤正式申告。白石依頼への当事者性。白石への恋愛感情を自覚。ケースから外す。個人の問題として蒼自身が対処。工作室は不関与」
「先輩。蒼くんの件が落ち着いたら、白石さんのアフターケアを始めます。ルール⑥です。振られた後のフォロー」
「頼む」
第一幕が終わろうとしている。四月から六月。団長の春。新メンバーの加入。彩音との出会い。園田の帰還。蒼の成長。全部が第一幕の出来事だ。
第二幕が始まる。七月から。夏に向かって。
帰り際。廊下で彩音に会った。
今日は工作室に来なかった日だ。しかし旧部室棟の廊下にいた。また。窓際に立って海を見ている。六月の海。梅雨の灰色。しかし雲の隙間から夕日が差している。灰色の海にオレンジ色の筋が走っている。
「瀬川」
「高瀬さん。お疲れさまです」
「今日は来なかったな」
「はい。でも廊下にはいました」
「聞こえてたか」
「少しだけ。白石さんが振られたことと、蒼くんのこと」
彩音は廊下から全て聞いている。ドアが開いているから。彩音は工作室の中に入るときも入らないときも、廊下から工作室の空気を感じている。
「白石さん。振られたんですね」
「ああ。しかし自分の力で告白した。自分で選んだ」
「それが大事なんですよね。結果ではなく、選ぶこと」
「ああ。お前が批判した通りだ。工作室は行動変容に直接関与できない。選ぶのは本人だ。白石は選んだ。振られたが、選んだ」
彩音が俺を見ていた。廊下の夕日が彩音の横顔を照らしている。半分がオレンジ色で、半分が影。
「高瀬さん。私も、選ぼうと思っています」
「何を」
「工作室に、正式に関わることを。批判者としてでも観察者としてでもなく。メンバーとしてではないですが。協力者として。善意の副作用を防ぐための助言ができる立場として」
彩音が自分の立場を定義しようとしている。批判者でも観察者でもメンバーでもない。協力者。善意の副作用を知っている人間としての協力者。
「前の学校での失敗は、私の教訓です。忘れなくていいんですよね。教訓を活かすなら、工作室の近くにいることに意味がある。あなたたちが同じ失敗をしないために」
彩音が「忘れなくていい」を使った。俺が教えた言葉を。前作のテーマを。彩音が自分の文脈に翻訳して使っている。
「歓迎する。お前の経験は工作室にとって財産だ」
「財産という言い方は好きじゃないです。私は道具じゃありません」
「すまない。言い直す。お前の存在が、工作室にとって必要だ。経験だけじゃなくて。お前自身が」
言ってしまった。また。翻訳者ではなく高瀬恒一として。「お前自身が必要だ」。経験ではなく存在が。道具としてではなく人間として。
彩音の耳が赤くなった。前と同じだ。前髪の隙間から見える耳の縁が赤い。
「事実の確認ですか」
「ああ。事実の確認だ」
「七回目です。あなたが私にドアを開けると言ったのも含めて、個人的な言葉をかけたのが」
彩音は数えている。まだ数えている。翻訳者が数えないものを。
「数えるのをやめたらどうだ」
「やめません。数えることが、私の確認方法ですから。あなたの言葉が設計なのか本文なのか、数で確認しています」
設計か本文か。凛花の言葉を彩音も知っている。工作室の中で聞いたのだろう。設計図ではなく本文を書く。彩音は俺の言葉が設計なのか本文なのかを、回数で測定している。
「七回全部、本文だ」
「分かっています。だから数えています。設計なら数える価値がない。本文だから数える価値がある」
彩音の論理。丁寧語の毒が、もう毒ではなくなっている。からかいでもない。確認だ。俺の言葉が本物かどうかの確認。何度も確認する。壁の向こうから。壁が薄くなるたびに、確認の精度が上がっている。
「高瀬さん。一つだけ」
「ん」
「私がここにいる理由。批判でも観察でも協力でもない理由が、もう一つあります」
