第9話 データは嘘をつかない?
第9話 データは嘘をつかない?
蒼が掘り当てた情報は、相談者が誰にも言っていない秘密だった。
五月の第四週。木曜日の放課後。
工作室に着いたとき 空気が違った。ドアを開けた瞬間に分かった。翻訳者の直感が 室内の緊張を拾った。
凛花が 立っていた。いつもの席ではなく。蒼の席の前に。 立って、蒼を見下ろしている。凛花が立ち上がるのは 怒っているときだ。参謀が立つのは ルールが踏まれたときだ。
蒼は 椅子に座ったまま、PCの画面を凛花に向けていた。画面には グラフと文字列が表示されている。SNS分析の結果。 だが、いつもの分析とは様子が違った。画面の端に 二つのアカウントが並んでいる。一つはメインアカウント。もう一つは サブアカウント。
陽太は メロンパンを持ったまま、二人の間に入れずにいた。俺を見た。「来てくれ」という目。
「何があった」
凛花が 振り返った。目が 赤かった。怒りの赤。涙ではない。
「高瀬先輩。 蒼くんが、相談者のサブアカウントを特定しました」
「サブアカウント 」
「はい。相談者が 公開していない、別のアカウントです。フォロー関係から逆算して 本人のものだと特定して。そのアカウントの投稿内容を分析して 」
凛花の声が 震えていた。怒りで。
「相談者が 誰にも言っていない別の交際関係を 掘り当てました」
工作室が 凍った。
蒼のPCの画面を見た。サブアカウントの投稿パターン分析。感情指数の時系列グラフ。そして 「対象者の非公開アカウントから判明した情報:別の交際相手が存在する可能性 推定確率92%」。
92%。 高い精度だ。蒼の技術は 本物だ。
だが 。
「蒼」
「はい」
蒼の声は いつも通り事務的だった。問題の所在を 理解していない。
「その情報 相談者は、工作室に話したか」
「いいえ。 話していません。でもデータが 」
「相談者が話していない情報を お前がデータで掘り出した」
「はい。 これは依頼の解決に有用な情報です。相談者が別の交際関係を持っているなら 依頼の前提が変わります。最適な支援策が 」
「蒼」
俺の声が 低くなった。自分でも 聞いたことがないくらい低い声。
「その情報を 相談者に伝えるつもりだったのか」
「はい。 事実を共有すれば、相談者が 」
「止めろ」
蒼が 口を閉じた。
「その情報を伝えたら 相談者はどうなる」
蒼は 答えなかった。五秒。
「相談者は 自分が隠していた秘密を、工作室に知られたと分かる。誰にも言っていないことを データで暴かれたと分かる。 そのとき相談者は何を感じると思う」
「......データ上は 」
「データじゃない。 お前の目で。お前の想像で。 相談者は何を感じる」
蒼の眼鏡の奥の目が 動いた。処理している。だがこれは データの処理ではない。想像の処理。データベースにない 人間の感情を、蒼自身の頭で。
「......怖い と思います。 自分が隠していたことが 知られて」
「そうだ。 怖い。裏切られたと感じるかもしれない。工作室を信じて相談に来たのに 言っていないことまで掘られた。 信頼が壊れる」
「でも 事実は事実です。データは嘘を 」
「データは嘘をつかない。 そうだ。データは嘘をつかない。だがデータは文脈を持たない」
蒼が 黙った。
「文脈なしの真実は 暴力だ」
暴力。 その言葉が工作室に落ちた。重く。
「去年 この学校で、匿名のアカウントが情報を武器にした。掲示板に 生徒の秘密が晒された。噂が広まった。断罪が始まった。 何人もの生徒が傷ついた。名前を晒された。プライバシーを暴かれた」
去年の 掲示板の断罪ゲーム。忘却屋の騒動。工作室の炎上。 全部が、情報の暴力から始まった。
「お前がやっていることは 方法が違うだけで、構造は同じだ。情報を、本人の同意なく取得して、使おうとしている。去年の掲示板と やっていることの根っこが、同じなんだ」
蒼の顔が 初めて、色を失った。いつもの無表情が 別の種類の無表情に変わった。衝撃の無表情。 データで処理できないショック。
「僕は 掲示板みたいなことは 」
「してない。 まだ。情報を相談者に伝えていないから。 だが伝えていたら。相談者の秘密を 工作室のメンバー全員が知る。相談者は 自分が信頼した場所に秘密を暴かれる。 それは掲示板に晒されたのと、何が違う」
「違います。 僕は公開しない。工作室の中だけで 」
「工作室の中だけでも 相談者の同意なく秘密を共有した時点で、プライバシーの侵害だ」
蒼が PCの画面を閉じた。ゆっくりと。 手が震えていた。蒼の手が震えるのを 初めて見た。
「僕は 助けようとしただけです」
声が 小さかった。事務的な口調が崩れていた。 蒼の声が、初めて 感情を含んでいた。怯え。自分のやったことの重大さに 気づきかけている怯え。
凛花が 一歩、蒼に近づいた。
「星野くん」
凛花の声は 落ち着いていた。怒りは 収まっていなかったが、制御されていた。参謀として。
「データが読めることと 読んでいいことは 違います」
蒼が 凛花を見上げた。
「工作室の原則① 心は操作しない。あなたがやったことは 相談者の心を操作しようとしたわけではないかもしれない。でも 相談者の情報を、同意なく取得した。原則② 匿名依頼は受けない。これは匿名の問題ではないけれど 精神は同じです。本人が開示していない情報は 本人のものです。工作室のものではない」
蒼が 膝の上で手を握り締めた。
「今日 ここまでにします。帰って 考えてください」
俺が言った。
蒼は 立ち上がった。PCを鞄に入れた。 動作がぎこちなかった。いつもの正確な動きが 乱れている。
「......すみません でした」
小さな声で 言った。謝罪。 蒼が謝ったのは初めてだ。
ドアを開けて 出ていった。足音が いつものメトロノームではなかった。不規則。 動揺している足音。
ドアが閉まった。
工作室に 三人が残った。
凛花が 蒼を追いかけた。
「凛花」
「止めないでください先輩。 蒼くんに、言わなきゃいけないことがあります」
廊下に出た。 蒼は旧部室棟の階段を降りかけていた。凛花が追いついた。
俺は 工作室のドアの前に立って、廊下を見ていた。二人の声が 蛍光灯の切れた暗い廊下に響いている。
「星野くん」
蒼が 振り返った。目が 赤かった。泣いてはいない。 だが、泣く手前。
「一つだけ 言わせてください」
凛花の声は 静かだった。怒りが 別の何かに変わっていた。もっと 真剣な何か。
「去年 この学校に忘却屋という存在がいました」
忘却屋。 影山透が作ったアカウント。上書きストーリーで記憶を書き換える 裏工作室。
「忘却屋は 情報を武器にして工作室と対立した人です。SNSの裏アカウントで 生徒の恋愛の記憶を上書きするサービスをやっていました」
蒼が 凛花を見た。忘却屋の名前を 蒼は知らない。入部してからまだ一ヶ月半。去年の事件を 蒼は体験していない。
「忘却屋は 善意でした。傷ついた人を助けたかった。恋の痛みを消したかった。 動機は、あなたと同じです」
「僕と 同じ」
「でも方法が間違っていた。 本人の記憶を上書きした。嘘の物語を植え付けた。 善意で。助けるために。結果として 利用者の記憶が混乱して。本物の感情と嘘の感情が混ざって。 壊れた人がいたんです」
蒼の顔が さらに白くなった。
「あなたとは 方法が違います。忘却屋は記憶を操作した。あなたはデータを掘った。 でも」