「何だ」
「言いません。今は」
壁が閉じた。しかし閉じる前に、壁の隙間から何かが漏れた。光。壁の内側にある光。彩音の感情の光。翻訳不能だが、見えた。一瞬だけ。
「言いたくなったら言え。工作室のドアは」
「八回目ですか」
「いや。今のは言いかけただけだ。カウントしなくていい」
彩音が笑った。小さく。しかし今日の笑みは今までで一番自然だった。壁の外側で咲いた笑みではなく、壁の内側から透けて見えた笑み。
彩音が去っていった。
俺は廊下に立ったまま、海を見た。六月の海。梅雨の終わりの海。灰色にオレンジ色が混ざっている。
転換点。
今日が転換点だったと、後から振り返って思うのだろう。白石の告白。蒼の恋の自覚。そして彩音が「もう一つの理由」を仄めかしたこと。三つの出来事が六月の最後の週に集中した。
翻訳者の中の翻訳不能な領域。三十パーセントどころではない。四十パーセントに達しているかもしれない。彩音の笑みを見るたびに拡大する。彩音の耳が赤くなるたびに拡大する。彩音が「数えています」と言うたびに拡大する。
翻訳不能な領域が過半数を超えたら、翻訳者はどうなるのか。
翻訳者でなくなるのか。
いや。翻訳者は翻訳者のまま、翻訳不能な領域を抱えて生きていく。前作で学んだ。翻訳者が壊れても翻訳者をやめるな。翻訳者が進化することだ。玲奈が言った。
翻訳不能であることは限界ではなく進化だ。翻訳できない感情を持つことで、翻訳者は人間に近づく。分析の機械ではなく。感情を持った人間に。
帰り道。海沿いの道。六月の夕暮れ。蒸し暑い。しかし風がある。梅雨の間の風。湿っているが温かい。
スマホが震えた。彩音からのLINE。
『高瀬さん。さっき言いかけたこと。もう一つの理由』
『ん』
『もう少しだけ待ってください。梅雨が明けたら、言います。たぶん』
梅雨が明けたら。夏が来たら。
『待ってる。急がなくていい』
『ありがとうございます。待っていてくれるんですね。ドアを開けて』
『ああ。開けて待ってる。お前のために』
九回目。彩音は数えるだろう。九回目の個人的な言葉。
家に帰った。自室の机に向かった。
六月が終わる。梅雨が明ける。夏が来る。
第一幕が終わった。四月から六月。団長の春。新メンバーの蒼。批判者の彩音。帰ってきた依頼者。支援の副作用。翻訳不能な感情。全部が第一幕で蒔かれた種だ。
第二幕で、種が芽を出す。夏に向かって。
蒼は白石への恋を抱えている。告白するかしないか。自分で決める。
俺は彩音への翻訳不能な感情を抱えている。彩音が「もう一つの理由」を言うのを待っている。梅雨明けまで。
凛花は参謀として成熟し続けている。陽太は先輩として後輩を支えている。工作室はver.3で動いている。
全部が同時に進行している。いつも通り。完璧を待たない。走りながら更新する。
窓を開けた。六月の夜の風。蒸し暑い。しかしどこかで蝉の声が聞こえる。まだ微かだ。夏の予兆。梅雨明けが近い。
翻訳者は窓の前に立って、翻訳できない感情を抱えている。四十パーセントの翻訳不能領域を。
しかし怖くない。もう怖くない。
怖かったのは四月だ。始めることが怖かった。五月になって怖さが薄れた。六月になって怖さが消えた。代わりにあるのは、静かな期待。
梅雨が明けたら、彩音が「もう一つの理由」を言う。
そのとき、翻訳者はどう応えるか。
翻訳では応えない。設計でも応えない。本文で応える。自分の言葉で。高瀬恒一の声で。
そのための準備が、六月の雨の中で、静かに進んでいる。
忘れなくていい。そして、始めていい。
始めるための言葉を、翻訳者は探している。翻訳ではなく。設計ではなく。自分の言葉を。
梅雨が明ける。夏が来る。
翻訳者の恋路の、第二幕が始まる。