凛花が 一歩近づいた。
「情報を本人の同意なく使う点は 同じです」
蒼が 後退った。一歩。
「僕は 違います。忘却屋とは 」
「違う と言い切れますか。今日あなたがやったこと 相談者のサブアカウントを無許可で特定して、隠していた秘密を掘り出して、それを工作室で共有しようとした。 忘却屋も同じことをやりました。本人の同意なく、本人の情報を取得して、善意で使おうとした」
蒼の唇が 震えた。
「僕は 助けようとした だけです」
「忘却屋も そう言ってました」
その一言が 蒼を打った。
目が見開かれた。 データで処理できない衝撃。論理で反論できない痛み。凛花の言葉は データではなく歴史だ。工作室が去年通過した 本物の痛みの歴史。
蒼は 凛花の目を見た。三秒。五秒。
「......僕は 」
言葉が出なかった。蒼の口が動いたが 音にならなかった。
「僕は 違います」
絞り出すように。 だが声に 確信がなかった。
蒼が 踵を返した。階段を降りていった。足音が 速い。歩幅が乱れている。 感情が足に出ている。データの人間が データで処理できない感情に追われて、歩き方を忘れている。
凛花が 階段の上から蒼の背中を見送った。
「凛花」
俺が声をかけた。凛花は振り返らなかった。
「先輩。 言いすぎましたか」
「言いすぎていない。 必要なことを言った」
「必要 ですか。でも 蒼くん、泣きそうでした」
「泣きそうだった。 だが泣いたほうがいい。データで全部解けると思っている人間は 一度壊れなきゃ分からない」
壊れなきゃ分からない。 俺もそうだった。翻訳者のフリが壊れるまで 自分の感情と向き合えなかった。影山もそうだった。忘却屋が壊れるまで 自分の痛みを認められなかった。
壊れることは 更新の前提だ。桐生先輩が言った。「ルールは更新し続けろ」。更新するには まず壊れなければならない。
蒼は 今日、壊れかけた。データへの信仰が 揺らいだ。
「凛花。 蒼が戻ってきたとき。受け入れろ」
「戻って きますかね」
「来る。 蒼は善意の人間だ。善意があるから 壊れても戻ってくる。戻ってこないのは 善意がない人間だけだ」
凛花は 少しだけ 目を伏せた。
「忘却屋のこと 言いすぎたかもしれません。蒼くんは影山先輩とは 違う人間です。同じ構造だとしても 」
「同じ構造だからこそ 言う意味がある。影山先輩のときは 誰も止めなかった。俺も止めなかった。桐生先輩も 止めきれなかった。結果 壊れた。蒼には 壊れる前に言えた。お前が」
凛花が ノートを握り締めていた。三冊目のノート。去年の記録が全部入っている。影山の忘却屋の記録も。工作室が壊れたときの記録も。 凛花は全部知っている。三冊ぶんの歴史を持っている。
「先輩。 私、蒼くんに 影山先輩の話を全部 するべきですか。忘却屋の経緯を。何が起きて、何が壊れて、どうやって更新したか」
「蒼が聞きたいと言ったら 話せ。聞きたいと言わないなら 待て」
「辞書を見せるだけ ですね。答えは渡さない」
「そうだ」
凛花が 頷いた。参謀として。 そして、蒼の一番近くにいる先輩として。
工作室に戻った。三人。 蒼がいない工作室。
陽太が メロンパンを齧りながら、ホワイトボードを見ていた。
「恒一。 重い日だったな」
「ああ」
「蒼 大丈夫か」
「大丈夫じゃない。 だが、大丈夫じゃないことが必要な段階だ」
「壊れる ってやつか」
「壊れかけ くらいだ。完全に壊れてはいない。凛花が止めたから」
「凛花 良かったな。止めるタイミング。遅すぎず早すぎず」
「ああ。 あいつは参謀だ。本物の」
陽太は 窓の外を見た。五月の夕暮れ。海がオレンジ。
「俺たちも去年 同じ道を通ったよな」
「通った」
「影山先輩のとき。 止められなかった。桐生先輩も止めきれなかった。忘却屋が壊れるまで 見てるしかなかった」
「見てるしかなかった。あのときは俺も未熟だった。止める力がなかった」
「今は 凛花がいる。凛花が止められる。 歯車が一つ回ったんだな」
歯車が 回った。桐生先輩が俺を育てた。俺が凛花を育てた。凛花が 蒼を止めた。去年はできなかったことが 今年はできた。
ホワイトボードの前に立った。 マーカーを持った。
「データと翻訳の違い。技術と哲学の違い。 情報を持つことと使うことは別。情報を取得することと取得していいことは別」
書きながら 考えた。蒼に教えなきゃいけないことは まだたくさんある。
だが 俺自身も。
彩音の批判が 頭を離れない。「善意のアマチュアリズムは危険」。 正しかった。蒼が今日やったことは 善意のアマチュアリズムの一つの帰結だ。訓練を受けていない人間が 善意で情報を使う。倫理の線が見えない。
蒼に見えなかった線は 俺にも見えていなかった。蒼の独自行動を「泳がせろ」と判断したのは 俺だ。凛花が止めたから助かったが もっと早く止めるべきだった。
素人だ。 俺たちは素人だ。彩音が言った通り。
素人であることの 自覚。素人であることの 覚悟。
ホワイトボードに もう一行。
「素人であることの自覚。素人であることの覚悟」
マーカーを置いた。
帰り道。堤防沿い。
海が紫に変わっていく。五月の夜。 薄い三日月が出ている。
スマホが振動した。蒼からだった。
『高瀬先輩。 今日は すみませんでした。僕は 間違っていました』
間違っていた と認めている。
『明日 工作室に行ってもいいですか。柊先輩に 聞きたいことがあります。忘却屋のこと』
忘却屋のことを 聞きたい。凛花に。蒼が 自分から歴史を求めている。データではなく 物語を。工作室の過去の物語を。
『来い。 明日も明後日も。ドアは開いてる』
『了解です。 あと先輩。一つだけ』
『何だ』
『データは嘘をつかない と僕は言いました。でも今日 データが嘘をつかなくても、人を傷つけることがある と分かりました。データが正確であることと、データを使っていいことは 別でした。 柊先輩の言う通りでした。先輩の言う通りでした』
蒼の言葉が 整理されていた。感情は乱れたはずだが メッセージは論理的だった。蒼なりの処理法。壊れたデータを修復するように 言語化して保存する。
『蒼。 気づけたなら、それでいい。明日 凛花に聞け。忘却屋のこと。工作室が壊れたこと。 全部聞いていい。凛花が辞書を見せてくれる』
『辞書を ですね。答えではなく。了解です』
辞書。 蒼の語彙に「辞書」が定着している。
スマホを閉じた。
堤防の上。三日月の細い光が 海面に映っている。
蒼は戻ってくる。 明日。壊れかけたまま。 だが壊れたことを自覚して。自覚があれば 更新できる。
蒼の問題は 凛花が見る。
俺は 俺のことを見る。凛花がそう言った。「先輩は先輩のことを見てください」。
俺のこと。 素人であることの自覚。彩音の批判。翻訳と操作の境界。 そして。
翻訳者にも翻訳できない 名前のない感覚。
彩音を見たときの あの感覚。
海を見た。 三日月の光が水面に揺れている。波が 穏やかだ。凪に近い。だが完全な凪ではない。
完全な凪は 存在しない。水面が静かでも 海の底で潮は動いている。
俺の中でも 何かが動いている。名前のない何かが。
名前は まだ。
でも 動いている。
歩き始めた。家に向かって。
明日 蒼が来る。凛花が辞書を見せる。陽太がメロンパンを渡す。俺が 。
俺は 工作室のドアを開ける。
いつも通りに。




